猊鼻渓 =厳美渓??
http://www.t-aterui.jp/iwate/i-iwainosato.htm 磐井の里 もろ人の 磐井の里に 円居して ともに千歳と ふへきなりけり 夫木和歌抄 より
岩手県南部にあり宮城県境に接っし 北上川を挟み東に東磐井郡(東山町 河崎村 藤沢町 大東町 千厩町 室根村)、西には西磐井郡(衣川村 平泉町 花泉町)に古代のその名を留めている。市制をしく一ノ関市には郡はないが勿論磐井の里の中心であり、水陸万頃の地の入り口にあたり蝦夷最後の防衛線のため蝦夷と官軍の英雄が死闘を演じた地でもあるのだ。2005年9月には東磐井郡が新一関市となり岩手県第2の人口となっている。 和名抄(和名類聚抄931年承平元年~5年 源 順)には「伊波井」とすでに記されていて、その初見は延喜式神名帳兵部省式に古代官道 東山道の驛家「磐井 白鳥 胆沢 岩基(いわて)各5疋」とあり、磐井驛は現一ノ関市赤萩辺りに比定されている。又日本後記812年 弘仁3年9月3日条には「陸奥国遠田郡の人勲七等竹城公金弓、勲八等黒田竹城公継足、勲九等白石公真山等男女122人に陸奥磐井臣を賜う」とある。建郡は南隣の栗原郡が767年(神護景雲元年)北隣の胆沢郡が804年(延暦23年)から見ると、奈良時代末から平安時代初めころではないかと思われる。現一ノ関市の名の由来も用水利用の「堰」(有名な照井堰が厳美渓上流にある)とも 軍事防衛上の「関」からとも言われてるが定かでない。今も一ノ関 二ノ関 三ノ関の字名が残っているのは面白いが、確かに安倍氏の本丸衣川柵防衛には関が2つ3つあっても可笑しくはなかったろう。 磐井の里一ノ関の歴史は古くは田村麻呂の悪路王征伐 安倍貞任・藤原経清と源 頼義・義家とが死闘を演じた前九年の役 そして近世芭蕉の陸奥の旅まで中々バラエティーに富んでいるのだが、惜しむらくは目と鼻の先に平泉・衣川と言う世界歴史遺産に立候補出来るほどの国宝的観光地が控えているため余り注目されず素通りされるのは惜しいことである。
磐井の里を東西に流れ一ノ関で北上川に注ぐ磐井川中流にある厳美渓は国指定名勝天然記念物であり訪れた方も多いと思いますが、その近くにある蝦夷の悲しい歴史を刻む達谷窟 小松の柵 石坂の柵 北上川東部河崎の柵 黄海の古戦場 最北の芭蕉宿泊の地二夜庵 恐らく殆何方も訪ねる事のない日本刀発祥の地舞草神社 何故かあの浅野内匠頭の供養碑が磐井の里にあるのか そして青春の苦悩島崎藤村の文学館等、実に地味だが実に深い歴史のある磐井の里一ノ関市なのである。そして近隣には薄衣 歌書等の魅力的地名の反面、鬼死骸 死人沢 一首坂 骨寺村 人首(ひとかべ) 人首川等蝦夷の悲劇の地らしき地名も多い。衣川柵の防衛線である宮城県の玉造川 そしてここ磐井川 最後に衣川を破られた蝦夷の末裔は崩壊の一途を辿のである。 一関の俗謡に「一関に過ぎたるものが2つある 時の太鼓に建部清庵」と云うのがるが2つどころか学者・文人・賢人の足跡や史跡・遺跡の文化財が地味ではあるが通には垂涎の地が無数にあるのです。所で同じ磐井でも九州の磐井とは全く別物である。九州の磐井は筑紫君磐井で人の名前である。彼は大和朝廷に刃向った人物だが継体天皇の差し向けた物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって578年11月に滅ぼされた古代の内乱の一方の当時者である。有名な磐井の乱の首謀者である
(平成16年7月25日) (参考 岩手県の地名 平凡社・東北の地名 木の森・日本地名大辞典 角川書店・史跡・文化財めぐりMap 萩荘文化財研究会・一関藩 ㈱現代書館 )
https://www.travel.co.jp/guide/article/28141/
伝説の地!平泉「達谷窟毘沙門堂」で授かれる“最強の御札”「牛玉寳印」とは
「達谷窟毘沙門堂」は延暦20年(801年)、現在の岩手県西磐井郡平泉町に、征夷大将軍・坂上田村麿公によって創建された御堂です。京都の清水寺をまねた懸崖造りで、窟堂としては日本一の規模を誇ります。そんな「達谷窟毘沙門堂」でいただける護符「牛玉寳印」は“最強の御札”として名高く、貼れば「悪鬼を払い福を招く」と言われているのだとか。「達谷窟毘沙門堂」の見どころや、「牛玉寳印」についてご紹介します。
崖に抱かれるように建つ「達谷窟毘沙門堂」
「達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)」の建つ窟は、かつてこの地で乱暴なふるまいをくり返していた悪路王・赤頭・高丸などの蝦夷が砦を構えていた場所と言われています。
延暦20年(801年)、桓武天皇の命を受けた坂上田村麿公は、征夷大将軍としてこの地に赴き、激戦の末に蝦夷を打ち破りました。坂上田村麿公は京都の清水寺を建立した人物。蝦夷討伐には「鞍馬寺の毘沙門天より剣を授かった」「諏訪大社で戦勝祈願をしたところ馳せ参じた武者が、窟での戦いで神がかり的な活躍をした」など、各地でさまざまな伝説が残されています。
“戦勝は毘沙門天のおかげ”と感じた坂上田村麿公は、そのお礼にこの窟に清水の舞台を模した九間四面の精舎を建て、108体の毘沙門天をお祀りし、国を鎮める祈願所としました。
崖に抱かれるように建つ「達谷窟毘沙門堂」
毘沙門天は寅年の守り本尊であり、財宝・官位・知恵・寿命・縁結び・子宝・学業成就、そして勝負事の必勝祈願など、さまざまな願いをかなえてくださると言われています。
「達谷窟毘沙門堂」の現在の御堂は創建以来5代目で、内陣の奥に、慈覚大師が坂上田村麿公を模して刻まれたと伝えられる秘仏が納められています(33年に一度の御開帳、次は2042年)。また、御堂の床下は、“祖先の霊魂があの世から帰りて集う”などの聖なる場所とされ、現在では人の立ち入りが許されない禁足地になっています。
境内は御神域として、飲食や動植物の採取、殺生、犬や猫を伴っての参詣などは固く禁じられており、周辺ののどかな風景とは一線を画す、厳かな空間となっています。
北限の磨崖仏「岩面大佛」
「達谷窟毘沙門堂」の左隣には、岩壁に刻まれた大磨崖仏があります。高さ約16.5メートル、肩幅約9.9メートルの大きな像で、その名も「岩面大佛」。前九年の役と後三年の役で亡くなった敵味方の霊を供養するために、源義家が彫りつけたと伝えられています。「北限の磨崖仏」としても名高いこの像ですが、明治29年の地震で胸から下が崩落してしまい、現在も摩滅が進んでいるのだとか。後世に伝えるため、早急な保護が叫ばれています。
「達谷窟毘沙門堂」と「別當達谷西光寺」
「達谷窟毘沙門堂」が創建された翌年の延暦21年(802年)、別當寺として「達谷西光寺」は創建されました。「達谷窟毘沙門堂」を根本道場とし、神事などを守り伝えてきた「達谷西光寺」。「達谷西光寺」自体は天台宗のお寺ですが、「達谷窟」はこれらの諸堂や鎮守社から成る神仏混淆の社寺のため、境内に鳥居があるのです。
また、「達谷西光寺」には、檀家が一軒もありません。これは、弔事に出仕した当日は鳥居をくぐることができず、神事を執り行えなくなるから。一年を通じて数多くの神事がありますが、特に正月の「修正會」は、慈覚大師の高弟である恵海大和尚から伝わった、千年以上続く伝統神事です。
「牛玉寳印(ごおうほういん)」とは、寺社が発行する護符の一種。「達谷窟」では、「達谷窟毘沙門堂」の中で授かることができます。元は信者の方に向けてのみ用意されていたものだったのですが、「福は広くお分けしよう」という声を受け、一般への頒布が始まりました。評判が高まるにつれ年々用意される枚数が増えていき、現在では4,000~5,000枚用意しても、9月頃にはなくなってしまうこともあるそうです。
「達谷窟毘沙門堂」の「牛玉寳印」は、元日から1月8日まで行われる「修正會」において、21カ座の加持祈祷を経てできあがります。とがったほうを上にして神棚や玄関などに貼れば、「悪鬼邪神を払い福を招く」などのご利益が得られると伝えられています。(1部1,000円)
「達谷窟」では毎年12月2日に「毘沙門様御年越祭」を執り行い(神事非公開)、日本一早いお正月を迎えます。それに先立ち11月23日から結界行事を執り行うため、11月23日以降はその年の「牛玉寳印」が残っていたとしても、授かることはできません。新たに頒布が始まるのは、「修正會」が終わる1月8日の午後2時ごろから。「牛玉寳印」を授かりたい方は参拝の日取りにご注意ください。
「達谷窟毘沙門堂」に参拝して“最強の御札”「牛玉寳印」を授かろう
「達谷窟毘沙門堂」は、坂上田村麿公がその名を馳せ、のちの時代に“征夷大将軍”という称号が“武士の棟梁”と同じ意味になるほどの華々しい活躍を遂げた場所。歴史的にも、パワースポットという面からも、近年ますます注目をあびています。そんな場所の伝統神事で作られた護符と聞けば、“最強の御札”と称されるのも納得がいくというもの。
「達谷窟」は世界遺産「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」への追加登録を目指し、ユネスコの暫定リストに記載されています。今のうちにゆったりと往時を偲ぶ旅はいかがでしょう。世界遺産の中尊寺や毛越寺と名勝・厳美渓との間に立地していますので、あわせて巡るのがおすすめです。
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鉄器の活用から鉄の自国生産へ
越前・邪馬台国から出現した謎の大王 継体天皇
鉄器の伝来が極端に遅かった近畿・狗奴国に対し、先進的な鉄器を携えて近畿を侵略しました。記紀の中に、血生臭い戦闘があったという記述はありませんが、戦闘力の優劣は明らかでした。
鉄器は戦闘用だけでなく、土木・治水・開墾・農耕など、様々な分野で近畿地方の文明開化を引き起こしました。
そして、近畿地方の鉄器の需要の爆発的な増加に伴い、製鉄所の建設が行われるようになりました。当然ながら、これらは渡来人の活躍によるものです。
初めに、鉄の基本から入ります。古代の文化の流入を、順序立てて考えるには必要なので、概略を説明します。
自然界には鉄は存在しません。原料となる鉱物資源は、鉄鉱石や砂鉄といった酸化鉄です。この酸化鉄を還元して、鉄を精製します。さらにこの鉄を加工して、鉄剣や斧などの鉄器製品に仕上げます。
この過程において、鉄を精製するための製鉄所が必要です。これは、高度な技術を要するので、日本での製鉄所は、六世紀半ば頃まで存在しません。
また、鉄から鉄器へ加工するには、鍛冶の技術が必要です。越前では、二世紀には既に鍛冶の技術があり、卑弥呼時代の大量の鉄器が出土しています。
一方、近畿の鉄器事情はお粗末で、五世紀頃まで鍛冶の技術どころか鉄器の伝来すらありませんでした。
詳しくは、私が以前に作成した動画『鉄の最多出土地』をご参照下さい。
卑弥呼時代に越前・邪馬台国では鉄器加工を行っていた。近畿・狗奴国では、鉄器伝来すら無かった。
越前・邪馬台国では、卑弥呼の時代の二世紀頃には、鉄を朝鮮から輸入し、鍛冶職人によって鉄器の製造が行われていました。
一方の近畿・狗奴国は、鉄器の伝来が遅かったにも関わらず、巨大古墳の造成にうつつを抜かし、文明後進国となってしまいました。そして、五世紀~六世紀の継体天皇の時代に、ようやく近畿地方に鉄器が流入して来ました。
『古事記』によれば、応神天皇の頃に「百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素(たくそ)が来朝した」とあります。これは、鉄器が、まだ近畿に伝来していない時代の神話です。神功皇后の息子の応神天皇の時代に、百済から越前・角鹿(敦賀)に鍛冶の技術者が来たという事でしょう。
継体天皇の近畿征服と共に、鉄器が近畿に大量流入した。
また『古事記』には、継体天皇の孫の敏達(びたつ)天皇の時代に(583年)「新羅(しらぎ)から優れた鍛冶工を招聘し、刃金(はがね)の鍛冶技術の伝授を受けた」とも記されています。
これで、ようやく近畿にも鉄器文化が本格的に伝来した事になります。
敏達(びたつ)天皇の時代に、近畿に鍛冶職人も現れた。
また、同じ時期に、近江の国・高島を中心とする琵琶湖の西岸に幾つもの製鉄所が作られ始めます。
これは、継体天皇の重臣・秦氏の功績です。秦氏は、若狭に本拠を置く渡来人の豪族で、製鉄技術を持つ朝鮮半島の金海加耶(きめかや)を出身としています。秦氏一族が、若狭から峠一つ越えた近江の地に、製鉄所を建設したのでしょう。
これで、国の根幹となる鉄器を、朝鮮半島から輸入する事なく、日本国内で原料から精製して、製品に仕上げる事ができる様になりました。六世紀末の、この鉄の自給が、飛鳥時代のヤマト勢力が飛躍する一つの要因になったのでしょう。
継体天皇の重臣・若狭国の秦氏により、近江国に製鉄所が造られた。
余談ではありますが、近江の国に製鉄所を設けた事は、近江が植民地として扱われていた証です。
製鉄所を造るという事は、現代で例えるなら、原子力発電所を造るようなものです。極端な危険を伴うからです。
当時の製鉄技術は稚拙な上に、原料が鉄の含有量の少ない鉄鉱石だった為に、膨大な量の木炭を必要としました。山は禿山となり、川の水に栄養分が無くなり、土砂崩れや洪水が頻発し、農業生産は極度に落ち込んだはずです。
邪馬台国の卑弥呼の時代から、越前で製鉄工場を造らなかったのは、この事をよく知っていたから、かもしれません。
越前・邪馬台国の継体天皇の近畿征服は、あらゆる面で画期的でした。近畿地方は、巨大古墳造成などという馬鹿げた工事をしていた為に、井の中の蛙となり、すっかり後進国となっていました。
そこへ、越前という日本海側から、先進文明を持った渡来人達を率いて、飛鳥時代・奈良時代へとつながる礎を築いたのです。
渡来人たちの功績はもちろんですが、彼らを率いて日本を正しい道へ導いたリーダーとしての功績は絶大です。
越前・邪馬台国の卑弥呼から継体天皇へ、そして今上天皇へとつながる系譜は、最も偉大な一族である事に間違いはありません
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