弥山

宮島・白糸の滝

まづ滝を海へ見送る冬紅葉  高資

やがて散る紅葉に滝の響きかな  高資

わたつみへ廻る垂水や冬紅葉  高資ー 場所: 世界遺産日本三景「宮島・弥山」への空中散歩 宮島ロープウエー

http://www.miyajima-wch.jp/jp/miyajima/04.html

宮島ゆかりの人々

◆空海 宝亀5年~承和2年(771年~835年)

宮島の主峰であり、太古から山岳信仰の対象とされてきた霊峰弥山は、大同元年(806年)、弘法大師空海によって開かれたと伝えられます。延暦23年(804年)、留学僧として最澄らと共に遣唐使船で唐に渡り、真言密教の奥義を極めて帰朝。翌年にこの地に立ち寄り、三鬼大権現を勧請。護摩を焚いて100日間に及ぶ求聞持(ぐもんじ)の秘法を修したといわれ、弥山山頂にはこのとき使われた火が「消えずの霊火」として守り継がれている霊火堂をはじめ、弥山本堂や三鬼堂、曼荼羅岩、錫杖の梅など弘法大師ゆかりのお堂や不思議な伝説が数多く残っています。

◆平清盛 元永1年~治承5年(1118年~1181年)

平安時代末期、「平家にあらずんば人にあらず」といわれた時代を築いた平氏の総帥平清盛は、宮島と最も縁の深い人物です。久安2年(1146年)、安芸守に任ぜられた平清盛は瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげる一方で、夢枕に立った老僧から「嚴島神社を造営すれば、きっと位階を極めるであろう」という示現を受け、宮島を深く信仰。今日みられるような荘厳華麗な海上社殿を造営したほか、京の文化や大阪四天王寺の舞楽を伝え、数々の美術工芸品や平家納経を奉納しました。島の人々の清盛への愛着は深く、昭和29年(1954年)には、清盛公の偉績をたたえ、その霊をお慰めするために清盛神社も建てられています。

◆毛利元就 明応6年~元亀2年(1497年~1571年)

戦国時代、中国地方のほぼ全域を支配した名将。元就も歴代の為政者と同様、嚴島神社を深く崇敬しました。弘治元年(1555年)、日本三大義戦として名高い厳島合戦で陶晴賢(すえはるかた)を破り、中国地方の覇者となった元就ですが、神域を汚したことに心を痛め、すぐさま戦死者や負傷者を対岸に移し、流血などを洗い流し戦の痕跡を残さぬよう尽力したといいます。また天神社や能舞台の寄進、反橋や大鳥居の再建、本殿の改築を行うなど大規模な修復を手がけました。毛利氏は領地の寄進も度々行っており、その信仰の篤さがうかがい知れます。

陶全姜敗死乃図陶全姜敗死乃図

◆豊臣秀吉 天文5年~慶長3年(1536年~1598年)

明智光秀によって織田信長が暗殺された本能寺の変後、信長の後継者となり、天下統一を果たした豊臣秀吉。その秀吉を祀ったのが豊国神社(千畳閣)です。秀吉は天下統一を目前にした天正15年(1587年)、九州平定に向かう途上で嚴島神社に社参。戦没した将兵らの慰霊のために千部経の転読供養をしたいと大経堂の造営を安国寺恵瓊に命じました。一万石の費用と十数年の歳月をかけた大事業でしたが、完成間近の慶長3年(1598年)に秀吉が急逝したため工事を中止。未完成のまま今日に至っています。また大聖院では細川幽斎など当代一流の歌人を招いて何度か盛大な歌会を催したとも。この大聖院の勅願堂には秀吉が朝鮮出兵の際に海上安全と武運を祈ったという念持仏・波切不動明王が祀られています。

千畳閣千畳閣

◆誓真(せいしん) 寛保2年~寛政12年(1742年~1800年)

宮島の恩人といわれる江戸時代後期の僧。青年期に広島城下に移り住み、米商を営んでいましたが、宮島光明院の了単(りょうたん)上人の導きを受けて出家。その後、神泉寺の番僧となり修行に励みました。誓真は修行の傍ら、島民の生活が豊かになるよう弁財天の琵琶をヒントに杓子を考案して普及させたほか、島の水不足を解消するために托鉢で資金を集めて井戸を掘り(誓真釣井)、暗渠(あんきょ)を造るなど島民のために献身。その遺徳をたたえ、光明院の境内近くには誓真大徳碑が建てられています。

弦月や弥山にかかる雲もなし  高資

野分あと夕日たださす弥山かな  高資

http://www.taigadrama.org/other/other3.html

金剛峯寺/和歌山県高野町    清盛、高野山で空海に出逢う

高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)は言わずと知れた世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部ですが、なによりも真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が宗教活動の拠点とした寺として有名。真言密教の聖地です。

空海は留学生(るがくしょう)として唐に渡航。長安の恵果和尚(けいかかしょう)に従事して密教の奥義を学びました。大同元年(806年)に帰国し、嵯峨天皇から高野山の地を賜ります。

高い峰に囲まれた平坦地である高野山に曼荼羅世界を創造すべく、空海は弟子達に命じて伽藍の建立に取りかかります。しかし工事は難航。空海の死後、弟子の真然(しんぜん)が約20年の歳月をかけて根本大塔(こんぽんだいとう)などの伽藍を整備したのでした。

根本大塔

さて、この根本大塔ですが、どうも火災に弱いようで。記録に残っているだけでも5度焼失していて、その度に建て替えられてきました。

清盛は、久安5年(1149年)落雷で焼失した根本大塔を再建するため、鳥羽法皇の命によって建立奉行を務めます。保元元年(1156年)にようやく完成し、清盛は根本大塔を拝したあと、奥之院へ参拝しました。

するとどうでしょう。どこからか老僧が現れ、根本大塔修理の完了を喜び、さらに安芸の厳島神社の修理をしろと勧めるのです。老僧の周囲には香の薫りが漂い、しばらくすると、老僧はふっと姿を掻き消してしまいました。

そこでなんと清盛は、この老僧は空海上人に違いないとなぜか確信したのだそうです。それでいいのかとツッコミたくはなりますが、さらに鳥羽法皇にその出来事を報告し、法皇までがそれを素晴らしいと讃えたという話。

空海と対面する清盛

ちょうどその場所には大きな桜の木がありました。空海に対面したこのエピソードから、その桜の木を「対面桜」と呼んだそうです。また奥之院ではなく金堂前で対面したという説もあり「高野大師行状図画」にも金堂前に「対面桜」が描かれています。 ただ残念なことに、当時の対面桜は今は残っていません。

ちなみに、清盛は根本大塔再建の際、金堂に掲げる曼荼羅も寄進しました。「絹本著色両界曼荼羅図(けんぽんちゃくしょくりょうがいまんだらず)」と呼ばれるそれは、なんと清盛の頭の血を絵具に混ぜて描かせたシロモノ。通称「血曼荼羅」というおどろおどろしい名前がついています。

平家物語では次のように記されています。「東曼陀羅をば清盛書かんとて自筆に書かれけるが八葉の中尊の宝冠をばいかが思はれけん我が首の血を出だいて書かれけるとぞ聞えし」


長崎県の五島列島宇久島には清盛の弟の平家盛という名の人物が壇ノ浦の戦いの後、平家残党の追討を逃れて移り住み、宇久次郎家盛と名乗って宇久氏(五島氏)の祖となったという伝承が残っている。

平 家盛(たいら の いえもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平忠盛の次男。母は正室の宗子(池禅尼)。平清盛の異母弟。同母弟に平頼盛がいる。

久安5年(1149年)2月、鳥羽法皇熊野詣に病を押して同行していた家盛は、参詣の途中で病が悪化し、都に戻る間もなく宇治川の落合辺りで死去した。享年は20代半ば頃と推定される(『平治物語』では享年23)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%9B%9B    参照



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