http://gachirinji.com/2016/10/05/%E7%A9%BA%E6%B5%B7%E3%81%AE%E5%90%8D%E8%A8%80%E3%80%8E%E6%80%A7%E8%96%AB%E6%88%91%E3%82%92%E5%8B%A7%E3%82%81%E3%81%A6%E9%82%84%E6%BA%90%E3%82%92%E6%80%9D%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%99%E3%80%8F%EF%BC%8810/ より
【空海の名言『性薫我を勧めて還源を思いとす』】
1 暗中模索した若き日の空海とは?
今回の言葉は、出家前の空海の苦悩を表すものです。より正確に言うと、晩年に空海が若き日の自分を振り返り、唐に渡る前の状況や心情を述べたものです。
前回の『虚往実帰』との関連で言うと、『虚往』の二字に込められた、暗中模索した時期の心情を振り返った言葉と言えるでしょう。
弘法大師空海は、誰が見てもスーパーマンのような人だと思います。私たちから見ると、弘法大師空海は偉大すぎて、苦悩と無縁だったようにも感じてしまいます。
とりわけ入定後、超人離れした伝説なども付加され、仏・僧としての弘法大師は強調され、人として空海は、より一層見えにくくなりました。
このような中で、今回取り上げる言葉は、空海の若き日の苦悩に触れる、数少ない言葉の一つだと言えるでしょう。
もちろん、後世の人が、ましてや偉人の苦悩に近づくには、いろいろな意味で限界があるでしょう。
しかし、今回取り上げる言葉や、その言葉の背景にある歴史的事実から、入唐前に空海が歩んだ暗中模索の日々を知ろうと努めることは、空海の名言を今後知ってゆく上で避けては通れないことのように感じます。
そのため、今回(そして次回も)は、暗中模索した若き日の空海に迫りたいと思います。
2 『性薫我を勧めて還源を思いとす。経路未だ知らず。岐に臨んで幾たびか泣く。』
前置きが長くなってしまいました。
では、今回の名言を見ていきたいと思います。
先に、読み方や意味などを確認します。
『性薫(しょうくん)我を勧めて還源(げんげん)を思いとす。経路(けいろ)未だ知らず 岐(ちまた)に臨んで幾たびか泣く。』(注1)
『性薫(しょうくん)』とは、『誰にでも備わっている本来の仏こころ』を指し、
『還源(げんげん)』とは、『本源に還る』という意味です。
『岐(ちまた)』は、『分かれ道』のことです。
全体では、『私の中の生まれながらに備わっている本来の仏こころが動き出して、本源に還りたいとの思いを強く抱くようになった。しかし、どの道に進むべきか分からず、分かれ道を目の前にして何度泣いたことだろう。』といった意味になります。
強く望んでいる『本源に還る』こととは、本源的な秩序、迷いのない覚り澄ました世界に還っていくことであり、悟りを得ることと同義であるとされています(注2)。
この一節から、空海は、全ての人は、もともとこの覚醒した悟りの世界に帰属していたが、心の無明に惑わされて迷いの中にいる、と考えていたことが分かります。
空海は、無明により曇っていた心が晴れて、もともとの仏のこころが動き始めるきっかけになった強烈な経験をした、とされています。この強烈な神秘体験に関しては、次回取り上げたいと思います。
空海の中にある、もともとの仏のこころが空海に対して、澄んだ悟りの世界に還ろうと勧めるけれども、当の空海はその道が分からずに何度も泣いた、というのです。
もちろん、空海が本源へと還る道と考えたのは、今でいう密教です。
しかし、当時、我が国には、密教経典は入ってきていたものの、系統だって持ち込まれたものではありませんでした。さらに、密教という概念すらなかったともされています。
その状況の空海の思いたるや、どのようなものだったのでしょう。
その状況の空海の心情を察する一つのエピソードがあります。
空海が、後に唐から持ち帰った経典は、そのほぼ全てが当時の日本になかったものでした。(注3)
つまり、空海は、入唐前に日本にある経典とをほとんど把握していたことになります。
ちなみに、空海よりも前に中国から戻ってきた玄昉(げんぼう)が持ち帰った仏典だけでも5000巻を超えています。
皆さんなら、この事実から、空海の心情をどのように解釈しますか?
この事実を、多くの識者が、空海の偉大さに焦点を当てて論じているように感じます。
確かに、空海が日本にすでに伝来している経典を整理した上で、唐に渡られたことは、後の平安仏教の確立に寄与します。
しかし、それは結果であって、当の空海ご本人から見ると、その結果に至る地道な過程は、「道が分からずに、何度も泣いた」以外のなにものでもなかったのです。ちなみに、日本にあったあらゆる仏典を探し、整理し続けた日々は、少なくとも24歳から31歳の7年間以上であることを知ると、少しリアリティをもって捉えることができるように思います。
さらに空海は、「悲しい」という表現はよく用いていますが、「泣く」という表現は、ここでしか用いられていません。
となると、「悲しい」といった日頃用いる表現ではなく、「泣く」という全く使ってこなかった言葉でしか表現し得なかったお気持ちがあったと推察できます。
ここでの「泣く」という言葉は、私たちが日常用いる「泣く」ではなく、空海にとって格別に重い表現であることを忘れてはいけないのでしょう。
この「泣く」には、悟りを求める血を吐くような思いが込められているという識者もいます。
『性薫我を勧めて還源を思いとす。経路未だ知らず 岐に臨んで幾たびか泣く。』
空海は、この言葉にどのような思いを込め、私たちに何を伝えたかったのでしょうか。
この言葉に、人としての空海の苦悩を感じ、空海を身近に感じた方もおられるでしょう。
この言葉を、空海からの励ましの言葉と受け止める方もいらっしゃるかもしれません。
この言葉に秘められた歴史的事実を知って、空海の凄みを再認識された方もいらっしゃるかもしれません。
はたまた、密教受法に至る、血を吐くような過程に思いを馳せる方もいらっしゃるでしょう。
皆さんは、空海が遺したこの名言を、どのようにお感じになりましたか?
さて、次回は、空海の中にあった仏こころが動き始めるきっかけになった強烈な体験を、空海の名言とともに取り上げたいと思います。
副住職 樫本叡学
http://www.kongosanmaiin.or.jp/attractive/
【金剛三昧院の魅力】 より
野山と和歌山県熊野、奈良県吉野と各参拝地を結ぶ参詣道を含めた一帯は、平成16(2004)年7月1日、「紀伊山地の霊場と参詣道」という名前で世界遺産に登録されました。
高野山においては街全体が世界遺産登録されたわけではなく、主に歴史的建立物としての価値が高い6ヶ所が登録されています。
高野山の玄関口、大門
弘法大師空海が開いた多くの堂塔が立ち並ぶ壇上伽藍
高野山真言宗の総本山、金剛峯寺
弘法大師空海が即身成仏された御廟並びにそこに至るまでの参道に多くの墓がある奥の院
徳川家康と秀忠をまつる東照宮である徳川家霊台
上記の5つは総本山金剛峯寺が管轄する建物なのですが、残る一つである金剛三昧院は塔頭(たっちゅう)寺院として唯一、選ばれた寺院となります。
金剛三昧院
なお、塔頭寺院とは総本山の境内(昔は高野山の山全体を金剛峯寺と称していた)にある寺院で、住居や隠居した僧侶の僧房として建てられた子院のことです。
800年の歴史
高野山金剛三昧院は、建暦元年(西暦1211年)、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝公の菩提を弔うために、その妻で尼将軍としても名高い、鎌倉二位禅尼・北条政子が創建しました。始めは禅定院と称しており、落慶法会には、日本臨済宗の開祖である、明庵栄西禅師を請じ入れ、開山第一世としました。
承久元年(1219年)、三代将軍実朝公の逝去にともない、その遺骨を納め、禅定院を金剛三昧院と改めました。かくして、幕府の重臣安達景盛が建立奉行となって堂塔の増建を進め、大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂など、一大伽藍を造営し、数多くの子院を建立しました。
天福二年(1234年)、初代の長老に、栄西禅師の高弟で鎌倉将軍家の優れた僧であった、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)上人が任ぜられ、密教・禅・律の三宗兼学の道場となりました。そして後には浄土教も兼学し、一山において特殊とも言える教学を宣揚しました。以後十二代住職である實融上人までは、禅宗系の住持が長老を務めてきました。
当院を作った奉行の一人、願性(俗名葛山景倫)は、安貞元(1227)年に興国寺(和歌山県由良町)を創建、そして住職、心地覚心(法燈国師)のもとに下山し、臨済宗妙心寺派であるこの寺に、禅宗の機能を移しました。
それ以降、当院は高野山真言宗の寺院として続いています。
嘉禎四年(一二三八)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納めました。
弘安四年(一二八一)、北条時宗は秋田城介安達泰盛を奉行に任じ、院内に勧学院・勧修院の二院を造営、僧侶の学道研鑽の道場としました。勧学院は、文保二年(一三一八)、後宇多法皇の院宣により、伽藍蓮池の東隣に移建されましたが、ここで執り行われた勧学会は高野山学道の中心となり、今日に至るまで連綿と伝持されています。
その後も、幕府の手厚い保護を受け、源家の他、北条・足利・安達等の有力な武家の帰依がことのほか篤く、各氏の菩提寺となり、事実上,山内諸寺院を統轄する有力な寺院に発展しましiた。
寺領も山内寺院中最も多く、河内国讃良(ささら)荘、筑前国粥田(かいた)荘、美作国大原保、紀伊国由良荘、和泉国横山荘など、諸国の荘園は一五ヵ所・十万余石に達しました。また、醍醐天皇の御臨幸(天皇陛下にご同行して、その場に向かうこと)を始め、皇族・公家の参籠、武将の来院も多く、高野山内格式随一といわれ、第五十六世長老の現在に至っています。
当院は、他の寺院とはやや離れた小田原谷の最南部の山腹に位置するため、山内の大火のたびにも類焼を免れ、創建当時の多宝塔や経蔵等、山内でも数少ない鎌倉時代の遺構が現存しています。
https://www.ensenji.or.jp/contents/category/believe/ 【妙見菩薩と妙見信仰】
紀元前数千年前、元々は現在のイラクやイランに栄えた古代アッシリアやバビロニアの砂漠の遊牧民が方角を確認するために北極星を神として信仰し、遊牧民を経て、中国に伝わりました。
中国においても、北辰信仰は、紀元前二千数百年前の堯・舜(伝説の王の名・夏の前)の時代に記録されているという。
北極星の信仰が古代中国に伝わり、道教などの星信仰と習合していきます。
北極星は、道教においては、天帝太一神の居所であり、北辰を北極大帝、北極紫微大帝、玄武大帝もしくは北極玄天上帝などと称し、最高神である玉皇大帝の命をうけて星や自然界をつかさどり、天界、人界、冥界の三界を総宰する神格とされるようになりました。
仏教では「七仏八菩薩諸説陀羅尼神呪経(妙見神呪経)」として組み込まれました(正倉院の写経請本帳(736 年)にこの経もみえる)。「妙見」とは仏典を根拠とする言葉です。 妙見菩薩とは、北極星、北斗七星を神格化した仏様のことです。
菩薩とありますが、天部の仏様です。
玄武は中国の四神(青竜、朱雀、白虎、玄武)のひとつで、北方の守護神といわれ、五行説で北は水に属します。
宋(960 ~ 1279)の時代(1014 年)には諱避(いひ)のために真武と名を変えました。
「宋真宗大中祥符七年(1014 年)加封為翌聖保德真君後為避聖祖趙玄朗之諱改玄武為真武」
※玄=色では黒を表す。(玄は、げん、くらい、くろ、くろいと読む) 真武大帝(しんぶたいてい) Chinese mythology ホームページより。 四聖獣のひとつ玄武(げんぶ)の神としての姿。真武神、裕聖真君、玄天上帝など別名を多く持つ。黒の衣をま とい、七星剣を持ち、亀と蛇を踏む姿で表される。北方を守護し、水神、武神でもあり、北斗七星とも関係が深 い。
特にこの神は南方での人気が高く、ベトナムや台湾では最高神の扱いをうけているという。「北遊記」(注: 東西南北の物語が作られ、特に西遊記が有名)では主人公として活躍する。 藤山
天皇大帝(てんおうだいてい)ともいわれ、日本の天皇号も宇宙最高神の権威の象徴として成立した。
七世紀に高句麗、百済などの渡来人により伝わったようです。
最初は渡来人の多い関西以西の信仰だったようでが、天智天皇以降に渡来人を強制的に関東に移住させたために関東に妙見信仰が伝わりました。
妙見様は、北斗七星の第七番目の星が、破軍星と言われたために武門に信仰され、山口市の大内氏は氷上山興隆寺を厚く敬いました。
特に桓武平氏の千葉氏系は妙見信仰で強い絆を持ち、鎌倉幕府設立には大きな力になりました。
一族は日本各地に広がり、各地に妙見菩薩を勧請しました。
現在も千葉神社を中心に千葉県内には妙見菩薩を祀る約400 の寺社があるようです。
福島県の野馬追いで知られる妙見三社などがよく知られています。 他に、秩父氏では埼玉県の秩父神社が知られています。
鎌倉末期天台教学と融合した山王信仰が説かれた。山王七社は北斗七星でもあり、庚甲・北斗・山王信仰との関係が密接です。
江戸時代には、妙見信仰が日蓮宗に広がり、特に大阪府豊能郡能勢町の能勢妙見が有名です。
京都では昭和61年に日蓮宗を中心に洛陽十二支妙見が再興されました。
北辰鎮宅霊符神として祀られているところもあります。
地域によっては水神、鉱物神・馬の神としても信仰されたました。隠れキリシタンは妙見を天帝として祀ったこともあったようです。
水神として祀っている地区(高知県・熊本県など)。
水天を妙見と取り違えて祀ってあるところもあるようですが、どこかは分かりません。摩耗したら判断がつかないでしょう。
※水天も亀蛇に乗る。
めうけん(妙見)はきたのきたにぞおはします 衆生ねがひを満てんとて空にはほしとぞみえたまふ 「梁塵秘抄」
自治体単位で現在調べたところもっとも多いのは、広島県福山市の32ヶ所。
妙見山(山号)、妙見寺とあっても、現在は祀られていないところもある。
有名な所千葉神社(千葉氏) 能勢妙見(兵庫県) 八代神社(熊本県) 秩父神社(埼玉県) 足立山妙見宮御祖神社(北九州市) 相馬野馬追(福島県、相馬中村神社・太田神社・相馬小高神社)
妙見菩薩の本地仏は十一面観音(真言宗)、七仏薬師(天台宗)とされている。
伊勢の天台宗常明寺にて日蓮上人の前に妙見菩薩が示現したという話しは、本化別頭高祖伝(1720 年)にある。
亀の中国思想史(永谷恵氏)が面白い。 http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/students/04/nagatani.html
「阿裟縛抄」第六の「妙見」に「帖に云わく。北辰は妙見なり。又尊星王と云う是なり」とある。
『山書月報』の谷有二氏の解説に「地中の埋蔵鉱物は、空の星が降って地の中で育つと信じられた時代があった。
そこで北極星、つまり妙見が鉱山師の信仰を受けるようになったらしい。
その妙見を祀る山が、妙見山である」という。
※石見銀山(世界遺産)は延慶2年(1309)周防国守大内弘幸が日頃信心する妙見神のお告げにより銀山を発見された。
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廃仏毀釈・神仏分離の影響
古事記、日本書紀にただの一度だけ記されている神である天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、道教の天帝の思想を取り入れた神とされているようだ。天の真ん中の神(北極星)。
明治維新において、平田篤胤の国学の影響は大きく(彼の国粋主義思想だけがとくにとりあげられ、明治政府の国家神道をささえる思想的柱となった。先祖は平将門とし、篤胤が祀ったの将門像は神田明神にある。)、廃仏毀釈の嵐は想像を絶するものであったようだ。神仏分離の布告(明治3年・1870)により、多くの寺院が破壊されたり神社に変えさせられた。神社の仏像仏具は破棄されるか、ひっそり祀られていたり、近くの寺院に納められた。修験や普化宗(虚無僧)は廃止させられた。
伊勢神道では妙見菩薩(みょうけんぼさつ)を天御中主神に配当し、渡会(わたらい)家の氏寺である伊勢の常明寺の境外仏堂に祀っていた。(現在はよみうりランドの妙見堂に祀られている。東京都稲城市矢野口)天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を本居宣長(1730-1801) 天の真ん中の坐々して世の中の宇斯(うし・家のような?)たる神平田篤胤(1776-1843) 天地万物の主宰神、北斗七星の神としてとらえた。復古神道においては天御中主神は最高位に位置づけられている。明治に大教院が祭神と規定し、妙見菩薩は、天御中主神などとして祀られた。妙見堂は、地元の名を冠した神社や星宮神社などと呼ばれるようななったり合祀された。福島県の相馬藩内では、初発(はじめ)神社と改名された。
※星宮は古くからあるが道教の星宮(せいきゅう)も関係しているのではないだろうか。(例・永楽宮壁画) 「勾陳、即勾陳星宮天皇大帝、也稱紫微天皇大帝、是後世用以代表(赤極)的. 顆星、居北極前隅、…」
◎埼玉県山西省友好記念館「神怡館」(しんいかん)に永楽宮壁画の模写があります。入れ替えがありますので 確認を取ってください。仏宮寺釈迦塔縮小建築模型など、すごい展示品ばかりです。いつもすいています。 埼玉県秩父郡小鹿野町薄2245 TEL:0494-79-1493 休館・火曜日
※福岡県久留米市の水天宮は、廃仏毀釈後に水天から天御中主神に代えられた。祭神として現在水天としては祀られていない。ここより全国に勧請された水天宮も同様である。また、天御中主を祀る神社では、妙見菩薩とまったく関連がない神社〔例:日野市の日野宮神社(日野宮権現:本地仏・虚空蔵菩薩)〕も多い。元の祭神・本尊がわからなくなっている場合もある。なかには創建当時から天御中主神を祭神として祀ったように記載している神社がある。天御中主神を祀ったのは、廃仏毀釈以降がほとんどのはずで、それ以前に祀ったところがどれだけあったのだろうか。妙見菩薩との関係を意識的に隠している神社もある。
星宮神社は栃木県が一番多いようだが(祭神は天御中主神・いわさく・ねさくなど)、日光修験の関係で元は虚空蔵菩薩です。水戸学の影響が色濃く残ったところに星宮神社が多くあるようです(栃木県神社庁HPの質問に対する答えの一部)。※ウナギが虚空蔵菩薩の使いとして、氏子や信者は食べないという習慣が残っているところが多い。
(略)
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