蝦(えみし)夷

大崎市 ::エミシに対する朝廷側の拠点

北上川紹介

fishing7.club/old-kitanoturi/Ayu/kitakami.htm

-キャッシュ

日高見」、すなわち「ヒダカミ」は、「蝦夷のいるあたり」という意味であり、「ヒダ」は「蝦夷」、「 力」は「場所」という意味で住処、山処、在処の「力」である。また、「ミ」は浦ミ、島ミ等 ... ほかにも加美川、神川、来神川、北神川と呼ばれたこともあるようだ。 北上川は岩手県 ...


http://inoues.net/ruins/tagajyo.html  【宮城・多賀城跡 - 邪馬台国大研究】

http://engishiki.org/mutu/bun/mut281506-01.html 【賀茂小鋭神社 - 延喜式神社の調査】

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/e7954dc81d904245536f7ccbf1826732 

【和邇氏(丸邇氏)の伝承(2)朱智神社 】  より抜粋

「対馬では今でも、大型の舟を「ワニ」、小型の舟を「カモ」と言い、「ワニ・和邇氏」というのは大きな船を持って遠洋航海できる氏族という意味なのか。それに対して「カモ・鴨氏」は小さな舟で沿海や川を利用していたか。」であった。

https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12048977525.html【中臣氏の出自について(3)】より

中臣氏の出自について(2)に引き続いて、中臣氏を賜姓される前の氏族名と姓について、古代における卜部の状況から、考える。

 前述のような経過を考えると、大和朝廷が「亀卜」を、重要な卜占として採用していった経過に大きく影響を与えたのは、以下のような事情であったと考えられる。

 高寛敏の「倭国王統譜の研究(雄山閣)」(以下「高論文」という)によれば、蘇我氏によって系譜2と物語2が構想された推古朝で、当時の皇祖神の「タカミムスヒ」神の降臨地点を、それまでの伊勢国から対馬国及び壱岐国に変更したという。

 そして、それに伴って、対馬国と壱岐国に新たに「タカミムスヒ」神を祭る神社を創建し、同時に、大和国にも新たな神社を創建し、創建した対馬国と壱岐国の神社を、その神社に分祀したという。

 その分祠した神社を奉斎するために、対馬直、伊岐直それぞれの一族が大和国に移住したという。

 こうした、高論文の論述から考えると、この新しい神社の創建と大和国への分祀に伴って、「亀卜」をに従事する対馬卜部や壱岐卜部も、それぞれの統括者とともに大和国に移住し、それぞれの神社に従属したと考えられる。

 そして、このときに、大和朝廷が、対馬卜部や壱岐卜部の行う「亀卜」を知り、彼らに姓を賜姓して上番させたと考えられる。

 また、大和国に移住してきた対馬直や伊岐直の後裔は、神祇官を掌握した中臣氏との関係を構築し、やがて、彼らの一部は、中臣氏の同族集団に参加していったと考えられる。

 なお、伊豆7島の伊豆卜部は、現三島大社に従属していたと考えられ、三島の現三島大社は、初めは三宅島で祀られ、次に伊豆半島南部の白浜に遷座し、それから三島に遷座している。

 だから、現三島大社と伊豆7島の卜部との接点はあると考えられる。

 この現三島大社は、摂津国の三島にある三島鴨神社が分祀されたものであるが、この三島鴨神社は、谷川健一編の「日本の神々第3巻(白水社)」で松下煌が書いた「三島鴨神社」の項(以下「松下論文」という)によれば、大山積神と事代主神を祭神としている。

 松下論文によれば、おおむね以下のとおりである。

 「伊予国風土記」は、伊予国の大山積神社について、「大山積神、一名は和多志の大なり神」「この神、百済国から渡り来まして、津国の御島に坐しき」という。ここから「大山積神は、朝鮮半島南部から渡来した航海・渡船の神」であったと考えられる。

事代主神は、「大和葛城の鴨氏が奉斎する神であ」る。

だから、三島鴨神社とは、「摂津三島」に「古代のある時期から進出し」た「鴨氏」が、「淀川の洲に渡船の神としてすでに祀られていて大山積神と、自らの事代主神を合祀した」ものであった、と考えられる。

 なお、伊豆七島も伊豆南部の白浜も、「賀茂氏の存在が想定される伊豆国賀茂郡であ」り、また、現三島大社の祭神は大山積神と事代主神なので、現三島大社は、「三島鴨神社」である。

 松下論文の、このような論述から考えると、摂津国三島の三島鴨神社が、伊豆七島の三宅島に分祀されたことで、伊豆七島の卜部が、亀

卜を行うようになり、最終的に、現三島神社に従属するようになったと考えられる。

 このように、卜部は、それぞれの神社に従属していた卜占集団であったと考えられるが、賜姓前の中臣氏が卜占集団であったとすると、一体、なんという神社に従属していたのだろうか?

 先述したように、枚岡神社は、卜占集団の祖神を奉斎する神社にふさわしい。

 しかし、「枚岡」は地名であり、「新撰姓氏録」によると、摂津国には中臣氏の同族を主張する「倉垣臣」や「荒木臣」がいて、それぞれ、「椋垣朝臣」「荒城朝臣」に賜姓され、そのうち「椋垣朝臣」は能勢郡領であった有力氏族であった。

 このうように、枚岡連は、在地の臣姓氏族と同族であるので、「連」の姓になる前は、「臣」の姓を有していた、在地氏族であったと考えられる。

 そして、中臣氏の前身の卜占集団は、この平岡神社に従属していたと考えられ、中臣氏の政治的地位の上昇に伴い、枚岡臣は枚岡連にかわり、枚岡神社の祭神も、中臣氏の祭神に変わっていったと考えられる。

 つまり、春日大社の創建にともない、鹿島神宮の祭神を遷座したのと同じことが行われたと考えられる。

 なお、神社の従属していた卜占集団に、独自の神社があったとは考えられないので、ここからも、枚岡神社は、卜占集団であったときの中臣氏が、その祖神を奉斎した神社であったとは考えられない。

 それでは、どのような経過で、枚岡神社に従属する卜占集団から中臣氏が形成されたのだろうか?

 この点について、中村英重の「古代氏族と宗教祭祀(吉川弘文館)」(以下「中村論文」という)は、中臣氏は、「ミヤケの成立と経営」に関与し、「特にミヤケの農耕儀礼に顕著な役割をはたしていた」という。

 そして、「中臣氏はこの実績と活動をもとに、継体朝以降は、暫次、諸国に設置されたミヤケにも関与し、ミヤケに置かれた中臣部を管掌するトモとなり、併せて前事奏官・祭官に任じられて、政治的地歩を完成せしめた」という。

 こうした中村論文の主張から考えると、屯倉の成立と運営に関与したことが、中臣氏が卜占集団から分離・独立していく、重要な契機であったと考えられる。

 しかし、中臣氏は、なぜそれが可能だったのか?中臣氏の「ミヤケの成立と経営」への関与とは、「ミヤケの農耕儀礼に顕著な役割をはたしていた」ということだけだったのだろうか?

 この点について、奥田尚は「藤原ー中臣氏の出自と実態」(以下「奥田論文」という)で、おおむね以下のようにいう。

 中臣氏には「鎌子」「鎌足」など、「鎌」を含む名を持つ人物がいるが、この「鎌」は、須恵器を生産する「窯」であり、鉄を鋳造する「窯」である。また「鎌」は、鉄器の「鎌」である。

 藤原氏の「家伝・下「武智麻呂伝」」によれば、奈良時代の藤原武智麻呂は、「令造神剣」しているが、これは、「自分の精神と肉体を使って「造らしめ」たということで、「武智麻呂は「造剣」の技術、つまり金属の高熱処理に関する技術を持っていた」ということである。

 「続日本紀」によれば、武智麻呂の子の仲麻呂について、淳仁天皇から「別聴鋳銭」とされているが、これは、仲麻呂に鋳銭の権利が与えられたということで、「仲麻呂の家が鋳銭をなしうる技術を持っていた」ということである。

 また、「続日本紀」によれば、仲麻呂について、「賜」「近江国浅井。高島二郡鉄穴各一処」とされているが、これは、「鉄鉱石などの鉄素材の採掘権が認められたということではなく」、仲麻呂が「製鉄が可能であることを前提として」、「仲麻呂はこれで武器を作成できた」ので、「仲麻呂家には、製鉄つまり金属の高熱処理技術があった」のである。

 鎌足が重い病気にかかったときに、祖の回復を願って建立され、後に移転して興福寺となった「山階精舎」「山階寺」は、「扶桑略記」では、「山科陶原家」と書かれている。

 そして、「「山科」は現在の京都市山科区に地名の残る場所で、山科区の中臣遺跡近隣には須恵器の窯跡があり、また、製鉄遺跡もある」。

 また、鎌足の「別業」があった「三島は後の摂津の島上・島下郡」であり、「島下郡域には千里丘須恵器窯跡群の西部が含まれるし、嶋上郡域には埴輪窯跡群もある」。

 さらに、鎌足が生まれた「藤原の第」は、「「多武峰縁起」には「高市郡大原藤原第」とあり、現在の明日香村大字小原に比定される」が、日本書紀によれば、大原の近くにある「飛鳥寺の地を「真神原」と称した」とされており、雄略天皇の記事にある「新漢の陶部高貴」などが移住させられた「上桃原・下桃原・真神原」のひとつが「真神原」であり、須恵器生産との関係が深い土地である。

 こうした、「須恵器生産は高熱を要する技術であり、製鉄の鉱物の溶解技術との巨通性は高い」。

 これらから、藤原氏には、金属や土の高熱処理技術を持っていたと考えられる、それは、藤原氏の「出自」に基づく「伝統」であった。

 そして、「高熱処理技術を必要とする神祭りには、「亀卜」がある」という。

 以上の奥田論文の主張から考えると、中臣氏の「ミヤケの成立と経営」への関与は、「亀卜」の技術とも係る、須恵器生産や製鉄を行う技術を持っていたことが、その基礎となったと考えられる。

 屯倉を開発し、耕地を開墾したり、水路を掘削するためには鉄製の土木工具が沢山必要である。また、開墾によって耕地が造成できても、耕作する鉄製の農具はなければ、収穫は得られない。

 

 屯倉で労働に従事する人たちは、その土地の国造により屯倉の近隣の人達が動員されて来た人たちであり、彼らには、鉄製の土木工具や農具を屯倉で渡して労働させていたと考えられる。

 

 だから、そうした鉄製の土木工具や農具を制作できなければ、屯倉は経営していけないので、中臣氏にそれらができたとすれば、中臣氏は、屯倉の「成立と経営」に、不可欠の存在であったと考えられる。

 その上で、中臣氏は、屯倉に動員された寄せ集めの集団を、農耕祭祀によって一つの貴族集団に組織して行ったと考えられる。

 では、卜占集団から「亀卜」や「須恵器生産」「製鉄」などの技術を持つ中臣氏が、どのように発生したのだろうか?

 そのキーワードは「三島」であると考えられる。

https://1000ya.isis.ne.jp/1413.html  【蝦(えみし)夷 古代東北人の歴史】

北海道アイヌが蝦夷と呼ばれたこともあるものの、蝦夷はエミシ、エミス、エビス、またエゾなどと訓まれ、多くが東北民のことをさしていた。越蝦夷(こしえみし)、出羽蝦夷(でわえみし)、東蝦夷(あずまえみし)、都加留蝦夷(つがるえみし)という言葉も古い。大宝令には「夷人雑類」の項目がある。

 「えみし」という呼称や綴りも、漢字では「夷」「狄」「蝦夷」「毛人」などと宛字で綴られてきた。さらには「俘囚」「夷俘」「田夷」「山夷」などとも綴られた。

 むろん、東北民が自分たちのことをこのように自称したわけではないし、この呼称を好んでもいない。ヤマト朝廷によってそのように名付けられたのだ。賤視蔑称だった。このことを象徴する意味ありげな歴史記事がある。二つ、あげておく。

 ひとつは『日本書紀』景行天皇40年の7月の条で、景行天皇がヤマトタケルに向かって蝦夷について次のように説明しているくだりだ。

 其の東夷の中に、蝦夷は是尤も強は。男女交じ居て、父子別(わきため)なし。冬は穴に宿(い)ね、夏は巣に住む。毛を衣(き)、血を飲み、昆弟(えおと)相疑う。山に登ること飛禽(とぶとり)の如く、草を行くこと走獣(はしるしし)の如し。恩を承けては忘れ、怨(あた)を見ては必ず報ゆ。

 ずいぶんひどい批評だが、この文章自体は『史記』『礼記』『文選』などの漢籍を借りているところもあるので、実際に蝦夷をこのように形容していたかどうかは画然とはしない。

 もうひとつは『日本書紀』斉明天皇5年(659)の条だ。「道奥の蝦夷(えみし)男女二人を以て、唐の天子に示(み)せ奉る」というふうにある。

 道奥は「みちのおく」と訓み、このあとの天武朝で「陸奥」(みちのく)というふうに改められた。“道もない”当時の東北のことである。天子は唐の高宗のことをさす。記事は、遣唐使が蝦夷二人を同行させて、洛陽で高宗にこの二人をご覧にいれたのだと言っている。

 『日本書紀』斉明天皇5年の条にはこれだけが書いてあるのだが、このときのことを、遣唐使船に乗っていた伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)と難波吉士男人(なにわのきしおひと)らが航海日誌につけていた。それらによると、洛陽でこんな高宗の下問があって、使者が次のように答えたということになっている。

天子 これらの蝦夷の国は何(いずれ)の方にあるぞや。

使者 国は東北(うしとら)にあり。

天子 蝦夷は幾種ぞや。

使者 類(たぐい)三種あり。遠き者を都加留(つかる)と名(なづ)け、次の者を麁蝦夷(あらえびす)と名け、近き者をば熟蝦夷(にぎえびす)と名く。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国(やまとのくに)の朝(みかど)に入り貢(たてまつ)る。

天子 その国に五穀ありや。

使者 なし。肉を食ひて存活(わたら)ふ。

天子 国に屋舎(やかず)ありや。

使者 なし。深山の中にして、樹の本(もと)に止住(す)む。

天子 朕(われ)、蝦夷の身面(むくろかお)の異なるを見て、極理(きわまり)て喜び怪(あやし)む。

 まさに古代蝦夷の異様な姿を言いたいほうだいに伝えている。その蝦夷は北が都加留(つがる)蝦夷で、その下が麁蝦夷(あらえびす)、もう少し下が熟蝦夷(にぎえびす)になっているという。『日本書紀』は、このうちの熟蝦夷(にぎえびす)の二人が中国まで連れていかれたというのだ。熟蝦夷はおそらくは岩手県南部か宮城県北部あたりの蝦夷であったのだろう。

 古代ヤマト朝廷がどのように蝦夷の地を分国的に見ていたのかは、このような記録以外にあまり正確な記述がないのではっきりしないのだが、いずれにしても蝦夷が当時の東北民を賤視蔑称していた呼び名であったことは、はっきりしている。しかもこのような見方は古代を通じ、さらには中世・近世にまで及んだ。

 なぜ、そんなふうになったのか。「東北」を思うには、ここから視座を構えておかなくてはならない。

 そこで今夜は、そのような古代東北の日本列島ならびに日本人における位置と役割と意義と、日本中央が「蝦夷としての東北」をどのように扱ってきたのか、東北民はそれに対してどのような対抗を見せたのか、総じて古代東北とは日本の何であったのか、そのあたりの相貌を急いでふりえっておくことにした。いや、ビンラディンのこととつなげて何かを語りたいわけではない。

 思い返してみると、ぼくが東北を意識するようになったのは高橋富雄の『辺境』(1979・教育社歴史新書)を読んだころからだった。とても凄い本だった。

 この本には「もう一つの日本史」とサブタイトルがついていて、「あずま歌・みちのく歌」の意味、大化改新以前の東国観念のこと、「東の鄙・奥の鄙」の背景、そして最後に日本国家論の原点としてエミシ論がなくてはならないことが綴られていた。

 ぼくはそのころ、日本が東国と西国に分かれて発達していたということを知らなかった(網野史学も知っちゃいなかった)。のみならず、蝦夷が「東国・ひな・あずま・みちのく・蝦夷・日高見・日の本」などと多様に呼ばれてきたことも知らなかった。

 その後、気になって『遠野物語』やアラハバキ伝承を綴った『東日流外三群誌』(つがるそとさんぐんし)や、福士幸次郎が鉄の東北と朝鮮半島を結びつけた『原日本考』を読み耽り、また菅江真澄や吉田松陰の東北旅行記を渉猟した。

 そこには宮沢賢治(900夜)や太宰治(507夜)や土方巽(976夜)や寺山修司(413夜)にひそむ謎が、所狭しとびっしり埋まっていた。

 しかしエミシのことはいっこうにわからない。そのうち田中勝也のサンカ中心の『エミシ研究』(新泉社)や礫川全次が解説した菊地山哉の『蝦夷とアイヌ』(批評社)などを読んだせいで、ぼくのエミシ観はいささか右往左往させられたのだが、やがて佐々木高明の『縄文文化と日本人』(1986・小学館)や中西進(522夜)がまとめた『エミシとは何か』(1993・角川選書)あたりで、軌道が調整できた。

 また、上田正昭・田辺昭三・上垣外憲一・千田稔(881夜)らがあげる縄文文化やアムール北方文化圏との関係、粛慎(みしはせ)や靺鞨(まかつ)や朝鮮半島文化との関係などを知って、やっと大局の見地からの眺望が見えてきた。

これで、ふたたび高橋富雄の『蝦夷』『古代蝦夷を考える』(吉川弘文館)などに目を通せるようになったのである。

 こうしてそのあとは、今夜のテキストにした高橋崇の本書『蝦夷』や『蝦夷の末裔』(中公新書)、おそらくは最もこの領域を深く研究した工藤雅樹の『古代蝦夷の東北学』『蝦夷と東北古代史』『古代蝦夷』(吉川弘文館)などを読めるようになっていた。途中に、赤坂憲雄(1412夜)の東北学との出会いがあったことについては、前夜にしるした。

 けれども、実はこれらはエミシについての“共読”ができるようになったというだけで、それ以上でもそれ以下でもない。

 たとえば大伴家持がなぜ王朝政府から奥州に派遣されて失意のうちに亡くなっていったのかというような、井上ひさし(975夜)がどうして吉里吉里国の独立を執拗に描いたのかというような、そういうようなことはまだ感得していない。

 それでも今夜はこれまで“共読”してきたものに、武光誠(1157夜)の『古代東北・まつろわぬ者の系譜』(毎日新聞社)、熊谷公男の『蝦夷の地と古代国家』(山川出版社)、河西英通の『東北』『続・東北』(中公新書)、さらには関裕二(1209夜)の『消えた蝦夷(えみし)たちの謎』(ポプラ社)なども参照して、以下、ざっと古代東北でのアテルイ登場までの出来事を略述することにする。

 とうていうまくはまとまらないだろうが、おおむね次のようになっていたとおぼしい。どこか家持、どこか土方巽、どこかアテルイ、どこかビンラディン‥‥。

 弥生時代以降の3世紀から6世紀にかけて、日本列島の北には注目すべきことが連続しておこっていた。

 当時の東北地域の生活の下敷きになっていたのは、三内丸山遺跡で知られるような縄文文化であり、亀ケ岡式土器などを使っていた縄文的生活である。それが3世紀くらいにはこの地に稲作が北上し、驚くべきスピードで津軽平野まで届いた。「北の稲」の発端だ。青森県田舎館の垂柳(たれやなぎ)遺跡や弘前の砂沢遺跡の水田跡などがそれを物語る。

 ところがその後、東北北部(青森・岩手・秋田)の水田跡が激減していった。なぜなのか。

 一方、この時期は北海道から続縄文文化が南下した。3世紀に北海道の道央(石狩低地帯)で生まれた後北C2・D式土器が津軽海峡を渡り、ブラキストン線を越えて東北北部に降りてきたのだ。この続縄文文化は、狩猟と採集と漁労による生活、および土器・土壙墓(どこうぼ)・黒曜石石器の使用などを特色とするのだが、これらの前期遺物が能代市寒川Ⅱ遺跡、盛岡市永福寺山遺跡に、後期遺物が青森県七戸森が沢遺跡、宮城県大崎市木戸裏遺跡、横手市田久保遺跡などに見られるのである。

 他方、それとともに東北には南方のヤマト文化、つまりは「倭国文化」「倭人文化」が次々に浸透していった。和習(わじゅう)というべきか。岩手県奥州市には角塚古墳などの前方後円墳もあり、宮城県北部の大崎平野あたりまでが古墳文化地域になっていった。永福寺山遺跡にも土師器や鉄器が見られる。

 加えてここに北海道からオホーツク型の擦文文化が入りこんで、東北から北海道への東北的擦文の逆波及もおこり、7世紀にはこれらがすっかり混成していった。

 前夜に赤坂憲雄によって批判された柳田国男(1144夜)が『雪国の春』で東北の稲作のよろこびをかみしめたことを紹介したが、以上のような動向からみてもこの柳田の観察はたしかに中途半端な観察ではあったのだが、とはいえ稲作はごく初期にいったんは東北一帯から津軽にも伝わり、それが古代蝦夷の時代になぜか途絶え、その後にふたたびヤマト政権文化の北上とともに復活していったのである。

蝦夷の地関係地図

(クリックで拡大)

 ともかくも、こうして東北各地に拠点集落ができていった。岩手県では石巻の新金沼遺跡、奥州市の中半入遺跡、宮城県は大崎の名生館遺跡、多賀城市の山王遺跡、仙台の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。いずれもけっこうな数の須恵器の出土が見られる。

 当然、さまざまな“道”も生まれていった。仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。「道奥」は“道がなかった”わけではなく、中央ヤマトがそのようにみなしただけだった。

 このような背景のなか、列島南北の生活文化や技能文化をさまざまに習合しつつ、6世紀末までに続縄文文化の痕跡が消えていくのに代わるように、ここに「蝦夷」(エミシ)が形成されていったのである。

 この「蝦夷」とは、ヤマト政権が東北北部の続縄文文化を基層とする集団、新潟県北部の集団、北海道を含む北方文化圏の集団などを乱暴にまとめて「蝦夷」と一括してしまった種族概念であった。

 つまりは「まつろわぬ者たち」という位置づけで総称された地域であり、そういう「負の住民たち」のことだった。だからエミシは自生したのでも形成されたのでもなく、逆形成されたわけである。

 『古事記』景行天皇紀にははやくも、東方十二道に「荒夫流神、及び麻都楼波奴人」がいるなどと記されている。

 荒夫流神は「あらぶる神」、麻都楼波奴人は「まつろわぬ人」と読む。初期ヤマト朝廷はそのような“まつろわぬ蝦夷たち”がたいそう気掛かりだったのだ。

 それはまた、『宋書』東夷伝の有名な「倭王武の上表文」の中に、「昔より祖彌(そでい=父祖)、躬(みずから)甲冑を擂(つらぬ)き山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず、東は毛人(えみし)を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」と誇らしげに綴っていることに暗示されているように、王権はこうした“まつろわぬもの”を服属させているという自負のあらわれでもあった。これがだいたい478年あたりのこと、倭王武は大王ワカタケルで、雄略天皇だったろう。

 つまり蝦夷は5世紀から6世紀にかけては、ヤマト朝廷の管理下に置かれるべき地域であり、服属すべき辺境民だったのである。

 敏達天皇紀には、おそらくは581年前後のことと思われるのだが、数千の蝦夷が辺境を侵犯したので、天皇が蝦夷の魁師(ひとこのかみ=首長)である綾糟(あやかす)らを召して、これをいたく叱責したという記事もある。綾糟は「大毛人(おおえみし)なり」などと注記されていた。

 6世紀に入って、大伴金村に擁立された継体天皇が即位すると、倭国政府は任那四県を百済に割譲して、国内の安定をはかるようになっていた。地方に国造(くにのみやつこ)、屯倉(みやけ)、部(べ)を置いて、中央の「氏」との関係を築こうとしていった。

 このようになっていったのは、直接には527年に九州で筑紫の君の磐井の反乱がおこったせいだったろう。さっそく大連(おおむらじ)の物部麁鹿火(もののべのあらかい)が大将軍として派遣され、磐井を斬った。

 以降、地方における国造の地方官としての力が増大し、①吉備臣・出雲臣・上毛野臣といった臣・君のカバネ(姓)をもつタイプ、②凡河内直(おおしこうちのあたい)・紀直(きのあたい)のようにアタイ(直)をもつタイプ、③日下部直・檜前(ひのくま)舎人直などの名代・子代の設定にともなうタイプが生まれた。そして、どのタイプの国造においても、その領内には必ずヤマト政権の屯倉と部が設置されたのである。

 屯倉が設置されたということは、そこに朝廷の直轄領や収穫した稲の収納機構が生まれたということだ。またそこに部としての部民(べのたみ)がいたということは、部民は大王(おおきみ)家やその一族や氏族に属して生産物や労役にかかわるということだから、その地こそが「王民」が住む地域とみなされたのである。

 このことを歴史記述の鍵と鍵穴をとりかえた見方からすれば、国造の任官が及ばず、そこに屯倉もなく部民もいなければ、そこは「王化されていない地域」であり、「王民のいない辺境」とみなされたということになる。

 当然のこと、蝦夷(エミシ)はそうした王民のいない“化外の民”の地とみなされた。“化外(けがい)”とはなんとも恐ろしい。何かがおこれば磐井のように殺害されるか、さもなくば服属の礼をとらなければならない。敏達天皇の581年前後、数千の蝦夷が反乱して首長の魁師綾糟らが服属儀礼をさせられたというのは、こういうせいだった。

 7世紀に入ると、わが列島に仏教も海外技術も流れこんできた。蘇我馬子が君臨し、聖徳太子の摂政が試みられ、遣隋使や遣唐使が派遣され、東アジアを見据えたヤマト政権の海国としての安定が追求か試みられるようになった。

 とくに645年に乙巳のクーデターによって蘇我の権力が潰え、大化改新以降になると、斉明天皇の政権は一方では東アジアとのパワーポリティックスを動かしつつ、国内の支配態勢の強化に向かわなければならなくなった。

 しかし海外政治は白村江の海戦で失敗し、百済との同盟関係はあえなく水泡に帰した。日本は自立せざるをえなくなっていく。

 斉明女帝は阿部比羅夫に北方の守護と服属を任せ、655年には「津刈蝦夷六人」を朝廷に連れてこさせ服属の儀式をおこない、659年(斉明天皇5年)には、先に示したように唐の高宗に男女二人の熟蝦夷(にぎえびす)を見せに連れて行かせもし、ついで659年に「道奥国」を指定した。

 阿部比羅夫については、もっと知られてよい。越国(こしのくに)の長官で、180艘の船団で日本海を北上し、秋田・青森から北海道をも遠征して、現地の産物には「沈黙交易」によって交渉したことがわかっている。比羅夫は秋田・淳代(ぬしろ=能代)の蝦夷を服属させ、渡島(わたりしま)蝦夷(北海道の蝦夷)を征討して粛慎(みしはせ)との和解をもたらした。

 阿部比羅夫の群を抜く活躍によって、ヤマト政権は初めて東北の社会とその実態を知るようになったといってよい。

 そこで政府は「道奥」(みちのおく)を「陸奥国」(みちのく・むつのくに)と改名し、さらに「出羽国」を設け、服属者には位階を授与もした。のみならず、かつての国造の管理外の地域に、むしろ移民を送りこむ方針をとるようになっていったのだ。

 これを中央ではしばしば「柵戸」(きのへ)とか「編戸」といった。王化政策が積極的にとられていったわけだ。養老年間には「柵戸一千人」を陸奥鎮処に廃したという記録がある。

 こうして天智時代には屯倉・部民が廃止され、国造は国司・群司となり、国と評(こおり=群)が設置されていく。しかし、そのころ「陸奥国」はわずかに仙台平野と大崎平野のあたりに特定されたにすぎず、それより北の岩手や青森はあいかわらず広大な「蝦夷」のまま、北の「大辺境」のままだったのである。

 さて、8世紀、壬申の乱をへて皇位についた天武天皇以降のヤマト政権は、いよいよ「日本」の確立を意図するようになり、律令国家の道を歩みはじめる。

 その突っ先の平城京が造営されている渦中の和銅2年(709)、蝦夷の一団が反乱をおこし、これを制圧するために巨勢麻呂が陸奥鎮東将軍に、佐伯石湯が征越後蝦夷将軍として北に向かうという事件がおこった。この事件は詳細がまったく不明なのだが、これをきっかけに中央政府は東北にそれなりの任官を置き、城柵を設けるようになった。

 その先蹤は、神亀1年(724)に大野東人(あずまびと)が陸奥守となって多賀城(多賀柵)を築き、その功績で天平年間に按察使(あぜち)鎮守将軍になっていることだ。秋田城も大野東人の発案だとされる。神亀1年は聖武天皇の即位の年だった。

 東北任官の者たちはそれなりに東北経営に乗り出した。むろん生産力と交易のためだった。天平9年(737)には多賀城から出羽柵へ通じる直通幹線の開削計画もおこったが、これは途中で中止になっている。

東北地方の城柵(じょうさく)

『詳説日本史図録』(山川出版社)

 このような事情のもとでは、当然に東北出身や東北移民者の出世頭も登場する。一獲千金を狙う者もいる。

 牡鹿群の出身の道嶋宿禰嶋足(丸子嶋足)は丸子一族を従えて陸奥においても中央においても活躍をして、奈良の都では橘奈良麻呂の乱を抑えた功績で、その名が坂上苅田麻呂と並ぶほどだった。苅田麻呂は坂上田村麻呂の父である。一族の道嶋三山は宮城県栗原に伊治城(これはりのしろ)を築いた。伊治城はこのあとの東北戦乱の火種になる。

 このような動きは藤原仲麻呂(恵美押勝)の専横時代におこっている。仲麻呂が中央と陸奥・出羽を直結して統治権力を伸長しようとしたせいだったろう。そのため、いつの世にもあることだが、陸奥や出羽の任官たちが仲麻呂にとりいった。道嶋嶋足もその一人で、そのため橘諸兄の子の奈良麻呂は失脚させられた。

 ところがここに大事件がおこる。中央政府の東北最前線の最大の拠点であった多賀城が、宝亀11年(780)に焼き打ちされたのだ。伊治公(これはりのきみ)アザ麻呂の決起だった。

 アザ麻呂は栗原の蝦夷の族長で、中央からも信頼が厚く、部課を率いて胆沢(いさわ=岩手県奥州市)や志波(しわ=盛岡市周辺)に対する蝦夷征討に加わってもいた。胆沢と志波は当時の東北エミシの「まつろわぬ者」の二大拠点だった。アザ麻呂は当初は中央政府の意図に沿ってそこを落とそうとした。

 けれども、それが寝返ったのである。伊治城では牡鹿の大領の道嶋大楯や按察使の紀広純が殺された。アメリカのアフガン解放を信じて与したビンラディンが、その後にアメリカに反旗をひるがえしたことが思われる。ちなみに伊治はイジとも読んで、武光誠は「夷中の夷」をあらわす「夷種」がもともとの意味だったのではないかと言っている。

 こうして、古代東北戦争の火ぶたが切って落とされる。高橋崇はこれを、国家と蝦夷との「三十八年戦争」と呼んでいる。

 ヤマトや奈良の朝廷が東北の蝦夷を支配する戦略とは、おおむね次のようなものだった。

 まずは親政府的な蝦夷の集団に対して影響力を強くしていく。それでその地域が中央の直轄支配に組み入れても大きな問題がないと判断できれば、柔順な蝦夷と移民とを動員して城柵を設置し、それが完成したところへさらに移民を導入して、群を置く。この連中を「にぎ蝦夷」とも呼んだ。もしも強硬派の蝦夷がいるのなら、これを巧みに他の地域に強制移住させる。こちらは「あら蝦夷」と呼ばれた。それでも反乱するようであれば、これを武力で制圧する。この制圧された反乱分子のことを「夷俘」(いふ)とも「俘囚」(ふしゅう)ともいった。のちにエミシの異名にもなっていく。

 だいたいこういう手順だった。伊治城のときも大量の移民を送りこもうとしていた。しかしアザ麻呂はおそらくは政府側のなんらかの手口の強引などが理由でこの組み立てが気にくわず、反旗をひるがえしたのだ。そこには夷俘が結集しているようだった。

 光仁天皇の朝廷はただちに藤原継縄(つぐただ)を征東大使に、大伴益立と紀古佐美を副使に任命したのだが、まったく現地の事態は進捗しない。

 藤原小黒麻呂が持節征東大使になった。持節は天皇の権限が代行できる役職である。けれどもそれでも混乱は収まらない。伊治城以北はすっかり反乱軍(あら蝦夷)の手中にあったのだ。ここで天皇が光仁から桓武に代わるのだが、桓武天皇は紀古佐美を陸奥守に任命し、さらに若手を登用して事態を打開しようとする。菅野真道、秋篠安人、坂上田村麻呂、藤原種継らが抜擢された。

 しかし夷俘の力は侮れない。藤原小黒麻呂は「われわれが相手にしている夷俘はたいそう始末が悪い。ときに蜂のように集まり、ときに蟻のように群がる」と言って、まるでゲリラのごとき夷俘たちの活況の様相を報告している。吉侯伊佐西古(きみこのいさしこ)、諸締(もろじめ)、八十嶋(やそしま)、乙代(おとしろ)などの猛者の名前もあがっている。

 延暦元年(782)、ついに大伴家持までもが駆り出され、陸奥按察使・鎮守将軍になり、2年後には持節征東将軍にもなった。これは実は藤原一族による大伴氏追い落としの計略だった。このことについては、家持の歌と生涯を千夜千冊するときに、あらためて話したい。

 家持が失意のうちに東北の露と消えたのち、「三十八年戦争」の最大の主役であるアテルイと、これを征伐する坂上田村麻呂が登場する。そのあらかたは前夜の「悪路王」の伝説とともに紹介しておいた。

 アテルイと征討群との戦いは3度に及んだ。延暦8年(789)の紀古左美との戦い、12年の大伴弟麻呂との戦い、16年、20年の征夷大将軍となった坂上田村麻呂との戦いである。アテルイは古左美を叩き(古左美は耄碌将軍と揶揄された)、弟麻呂とは引き分け、肝沢城を築いた田村麻呂には敗れた。いずれも肝沢や衣川が象徴的な戦場になっている。

 アテルイは都に引き連れられ、首を刎ねられた。田村麻呂の名声は頂点に達した。では、これで万事が収まったかといえば、まったくそうではなかった。詳しくは次夜以降の「番外録」に続けたいので、ここではこれ以上のことをのべないが、このあと平安王朝は東北とのあいだに壮絶な歴史を展開するのである。

 それにはアテルイの背後関係のこと、田村麻呂のその後のこと、そのあとの藤原緒嗣の東北経営の問題、文室綿麻呂の遠征の意味、さらには元慶の乱から東国武士の魂胆を連続的に語りあげ、安倍一族や清原一族のことに言及しなければならない。そしてそのうえで、前九年・後三年の役から奥州藤原氏の例外的台頭の意味までを問わなければならない。

 これらはひとつながりなのである。東北をエミシの歴史として浮上させ、それが実は「もうひとつの日本」の根本問題にかかわることとして見えてくるには、このひとつながりを、あえて3・11後の東北の明日ともつなげていかなければならないのだろうと思われる。

http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/bp9

奈良時代の神亀元(724)年に多賀城に国府(律令制度で一国ごとに置かれた国司の役所。国衙(こくが)ともいわれる)と鎮守府(蝦夷を鎮撫するために陸奥国に置かれた官庁)が置かれ、朝廷による宮城県北以北の本格的な支配体制づくりが始まると、エミシとの緊張関係が強まります。朝廷は陸奥国の北上川流域に桃生(ものう)城、内陸地方に伊治(これはる)城、出羽国に小勝(雄勝)城を造営し、支配地を広げていきます。これに対して、多賀城創建前後にはエミシによる陸奥按察使(あぜち・諸国の行政を監察した官)や国司大掾(だいじょう)などの朝廷官人の殺害事件、宝亀元(770)年には国府側に協力していた宇漢迷公宇屈波宇(うかんめのきみうくつはう)の反乱、宝亀5(774)年にはエミシによる桃生城攻略事件などが起こり、エミシと朝廷との関係は最悪の状態に陥りました。

 延暦5(786)年、朝廷の胆沢(いさわ)遠征の準備が始まります。動員された朝廷軍は5万人以上、桓武天皇から征東大将軍を命じられたのが紀古佐美(きのこさみ)でした。延暦8(789)年に多賀城を出発した征東軍は衣川に到着、巣伏村(すぶしむら・現在の岩手県奥州市)目指して進撃を開始しました。これに対したのがエミシの首長、大墓公阿弖利為(たものきみあてりい、または阿弖流為(あてるい))と、盤具公母礼(いわぐのきみもれ)、アテルイとモレです。

 史上有名な「延暦八年の胆沢合戦」は陽動作戦が成功し、エミシ側の勝利に終わります。大敗した朝廷軍は翌延暦9(790)年、第2回胆沢遠征を準備。この時、征夷副使に任命されたのが坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)でした。延暦13(794)年から始まった第2回遠征で損害を受けたエミシ側は、延暦20(801)年、陸奥出羽按察使(あぜち)兼陸奥守兼鎮守将軍で、征夷大将軍に任命された田村麻呂に完敗を喫します。アテルイとモレは、翌延暦21(802)年に田村麻呂が造営した胆沢城(いさわじょう・奥州市)に投降します。京に送られたアテルイとモレは、田村麻呂の必死の嘆願にもかかわらず、河内国椙山(すぎやま)で斬首となり、エミシの時代に幕が降ろされました。


https://viva1213.exblog.jp/18688299/   【亀卜(きぼく)】  より

平安時代の日本には、陰陽師の阿部晴明みたいな人たちが占った占いより、さらに一段尊い占いがあったのだそうです。

晴明の占いとその占いとどっちを取るかというと、天皇は「こっちを取る」と決まりになっていた占術。

それが亀卜(きぼく)なのです。

実はこれ、今でもちゃんと現存する占いで、平成天皇が即位した時にも亀卜をしたという噂があるんですよね。

いにしえより国家の重大事には必ず用いられた、由緒正しい占いが密かに残っていたなんて・・・

占い好きには興味深いお話しであります。

中国伝来の亀甲占いは、すでに弥生時代あたりには朝鮮を経て日本に伝わっていたようで、占いの痕跡が遺跡から数多く発見されています。

古代人にとって亀は、龍や虎、鳳凰と共に霊獣として崇められ、焼いた亀の甲羅に天意があらわれると考えられていたようです。

だから亀卜とは、神のお告げを伺う宗教的な祭儀であって、「いい加減な気持ちでこれをやると罰が当たるぞ」といった類いのものなのです。

亀卜(きぼく)_a0253145_1595871.jpg

我が国で盛んに行われるようになったのは6〜7世紀頃。

奈良時代から平安時代には、亀卜は宮中で盛んに行われるようになりました。

実はこの亀卜、とても格式の高い占術で、それ以降しばらくは日本で相当強い力を保持していたようなのです。

当時の律令制には、神祇官と陰陽寮という専門部署が設けられていました。

神祇官は宮廷祭祇や神事を、陰陽寮は陰陽道、天文・暦などを、それぞれ専門に司っていたのです。

占法も神祇官は亀卜、陰陽寮は易筮と六壬式占(りくじんちょくせん)を用いていて、両者に重なり合う部分はなかった。

担当省庁がしっかり分かれていたって事ですね。

宮廷祭祇担当の神祇官として、卜部(うらべ)と言われる専属占い師が20人ほど置かれ、亀卜をしていたんだそうです。

ちなみに陰陽寮の管轄は、陰陽五行説や天体の運行、暦の解釈を担当する立派な学問集団で、現代の文部科学省みたいな感じです。

いずれにしても占い師を高級官僚として登用し、重要な省庁として公に位置づけていたのだから、日本もなかなか粋な国家でした。

卜部(うらべ)はウミガメの産地である対馬と壱岐、伊豆の三ヶ所に配置され、天皇の即位や病気に関する事とか、政治・経済含め国家の行く末を導いていたという。

しかしその技法は、あくまでも秘事、口伝なので、全容は明らかにされていないのです。

亀卜(きぼく)_a0253145_15104237.jpg

卜部たちは卜庭神(うらにわのかみ)を迎えて卜問い(うらどい)するのだが、その前に七日間の斎忌(さいき)に服さねばならない。

その後、祭壇の前で祝詞を唱え木製の棒を焼き、あらかじめ切れ込みをいれておいた亀の甲羅に押し付ける。

するとその熱で甲羅にヒビが入る。

このヒビ割れの形で吉凶を占う。 

といったもののようなのです。

神事に関する占いも多く、大嘗祭や斎宮祭の時、その時期や人選、天候などを占って来たらしい。

神のご託宣を仰ぐ、立派な宗教儀式だったみたいです。

もっとも記録にはその多くが「吉」と記されているという事なので、あくまでも形式的な儀式だった可能性もあります。

亀卜(きぼく)_a0253145_151236.jpg

今も皇室の神道行事には、一般国民が知るよしもない複雑なものがたくさんあって、皇族方は日々大変な努力を重ねられていると聞きます。

もしかしたら夜中の奥の院に身分の高い方々が集まって、密かに亀の甲羅を焼いて国勢を案じてる、なんて話しもあり得なくないかも知れないですよねぇ。

メガロポリス東京のど真ん中で、古代からの儀式が続いているとしたら・・・

想像してみると、かなりシュールな光景です。

卜部(うらべ)の亀卜(きぼく)。

いっそインターネットか何かで中継してくれるといいなぁ〜、なんて思っています。


http://lib.yg.kobe-wu.ac.jp/exhibition12.html   【占い】より抜粋

1.はじめに

 占いとは、日本大百科全書(小学館)によると、「俗信のうち、予兆を判断する技術」とあります。

俗信とわかっていても、女の子ってみんな占いが大好き。

もちろん、いいことしか信じません!

 占いは大きく3つに分類されます。

 ひとつは、誕生した生年月日や時間などによって、その人の生来の性質や運命・宿命などを占うもので、『命(めい)』と呼ばれます。星占い、四柱推命などが有名です。

 ふたつめは、何かを決断するときなどに、出た事象の偶然性を利用して観るもので、『卜(ぼく)』と呼ばれます。花占い、タロット占いなどがこれにあてはまります。

 三つめは、目に見える姿や形を観て現在を占います。『相(そう)』と呼ばれ、手相、姓名判断などがあてはまります。


3.「卜(ぼく)」 出た事象を偶然性を利用して観るもの

◆龜卜(きぼく)=亀甲占い

 中国古代、殷の時代に行われた占い。

 亀の腹甲や獣の骨を火にあぶり、その裂け目によって、国家の大事を占いました。

 卜という文字は、亀甲占いの割れ目を意味する象形文字からできています。

天への問いかけ : 甲骨文・金文 / 石川九楊編. -- 二玄社, 1996.12. --

(書の宇宙 / 石川九楊編 ; 1).

資料ID:30490017 請求記号:728.2/Is/1 配置場所:3階M7

◆筮竹(ぜいちく)占い

 殷代の亀卜(きぼく)に代わって、周代になると、筮竹(ぜいちく)と算木(さんぎ)による占いが生み出されました。

 筮という字は竹と巫(みこ)からなっています。読んで字の如く、50本の竹の棒で神意をうかがういます。

易経 / 鈴木由次郎著 ; 上. -- 集英社, 1974. -- (全釈漢文大系 ; 第9巻).

請求記号:928/46/9 資料ID:30276772 配置場所:0354:3階N6

路上で見かけてことがありますか?

本ずつ数えて除いていき、最後に左手に余った筮竹の数によって、乾(けん)、兌(だ)、離(り)、震(しん)、巽(そん)、坎(かん)、艮(ごん)、坤(こん)の八卦を得ます。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の八卦はここからきています。

周易, 乾・坤 / 雲川弘毅改定. 山嵜闇齋點改刻. -- 中邨貞固堂 , [享和年間].

資料ID:3036298  配置場所:2階資料室

やがて筮竹占いのテキストである『易(周易)』が整備され、五経の筆頭の『易経』として、儒教の経典となりました。

◆御御籤(おみくじ)

「くじ」に丁寧語の「御」を二つもつけていますね。社寺に参拝の折などに引いて、神仏によって吉凶を占うくじです。

順位は「大吉、中吉、小吉、吉、半吉、末吉、末小吉、凶、大凶」ですが、地方によって違います。

おみくじを木に結ぶ行為は、神道の「結び」の信仰からきた民間の風習で、持ち帰っても、木に結んでもよいということです。

ひょうご社寺巡礼 / 神戸新聞社編. -- 神戸新聞総合出版センター, 2009.

資料ID:30780866 請求記号:175.964/Ko 配置場所:2階資料室

◆六壬神課(りくじんしんか)

中国で成立した占術で、占おうとした時刻を元に天文と干支術を組み合わせて占います。

 日本では、占術・呪術・祭祀をつかさどる官職の陰陽師が行い、平安時代から鎌倉時代にかけてさかんになりました。安倍晴明が有名ですね。

 占うにあたっては式盤(ちょくばん)と呼ばれる器具を使用することがあります。

安倍晴明「占事略决」詳解 / 松岡秀達著. -- 岩田書院, 2007.(CD=ROM付き)

資料ID:30696983 請求記号:148.4/Ma 配置場所:3階M21

式盤模型を作ってみました! 式盤の材料は「地盤に雷に撃たれた棗(ナツメ)と天盤には楓(フウ)にできるコブである楓人(フウジン)」を使うのが正しいとされ、正しい材料で正しく作成した式盤には呪力があるとされています。本当に占いたい人は、附属のCD-ROMで入力できます。

◆大雑書(おおざっしょ)

日本国語大辞典によると、暦占書の一種。陰陽道にもとづいて、人間の行為・行動の吉凶を知る際の規準として、主として江戸時代に広く行なわれました。

後期には、家相・人相・男女相性・命名などの要素をとりこみはじめ、幕末に近い時期には日取りや夢判じなども含むようになり、種々雑多なことがらに対して吉凶を判ずる易占書的性格が濃くなりました。

万暦雑書寛文大成(まんれきざっしょかんぶんたいせい)

資料ID:2180239 請求記号:【十一 -1-24】 配置場所:貴重

陰陽道にもとづいた日どり・方角、男女の相性、行動の吉凶、その他今でも人気のある占いの数々が書かれています。


https://arika3953.amebaownd.com/posts/4750900/  【対馬古族 阿比留氏の歴史】抜粋

対馬直一族の行方

平安時代の初期はその名のごとく戦争のない平和が続いたが、やがて律令制の矛盾から各地で「乱」が頻発した。対馬の「天安元年の変」はそれの早い時期で、「乱」とは言わず「変」で留まった感がある。

それでも対馬の歴史にとって、これは大きな事変であった。この「変」の結果、島の名族「対馬直」(津島直)の一党が、族の名を負って史上から消えたことである。

遠流の先はわからない。想像されることは死一等を減じての遠流であることからして、最も遠い所だと思う。

そこで奥州が思い浮かぶ。奥州(青森県)の津軽には、津島あるいは対馬とした姓が多いのに驚いた。

近世初期、「柳川一件」と呼ばれる外交上の紛争で、将軍家光の親戚により津軽に流謫となった対馬藩家老柳川豊前調興(しげおき)の菩提も、弘前城下の長松寺にある。

これを訪ねて感銘したことは、津軽での調興は罪人としてではなく、客人として津軽侯に遇されていたことである。

対馬の直もこれと同じく普通の罪人ではなかったのではないかと考えられる。

阿比留氏の台頭

天安元年の変で、下県大領直氏成、上県郡少領直仁徳以下、郡司の一族から遠流に処せられた者が出て、これ以後「直」の姓を見ることがない。

直氏が滅亡したのではなく、残った者は直の姓を憚(はばか)って、改姓したのであろう(後年、柳川一件の後、柳川の係累は改姓している)。

平安朝も10世紀後半には、国・群・郷の機構に変化があったがこの時、対馬在庁に「阿比留」と称する一族が台頭した。






コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000