猊鼻渓 11月9日
7月13日 · 猊鼻渓
龍潜潭ー 場所: 猊鼻渓
https://hirotravel.com/genbikei/page_thumb14.html
厳美渓と猊鼻渓の違い
岩手県一関市には厳美渓(げんびけい)と猊鼻渓(げいびけい)という2つの渓谷があり、同地域にあり名前も似ていることからよく勘違してしまう観光客も多いのですが、厳美渓と猊鼻渓は特徴のまったく異なる渓流・渓谷でそれぞれ楽しみ方も違ってきます。そこで以下に厳美渓と猊鼻渓の違い・特徴を列記してみましたので参考にしてみて下さい。
厳美渓と猊鼻渓の違い
以下に厳美渓と猊鼻渓、その違いと各々の特徴について紹介していきます。
特徴
厳美渓
渓谷美が美しく橋や川岸の休憩所からの眺めが美しい。周囲は道の駅や温泉街があり比較的賑やか。有名な空飛ぶだんごがあるのも厳美渓。
猊鼻渓
切り立った断崖が続く渓流を船頭さんが操る舟で下る。周囲は深い森に囲まれ壮大な景色が広がる。
名物
厳美渓の名物が空飛ぶだんご、貞山桜であるのに対して猊鼻渓の名物は舟下り(川下り)、運玉、藤の花
「団子」と「饅頭」
前述していますが団子で有名なのは厳美渓の方。なお猊鼻渓には「うんだまんじゅう」という猊鼻渓名物「運玉」 にあやかった饅頭がお土産として販売されています。
場所・地図
厳美渓が東北自動車道一関 ICを降りて左折(秋田県の栗駒方面)約5分に対して猊鼻渓は ICを右折し(宮城県 気仙沼方面)約30分。両者の位置関係を記した地図はこちら→厳美渓と猊鼻渓の地図
舟下り・川下りはどっち?
有名な舟下り・川下りが行われているのは猊鼻渓。ウグイや鯉が泳ぐ清流を舟で往復します。一方厳美渓は川の流れが速く急で舟下り(川下り)は行われていません。
散策
厳美渓には渓流に沿って散策路や休憩所が設けられビュースポットが多数ありますが、猊鼻渓は切り立った断崖が続き徒歩による散策は不可となっています。
移動時間は?・バスで行ける?
厳美渓、猊鼻渓両所の移動時間は車で30分。電車とバスを利用して50分ほど。これらアクセスの詳細は別途「厳美渓のアクセス・行き方」を参照。
ベストシーズン
厳美渓と猊鼻渓は共に一関市にある渓谷で1回の旅行で両方巡る観光客も多くみられますが、観光ベストシーズンは?となると時期が微妙に異なってきます。厳美渓は春の桜と紅葉が有名な所であるのに対して猊鼻渓は渓谷の藤の花が満開となる新緑の季節と冬の屋形舟が有名です。しかしこれらを1回の旅で同時に見ることは不可能ですし、冬の厳美渓は閑散としています。それぞれ個性のある渓谷なので互いの最高の光景を同時に眺めることは無理ですが春から秋にかけては問題なく観光できるので自分の趣味趣向にあわせて旅をする日時を決めればよいでしょう。
5月11日 · 厳美渓
http://motonao-kaneko.com/2017/09/22/%E5%A4%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%9D%B1%E5%8C%97%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%82%B7%E8%9D%A6%E5%A4%B7/
失われた東北の歴史 -エミシ(蝦夷)- より
かつて、東北の地を守るために命を懸けた男たちがいた。
郷土の誇りのために戦い抜いた優しくて強い人たち。
私たちには “正しい歴史” しか教えられない。勝者の歴史。
往々にして歴史とは力をもったものが作り上げるもの。
表の歴史、王道の歴史だけが全てではない。
勝者によって隠された歴史。
中央権力と戦い散っていった者たちの声なき歴史。
東北の地には、失われた歴史がある。
【青森、岩木山神社.東北で特に好きな場所の一つ】
時は今から1200年ほど前。奈良、平安時代。
当時日本には、大和朝廷という中央権力が存在していた。
日本統一に向け、今の東北地方に勢力圏を拡大しようとしていた。
当時、東北にはエミシと呼ばれる人たちが暮らしていた。
エミシ(蝦夷)とは何か。諸説あるがここでは一文引用したいと思う。
大和朝廷は、東北地方の中央権力に従わない「まつろわぬもの」の総体を「蝦夷」「東夷」として恐れ、さげすみ、討伐の対象としてきた。そこには中央の権力争いで敗れた人々も含まれていたが、主体になったのはエミシと呼ばれた縄文先住民である。(「蝦夷・アテルイの戦い」久慈力著,p.39)
かつて東北地方には華やかな縄文の文化が栄えていた。
【三内丸山遺跡】
東北には縄文の文化を受け継ぐ民が暮らしていた。
【三内丸山遺跡の大型住居跡】
争いを好まない人たち。中央権力である大和朝廷から見れば、エミシの住む土地は搾取の対象。征服すべき場所。
エミシは獣であり、人間以下の存在だった。ここで一つの構図が出来上がる。
“進んだ文化を持つ大和朝廷” が “野蛮な縄文民族であるエミシ” を征伐する、という構図。
つい数十年前まで世界各地で繰り広げられていた、植民地戦争の構図と同じ。
“文化人” である欧米列強が、“未開の地” であり “野蛮な人” が住む、アフリカやアジアを征服し搾取する。
大和朝廷とエミシの構図と全く同じ。大和朝廷との争いの中で、たくさんのエミシたちが日本各地に強制的に移住させられたという。(結果的に散らばったエミシが武士道の起源になったという説もある)
エミシたちは本当に野蛮な人たちだったのか。
違う。少なくとも私は違うと思う。私たちと何も変わることがない。家族や郷土を愛する優しくて強い人たち。
でも、大和朝廷から見れば征伐の対象。野蛮人。
黙っていれば戦争を仕掛けられて征服されるだけ。土地は奪われ家族は失われる。
一方的にやられるわけにはいかない。エミシの誇りのため、エミシ社会を守るために立ち上がった人物がいる。
鮮麻呂(アザマロ)、阿弖流為(アテルイ)、母礼(モレ)
もちろん、エミシの中で立ち上がった人物は無数にいただろうが、この3人は特に英雄的な働きをした。
アテルイたちの歴史は何の因果か、2017年の日本社会にも登場してくる。歌舞伎の演目として扱われ宝塚の題材として選ばれている。
【歌舞伎 阿弖流為〈アテルイ〉】 http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/31/
【宝塚 阿弖流為 –ATERUI–】 http://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/aterui/index.html
王道の歴史ではないにせよ、1200年を経た今でも受け継がれている歴史。
アテルイたちは何を成し遂げたのか。何を後世に託したのか。
東北日本の歴史。王道の歴史には載らない影の英雄たち。知れば知るほどアテルイたちの生き方に惹かれる。
圧倒的強者である大和朝廷に少数で立ち向かったアテルイを長とするエミシ勢力。
おそらく彼らの意志は1200年の時を経た今でも、東北の地に目に見えない形で受け継がれている。
私が初めて青森のねぶたをみたときに感じた、底知れない秘めた強さ。
もはや推測するしかないが、私には優しくて強いエミシたちの意志が込められているのではないかと思う。
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