不死の仙薬・丹薬:即身仏のために

水底へ洩れる光や夏木立  高資  龍神宮・群馬県伊勢崎市竜宮

http://miuras-tiger.la.coocan.jp/ryugu.html   【竜宮城 - 浦島太郎と蓬莱山幻想】より

蓬莱山と浦島子

 お伽草子に描かれる以前、浦島太郎は浦島子という名前でさまざまな作品に登場する。しかも、その浦島子の物語は民間伝承としてあったのではなく、古代中国の神仙思想の影響を濃厚に受けた神仙伝奇小説としてあり、その発生は七世紀後半の文人官僚伊預部馬養によって創作された文学作品だった。その原文は現存しないが、馬養の作品を元にしたという『丹後国風土記』(逸文)が残されており、他にも『日本書紀』雄略天皇二十二年条や『万葉集』巻九の長歌(高橋虫麻呂作)など八世紀の文献をはじめ、平安時代には『続浦島子伝記』など幾種もの漢文伝や歌論書・説話集などに伝えられている(詳細は前掲拙著『浦島太郎の文学史』参照)。

 時代や作品により少しずつ違いはあるが、『丹後国風土記』によってその内容を紹介すると、--風流士である浦島子が海に出て五色の亀を釣り、船の中に置いて眠ると、亀はきれいな女に変身する。女は自分は仙界の者で風流な浦島子に感応して来たと言い、浦島子を誘って不老不死の蓬莱山に連れて行く。彼は仙女とともに、蓬莱山で三年間の官能的な結婚生活を送るが、その後故郷の両親が恋しくなって帰郷を申し出ると、女は別れを嘆き、もどってきたいと思うなら決して開けてはいけないと言って「玉匣」を授ける。故郷にもどった浦島子は、土地人の話によって地上では三百年もの時間が経過していたことを知り、驚きのあまりに約束を忘れて玉匣を開けると、若々しかった肉体は風雲とともに天空に翩り飛んでしまった、という内容である。

 この、浦島子の肉体が地上から消滅するという結末は神仙思想における「尸解仙」の観念に基づくもので、浦島子が仙人として再生したことを示す表現である。平安時代の漢文伝などでは瞬間的な老や死が描かれてゆくが、それらはいずれも、地上の時間と異界の無時間との差異あるいは断絶を象徴する語り口であり、この物語が時間観念と不老不死への願望を濃厚に漂わせた作品だったということを示している。また、仙女との官能的な生活を描くことにも主題の一つがあって、『続浦島子伝記』の描写にはそれがうかがえるし、馬養の原作もそうした要素が強かったとみてよさそうである。

 ここに登場する蓬莱山は、古代中国で東海の彼方にあると幻想された神仙の住む永遠の世界であり、そこには不死の仙薬があり、神仙たちが永遠の齢を保って生きていると考えられていた。そして、人間も鍛練と丹薬(主に金と水銀を調合して作る秘薬)の服用などによって仙人になれるというのが神仙思想であり、古代日本においても七、八世紀の天皇や貴族たちの間でそうとう流行していたらしい。そうした時代状況と呼応するかたちで、蓬莱山へ向かう浦島子の物語は発想されたのである。

 その蓬莱山へは、『丹後国風土記』によれば、船の中で仙女に言われて目を閉じると瞬間的に到着したと語られているが、着いたところは「海中の博く大きなる島」だったという。そこが海底ではなく大海原の真っ只中に浮かぶ島だというのは、出迎える少女たちが昴星や畢星など星の精だということからもわかる。たぶん、海と空とが接する水平線の彼方に蓬莱山は幻想されているのである。また、『万葉集』の浦島子歌では「常世の国」へ行ったとされているが、『古事記』のスクナビコナ神話やタヂマモリ説話(垂仁記)などから考えると、常世の国も、水平線の彼方にある永遠の世界であり、下出積與によれば、この神話的な理想郷も神仙思想の影響によって幻想された異界だったらしい(『古代神仙思想の研究』吉川弘文館、昭和61年6月)。

 そうした永遠の世界として水平線の彼方に幻想された蓬莱山や常世の国へ向かった浦島子が中世になって浦島太郎と呼ばれるようになるとともに、訪問する異界も竜宮城と呼び換えられることになったのである。

    蓬莱山から竜宮城へ

 竜宮という異界は、『法華経』提婆達多品に「その時、文殊師利は、……大海の娑竭羅竜宮より、自然に涌出して、虚空の中に住し」とあるように、仏典によって日本に伝えられ、仏教説話集によって広がったものらしい。十世紀末に書かれた『三宝絵詞』上巻「精進波羅蜜」に描かれたブッダの本生譚に出てくるのが古い例である。それは、波羅奈国の大施太子が人民の困窮を救おうとして艱難辛苦を乗り越えて竜宮にいたり、竜王から「如意珠」を譲り受けて帰るという説話である。以降の説話集に登場する竜宮も、あらゆることを自在に操ることのできる如意宝珠のある世界として語られることが多い。つまり、竜宮は、昔話「竜宮童子」や「聴耳頭巾」などのように、恩返しと結びついて呪宝や富を与えられる海中の世界であり、そこに、永遠の異界である蓬莱山によって描こうとした不老不死=超時間が語られることはほとんどないのである。

 たとえば、『今昔物語集』巻16-15「観音に仕ふる人、竜宮に行きて富を得たる語」によれば、信心深い若者が京の郊外で寺々を廻っていた時、蛇を掴まえるのを商売にする男に出会い、乞うて蛇を買取り池のほとりに持っていって放してやる。すると若い女が現れ恩返しをしたいと言い、若者を連れて池から竜宮に入ってゆく。そこで大歓迎を受けた後に、女(蛇)の父親である竜宮の主から金の餅をもらう。

    「己れはこれ竜王なり。ここに住みて久しく成りぬ。この

  喜びに如意の珠をも奉るべけれども、日本は人の心悪しくて

  持ち給はむ事難し。然ればそこにある箱取りて来れ」と云へ

  ば、塗りたる箱を持て来れり。開くをみれば、金の餅一つあ

  り。厚さ三寸許りなり。これを取り出して中より破りつ。片

  破をば箱に入れつ。いま片破を男に与へて云はく、「これを

  一度に仕ひ失ふ事なくして、要に随ひて片端より破りつつ仕

  ひ給はば、命を限りにて乏しき事あらじ」と。

 その一晩たてば元の大きさに回復する黄金の餅をもらって地上に帰った男は、約束どおりに少しずつ使って一生安楽に暮らすことができたという。ここに描かれているのは典型的な報恩型の致富譚であり、竜王の支配する竜宮には不思議な宝物があるということが強調されるだけで、浦島太郎の行った竜宮城のように無時間的な世界ではないし、乙姫だけが住む女護ヶ島のようなところでもない。ただ、この説話では、地上に帰った時の様子が、

    男は家に返り来れば、家の人の云はく、

   「何ぞ久しく返り来らざりつる」と。

    暫くと思ひつれども、早う□日を経にけ

   るなりけり。

と語られていて、竜宮が地上にくらべて時間の経過がゆっくりしていると認識されていたということはわかる。しかし、それも数日でしかなく(数字の部分が一字分欠字になっている)、浦島太郎の場合のように、七百年もの時間の差異が生じることはない。

 おそらく、ここに描かれているような報恩と致富というモチーフをもつ竜宮訪問譚が平安時代以降ひろく伝えられるようになり、その影響で、浦島太郎の訪れる異界も蓬莱山から竜宮城へと変化していったのである。そこには、『古事記』の山幸彦(ホヲリ命)のワタツミの宮での三年間の淹留と結婚、海神にもらった呪宝によって兄海幸彦の服属を語るワタツミ訪問神話などの影響もあるかもしれない。この神話にも超時間の経過が描かれることはないし、その所在は竜宮とおなじく海底である。

 この、中世に生じた蓬莱山から竜宮城への移行は、古代の浦島物語のもっとも重要な主題である<永遠性>を希薄にするものであった。だから、お伽草子『浦島太郎』の竜宮城では、<四方四季>の景を取り込むことによって無時間的な理想郷を描かなければならなかったのだし、海底にあるはずの竜宮城が、蓬莱山の像を引きずるかたちで、お伽草子や『日本昔噺』の「浦島太郎」にあっては水平線の彼方に幻想され続けることにもなったのである。しかも、竜宮でありながら竜王は不在のままだし、富をもたらす竜宮の呪宝の代わりに、従来どおりの永遠の命(魂)を保管する開けてはいけない玉手箱を与えるために、発端に描かれる報恩モチーフや他の竜宮訪問のパターンとずれてしまうのである。そこに生じたいささか不自然な展開は、竜宮がもともと浦島太郎の出かける異界ではなかったということの証しにもなろう。

 昔話「浦島太郎」に対して誰もが感じる、「いいことをした浦島さんが、なぜ、老という残酷な結末を与えられるのか」という疑問には、報恩モチーフをともなう竜宮訪問を接合することによって生じた、浦島物語の本来的な主題との乖離に原因があるだろうと答えるしかないのである。

蓬莱や霞立ちたる室根山  高資

槌音の木霊や霞む室根山  高資

修験道の信仰対象 室根山 … 死んで蘇る霊山は蓬莱と言えるのでしょうか? 

日本のハーブといわれる蓬(=蓬莱とも読めます)は もしかしてミイラなどの保存に使われる没薬の原料ではないのでしょうか?ミイラ化した遺体から水銀も検出されているそうですし、不老不死とはミイラになって存在し続ける?ことなのでしょうか  供物もこの世でのごちそうをあの世でも食することを願ってささげると言いますし~~ 不老不死の妙薬とは輪廻の鎖からの解放を意味するのでしょうか?

http://www2.otani.ac.jp/.../2002bunka/0112004/daiissyou.html

【世界に存在するミイラ】より一部抜粋

チベットのポタラ宮殿には、ダライ・ラマやパンチェン・ラヤの、金色の仏像のように仕上げられたミイラがある。その他、中国にも「肉身仏」や「真身仏」と呼ばれる、入定ミイラがある。

https://xn----kx8an0zkmduym9n8d1hn.jinja-tera-gosyuin-meguri.com/category/%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1%E3%83%BB%E5%A5%A5%E3%81%AE%E9%99%A2/%E3%81%82%E3%81%AE%E7%A9%BA%E6%B5%B7%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%EF%BC%9F%EF%BC%81%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1%E3%83%BB%E5%A5%A5%E3%81%AE%E9%99%A2%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%8D%B3?fbclid=IwAR0ZNX1nkuHePLefJ7JQQQy_jy-LgFYXG38kQyC8wcBWRXWnpvkKqX0ODFg

【あの空海が生きていた?!高野山・奥の院の即身仏とミイラ伝説と「奥の院・御廟の地下室の謎」】  より

真言密教では「入定(にゅうじょう)」と呼ばれる究極の修行方法があり、空海(弘法大師)は、835年3月21日62歳の時に「入定」されたと伝えられています。

入定とは?

入定とは、真言密教における究極的な修法の1つであり、生きながらにして仏になるために永遠の瞑想に入ることです。

奥之院の「即身仏」と「ミイラ伝説」

あの空海が生きていた?!高野山 奥の院 即身仏とミイラ伝説と院御廟の地下室の謎※燈籠堂内はもとより、御廟橋から先は写真撮影は禁止です。写真はお借りしたものです。

「今昔物語」によると、空海が入定してから75年後、高野山の寺伝では86年後となる921年(延喜21年)10月27日に、醍醐(だいご)天皇より諡号(しごう/=送り名)の”弘法大師”を下賜されています。

この知らせを高野山へ伝えるために当時、「東寺(とうじ)」の長者であった「観賢(かんげん)」が高野山の大師が座する御廟(ごびょう)へ向かうことになります。

ちなみに東寺とは「とうじ」、もしくは「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」と読み、現在の京都駅付近に位置する同じ高野山の宗派の寺院です。

当時の高野山は東寺の管理下に置かれ、つまりは東寺より低い地位が位置づけられていました。

報告へ向かった観賢は無事に大師の座する御廟まで辿り着き、岩窟である御廟の石扉を開いて石室へ入ったところ、以下のような言葉を残しています。

『まるで大師(空海)が生きているように座るお姿があった』

その後、観賢は大師の伸びきったヒゲと毛髪を剃りあげ、醍醐天皇から賜った「袈裟(けさ)」を着替えさせたと伝えられています。

しかし、大師・空海が入定したのが62歳の時です。

62歳から75年後というと、計算上では137歳という途方もない年齢になります。

しかし、真相は誰も知りませんし、依然、不明のままです。

このような伝承や、真言密教の教えである「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」という言葉の意味の取り違えなどから、奥之院には弘法大師の「即身仏」や「ミイラ」があるなどの伝説が生まれたものと思われます。

即身成仏とは?

即身成仏とは「人は生きながらにして仏になれる」とする大師の教えの1つであり、密教における究極の奥義となります。

「生きながらにして仏」とは、すなわち「死」や「滅び」と言う概念がなく、肉体を現世に残しながら瞑想を行い、大日如来と波長を合わせることで仏になれることを意味します。

ちなみに、このような即身成仏の概念は、奈良時代の中国・唐の高僧「不空金剛(ふくうこんごう/「不空三蔵」とも呼ばれる)」が著した「菩提心論(ぼだいしんろん)」に初めて登場した言葉であると云われます。

「入定信仰」の誕生

上述したように観賢が残した言葉は時の権力者「藤原道長」の耳にも入ることとなり、急速に日本中に伝播していくことになります。

この頃から、「大師は135歳となっても、世の安寧と人々の幸福を祈り続けている」と言う信仰が人々の間で生まれ、やがてこの信仰は「入定信仰(にゅうじょうしんこう)」と呼ばれるようになります。

そして藤原道長自身も辞世の句とも言える句に、後世までに残る有名な一句を残しています。

「ありがたや 高野の山の岩陰(いわかげ)に 大師はいまだ在(おは)しますなる」

これはつまり、135歳となった大師が変わらぬお姿のままで座していることを意味します。

弘法大師・空海の入定の理由

「弥勒菩薩として生まれ変わるため」

弘法大師・空海の入定の理由の1つに、56億7000万年後に「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」の降臨を待ち、その間、自らが仏となって世の全ての衆生を見守り救済するため、・・などというようなことも云われています。

しかし、そもそも弘法大師が「弥勒菩薩信仰」をもっていたのかについても肯定説・否定説があります。

ただ、弘法大師・空海に紐づくとされる「大師信仰」では、大師が弥勒菩薩と同化する、もしくは弥勒菩薩に随従して、56億7000万年後の「末法時代(仏教の尊さを忘れた時代)」と呼ばれる荒廃したこの世に降臨し、一切の衆生を救済するという説(信仰)もあります。

即身成仏となって「永遠の瞑想状態に入るため」

すでに上述の通り、「密教の究極奥義の1つ 」として「即身成仏」があります。大師のお考えによれば、次のように解されます。

『我々をとりまく宇宙をふくめた環境すべては、その体現者たる大日如来の身体や言葉、意識の働きである。その大日如来の動きに同調させることができれば、この身のまま成仏できる。』

これは人間とは本来この物質的な肉体を抱えたままで生きながらに仏となり、仏の智慧を得ることができるということです。

大師はこの論理を理論立てて、実際に「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)」という経典にまとめておられます。

「即身仏」と「即身成仏」の違い

「即身仏」は、平易に言うと「ミイラ」のことを意味します。

しかし、真言宗の「即身成仏」とは、誰もがこの身このまま、この世において悟りを得て仏となることができるという意味になります。

一般仏教でも全ての人が悟れるとしていますが、それは「三劫(さんこう)」という長い長い修業の後に会得するという教えです。

ちなみに三劫の期間とは、のぉあんと!「129億6000万年」のこととされ、一劫はこれを3で割った「43億2000万年」とされています。

このように「即身仏」と「即身成仏」は言葉は似ていますが、「即身成仏」は時間や空間という概念を超越したものと位置付けることができ、すなわちすべてを超越した先にある大日如来の法身と同調するために、永遠の瞑想を行うことを意味するものだと解されます。

即身成仏を即身仏と勘違いしてしまうと、ミイラ伝説が生まれても不思議ではないということになります。

なお、上述した「大師信仰」の広まりから、およそ室町時代を境に大師信仰から派生して、実際に「ミイラ信仰」いわゆる「即身仏信仰」なる信仰も誕生しています。

この影響で現在でも山形県に即身仏(ミイラ)が仏として祀られている寺院もあります。


仏像リンク@butsuzolink

【仏ログ】即身仏部さん開催の映像フィルム上映会「即身仏アフタヌーン」。注目は1959年中尊寺金色堂須弥壇解体。金色の須弥壇の下には1代~4代平泉の権力者だった清原氏のミイラ!ゾクゾクしたけど偉人の姿そのままを見ることができ感動した!


https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver102/

【あなたは即身仏(そくしんぶつ)を知っていますか】  より

「即身仏(そくしんぶつ)」という言葉を耳にしたことがあるだろうか?もしあったとしても、即身仏とは何かと説明できる人は多くないだろう。空海の時代から明治時代にかけて、想像を絶する過酷な修行に挑み、自らをミイラ化させることで時を超えて民衆の救済を目指した人たち、それが即身仏だ。四体の即身仏が現存する鶴岡市を訪ね、それぞれの歩みを追った。

 即身仏ってなに?

 10月某日の夕刻。僕は、即身仏「本明海上人」が安置されている山形県鶴岡市の本明寺を訪ねた。本明海上人が安置されているのは江戸時代に建てられた小さなお堂で、周囲を木々に囲まれた場所にひっそりとたたずんでいる。本明寺からお堂に至る道は苔むしていて、どこか浮世離れした静謐な時間の流れを感じた。

 1683(天和3)年というから今から334年前に即身仏となった本明海上人の口には、いまだに数本の歯が残っている。住職の大坂信快さんによると「歯があるせいか、微笑んでいるように見える、という方もいます」。言われてみれば、確かに微笑んでいるように見える。僕は本明海上人に手を合わせながら、笑いかけた。かなりぎこちなく。

――僕が即身仏に興味を持ったのは、ひょんなことがきっかけだった。ある日、調べ物をしていたら、山形県や庄内地域、そして鶴岡市が観光のPRとして「即身仏を訪ねる旅」を推していることを知ったのだ。

 当時、即身仏ってお坊さんのミイラ? 程度の曖昧な知識しか持ち合わせていなかった僕は、行政が即身仏を観光の目玉として扱うことに驚くと同時に、にわかに興味が湧いた。調べてみると、日本には二十体前後の即身仏が現存しており、全国に散在しているなかでも鶴岡市内には四体あって、鶴岡市周辺が即身仏信仰の中心地だったことがわかった。

 近年、仏閣巡りや仏像の展示が人気を集めているが、同じ仏様である「即身仏」にはほとんど光が当たっていない。でも、よくよく考えれば生身の人間が文字通り成仏して場合によっては数百年間も祀られているのって、すっごくユニークな日本の歴史ではないですか!?

 即身仏ってなに? その答えが知りたくて、僕は鶴岡市に足を運んだ。

 空海の影響力

大日坊瀧水寺の仁王門。ここは鎌倉時代に創建された。

 最初に向かったのは「湯殿山総本寺 大日坊瀧水寺」。807年に弘法大師・空海によって開創された真言宗の古刹で、空海自作の御本尊を有している。徳川将軍家の祈願寺であり、春日局が参詣した寺としても知られる。ここに安置されているのが、「真如海上人」の即身仏だ。第95世貫主の遠藤宥覚さんは、即身仏の由来から教えてくれた。

 遠藤貫主によると、鶴岡市を中心とした庄内地域に即身仏信仰が根付いたのは、鶴岡にある出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)のうち、湯殿山に由来がある。真言宗の開祖、空海によって開かれた湯殿山は、真言密教の修行の聖地となった。その後の853年、62歳の空海は高野山の奥の院で「入定」した。

 入定とは真言密教の修行のひとつで、精神を統一し、無我の境地に至るために瞑想することを指す。この後、生きた空海の姿を見た者はいないが、高野山奥の院では現在も空海が祈りによって人々を救っているとされ、毎日、衣服や食事が給仕されているそうだ。

大日坊瀧水寺の本堂。数々の宝物が収められている。

 空海の影響力は湯殿山に強く残り続け、やがて庄内地域を中心に即身仏信仰が生まれる。庄内を含む東北の農村地帯は昔、食糧難に悩まされた地域で、飢餓に苦しむ民衆が後を絶たなかったため、空海と同じように入定し、生命の限界を超えて民衆を救うことを目指す僧侶が現れ始めたのだ。日本にはおよそ二十体前後の即身仏が現存しており、そのうちの半数以上は湯殿山で修業した僧侶とされる。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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