下毛野 古麻呂

森浩一先生の之くを送る

夏ゆくや今ごろはもう知訶島(ちかのしま)  高資

 今朝の「朝日新聞」に森浩一先生の訃報が掲載されていました。私の五島・高天原説や地域学研究では色々とご助言を賜るなど大変お世話になりました。昨年、「関東での講演はこれが最後だろう」とおっしゃってご講演にお誘い下さったことをしみじみと思い返します。先生は、ご専門の考古学はもちろん、日本の風土や地域に根ざした多元的な視座から日本文化を研究され、日本における地域学の父と言っても過言ではない貴重な存在でした。特に最新刊の『敗者の古代史』では、弱者の視点から記紀を再考するなど歴史学の新展開にも寄与されていました。とても残念でなりません。心からお悔やみ申し上げます。

https://4travel.jp/travelogue/11518341  「下野薬師寺歴史館」「下野薬師寺跡」「安国寺(薬師寺)」見学_ 栃木県下野市薬師寺1636   より

薬師寺建立の理由は

●600年代末ごろ下毛野朝臣古麻呂(しもつけの の こまろ)を筆頭とする下毛野(しもつけ)一族の氏寺(うじでら)として、自分の敷地内に建立された。その後、国の東国仏教政策の一端を担うため720年ごろから国の寺(官寺)として改修が行われた。

●「天武(てんむ)天皇が皇后(後の持統(じとう)天皇)のご病気平癒(へいゆ)を祈るために建てられた薬師寺を下毛野朝臣古麻呂が我が故郷にも建立をと真似て作ったらしい。

下毛野朝臣古麻呂(しもつけの の こまろ)

「隋や唐の律令を深く学んだようで,大宝律令の撰定に参画し,藤原不比等,粟田真人らとともに,その中心となって活躍した。」(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説より)

「地方出身であるが、豪族でもあり多分、中国語も堪能で大宝律令の編さんに参加し、都で大活躍したのでしょう」と歴史館の学芸員さんが説明していた。

下野薬師寺式軒瓦(しもつけやくしじしき のきがわら)の誕生

「下野薬師寺は、大和川原寺系の軒先瓦が出土することなどから、7世紀末に創建されたと考えられています。創建の理由は不明ですが、その背景には、大宝律令の選定に参加し、式部卿正四位下で卒した下毛野朝臣古麻呂(しもつけぬのあそんこまろ)の強い関与を想定することができます。」

下野薬師寺戒壇院(しもつけやくしじ かいだんいん)

☆重要☆

お坊さんは税金を納めなくて良いため、勝手に僧になる人が増えてしまった。そこで正式な試験を受けて合格した者しかお坊さんになれないようにした。正式なお坊さんになるため資格試験を受ける場所を“戒壇”と言った。日本に三ヶ所しかなかった。

①東大寺(奈良県)

②筑紫観世音(福岡県)

③下野薬師寺(栃木県)

これらを「天下の三戒壇」と言った。


https://ameblo.jp/mebius0707/entry-12230746123.html   下毛野 古麻呂  より

下毛野 古麻呂(しもつけの の こまろ、生年不詳 - 和銅2年12月20日(710年1月28日))は、飛鳥時代後期の公卿。名は子麻呂とも記される。姓は君のち朝臣。大義冠・下毛野久志麻呂の子。官位は正四位下・参議。

下毛野古麻呂は下野国の国造家である下毛野君を出自とする貴族で、下野国河内郡を本拠地とした。下野国河内郡に下野薬師寺を建立し氏寺としたと云われる。

経歴

持統天皇3年(689年)奴婢600人の解放を奏上して許可される(この時の冠位は直廣肆)。

文武天皇4年(700年)文武天皇により、忍壁親王・藤原不比等・粟田真人らとともに、律令の選定を命じられる(この時の冠位は直廣参)。翌大宝元年(701年)大宝律令による位階制の施行により従四位下に叙せられると、4月に古麻呂ら3人が初めて新令を講義して親王諸臣百官人に学ばせ、同年8月には大宝律令を完成させている。大宝律令選定の功労により、大宝2年(702年)参議に任ぜられ、大宝3年(703年)には功田30町と封戸50戸を与えられている。

その後文武朝では、兵部卿を兼ねて従四位上まで昇進し、慶雲4年(707年)の文武天皇の崩御に際しては、造山陵司を務める。また、同年には一族の下毛野石代について、下毛野朝臣姓から下毛野川内朝臣姓への改姓を請い、許されている。

元明朝の和銅元年(708年)正四位下・式部卿に叙任され、大将軍も兼ねるが、和銅2年(709年)12月20日卒去。最終官位は参議式部卿大将軍正四位下。なお、古麻呂の卒去により霊亀3年(717年)藤原房前が任ぜられるまでの間8年間に亘って、参議が不在の状況となっている。

官歴

『六国史』による。

• 持統天皇3年(689年)以前:直廣肆(従五位下に相当)

• 文武天皇4年(700年)以前:直廣参(正五位下に相当)

• 大宝元年(701年) 従四位下、右大弁

• 大宝2年(702年) 5月21日 参議

• 大宝3年(703年) 2月15日:功田10町、封戸50戸賜与。3月7日:功田20町賜与。

• 慶雲2年(705年) 4月22日:兼兵部卿。不詳:従四位上

• 慶雲4年(707年) 10月3日:造山陵司(文武天皇崩御)

• 和銅元年(708年) 3月13日:式部卿。7月15日:正四位下。日付不詳:大将軍

• 和銅2年(709年) 12月20日:卒去。最終官位は式部卿大将軍正四位下

と書かれておりました。

「毛野」の由来  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E9%87%8E  より

「毛野」の名称の由来には、次のような諸説が提唱されている。

穀物の産地説

肥沃な地であったことに由来したとする説。その様子を表した「御食(みけ)」が地名になったという。また、「毛」が草木・五穀を意味したという説もある。

「毛人(蝦夷)」説

「蝦夷」を古くは「毛人」と記したことから、「毛の国」、二字表記にして「毛野」の字が当てられたとする説。『宋書』倭国伝の倭王武の上表文には「東に毛人を征すること五十五国」という記述があり[原、この「毛人」との関係が指摘される。

「紀伊」説

豊城入彦命に代表される「紀の国」出身者が移住し、「きの」が転訛したとする説。『日本書紀』には豊城入彦命の母が紀伊出身である旨が明記されている。『常陸国風土記』筑波郡の条には「筑波の県は、古、紀の国と謂いき」(筑波は昔は「紀の国」といった)との記載がある。「紀の国」の「紀」を城柵と解釈し、朝廷に従わず城塞となる国とする説もあるが、本居宣長は『古事記伝』で「木(き)の気(け)と云ることもあり」とし、木の国すなわち「紀の国」が「毛の国」と転訛したとする。関連して、上毛野氏が歴史編纂にあたって祖先の名を「とよき(豊城入彦命)」、信仰する山の名を「あかき(赤城山)」とした、とする説がある。また、鬼怒川(衣川/毛野河)流域に権勢を有した宇都宮氏の郎党である益子氏(紀清両党の1つ)は、紀伊国造家と血縁を有する紀氏の出自といわれる。

なお『上野名跡志』では、『和名抄』に見える下野国河内郡の「衣川郷」が元々は「毛野郷」であったと推測して、「毛野」の地名起源を同地とする説を挙げる

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/emisi.html       対蝦夷政策史略年表 811(弘仁2)年まで

https://buddhist-study.jimdo.com/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3-2-%E6%96%87%E6%AD%A6-%E3%82%82%E3%82%93%E3%82%80-%E5%A4%A9%E7%9A%875%E5%B9%B4-701-%E5%A4%A9%E5%B9%B321%E5%B9%B4-749/   エミシとその時代 2 文武(もんむ)天皇5年(701)~天平21年(749)


https://www.bs-tbs.co.jp/rival/bknm/08.html    大化の改新

古代史最大のライバル対決

7世紀前半の飛鳥。豪族が支配する世から天皇中心の中央集権国家へと移り変わる歴史の転換期。実質上の政治の権限は蘇我氏の手に握られ、「日本」という国家の出発点・大化の改新が起こる。それは、波乱に満ちた幕開けでした。645年6月12日。時代の流れを大きく変える事件が起こります。時の天皇、皇極女帝の目の前で、時の権力者、蘇我入鹿が襲われたのです。首謀者は皇極女帝の息子、中大兄皇子。これが、蘇我入鹿暗殺です。なぜ2人は対決することになったのか。古代史史上最大のライバル対決、蘇我入鹿と中大兄皇子。大化の改新の幕が上がります。

跡継ぎを巡る後継者争い

642年1月。史上2人目の女帝、皇極天皇が誕生した時、2人の男の運命が大きく変わろうとしていました。ひとりは天皇の力をも凌ぎ、都が置かれた奈良の地を拠点にしていた豪族の後継者、蘇我入鹿。もう1人は、天皇家の有力な跡継ぎとして生まれた、中大兄皇子。一方の中大兄皇子は父、舒明天皇、母、皇極天皇という2人の天皇を両親に持つサラブレッド。片や入鹿は蘇我一族。天皇家との政略結婚でその勢力を拡大し、天皇家を凌ぐ力をつけていました。そのトップが蘇我入鹿でした。皇極天皇即位にともない、父、蝦夷から、国政の最高位、大臣(おおおみ)を与えられました。権力を手にした入鹿の非道ぶりに人々は恐れおののいたと言います。一方中大兄皇子は、完璧な血筋ゆえに後継者問題に巻き込まれる運命にありました。皇極天皇が即位した当時、皇位継承候補として名が挙がったのは4人。山背大兄王(やましろのおおえのおう)、舒明天皇の子で、入鹿のいとこ、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)、皇極天皇の弟、軽皇子、そして中大兄皇子。中でも山背大兄王は諸豪族から厚い信頼を寄せられ、最も有力な皇位継承候補者でした。しかし、大臣の権力を譲られてまだ1ヶ月にも関わらず入鹿は、妹の息子、古人大兄皇子以外の他の皇位継承候補者の排除に乗り出すのです。これが入鹿と中大兄皇子の対決の幕開けです。中大兄皇子の祖父・彦人大兄皇子(ひとひこのおおえのみこ)は、次期天皇を約束されていた人物。しかし、入鹿の祖父、蘇我馬子に暗殺されたとの噂や、中大兄皇子の母、皇極天皇の愛人関係にあったとも言われていたのです。二人の関係を知った中大兄皇子が入鹿に憎しみを抱いたとしてもおかしくありません。蘇我一族によって祖父を殺され母も奪われた中大兄皇子。この時こそライバル誕生の瞬間でした。

#8 「蘇我入鹿 VS 中大兄皇子」

欠かせない一人の男

横暴な蘇我入鹿に対し中大兄皇子が立ち上がるのは1人の男との運命的な出会いがきっかけでした。飛鳥寺で行われた蹴鞠の席で脱げ落ちた中大兄皇子の靴を拾って渡した男。それは中臣鎌足。この時、鎌足が入鹿の横暴を取り除くよう進言。2人の入鹿暗殺計画はこの出会いから始まったと言われています。この暗殺計画の刺客として鎌足が目をつけたのは網田と子麻呂、そして石川麻呂の3人。この石川麻呂は入鹿と不仲だと言われ、蘇我家の内部崩壊を狙った石川麻呂を味方にするため、中大兄皇子はその娘と結婚しました。娘をたてに、暗殺計画にひきずりこもうとしたのです。そして計画をいつ実行するか考えます。朝鮮三国の使者がくる重要な儀式があれば入鹿も顔をみせると偽物の儀式を考えます。そして、運命の日はついにやって来ます。朝鮮三国から天皇へ貢ぎ物が献上される儀式の日。入鹿も儀式に参加するために姿を現します。そこへ1人の男が剣を渡すよう入鹿に迫ります。これは鎌足の罠。入鹿が常に剣を身につけていることを知っていた鎌足から剣を取り上げるためひと芝居打ったのです。万事鎌足の計画通り進み、入鹿が席につき儀式が始まります。石川麻呂が上奏文を読み上げる。実はこれが2人の刺客が入鹿に襲いかかる合図でした。しかし2人の刺客は恐怖のためか動く事ができません。上奏文の終わりが近づき石川麻呂の手が震える。計画は失敗かと思われたその時、中大兄皇子は自らの手で蘇我入鹿の首をはねます。これが入鹿暗殺の顛末でした。

隠されたストーリー

天皇中心の国家を目指す中大兄皇子らが起こしたクーデター、蘇我入鹿暗殺。その背景には別の首謀者がいた可能性があると言います。その鍵は入鹿が起こした、山背大兄王(やましろのおおえのおう)襲撃事件にありました。『日本書記』によればこの事件は、権力を手にしたい入鹿が山背大兄王を襲撃、一人で犯行に及んだとあるのです。藤原氏の伝記・『藤氏家伝』では襲撃は入鹿一人の犯行ではなく、多数の皇族が加わると言う記述も。しかも入鹿の単独犯を否定する史料は他にもあったのです。平安初期に書かれた聖徳太子の伝記でも入鹿は単独犯ではなく実行犯の一人とされています。この事件には6人の首謀者が挙げられ、その中には意外な人物もいました。皇極天皇の跡を継いだ軽皇子。ここに興味深い事実が明らかになってきます。中大兄皇子以外のクーデターに参加したものたちは、「地縁」でつながっていたのです。中臣氏、石川麻呂は和泉地方に多くの支配地を持ち、刺客の小麻呂と網田は、河内・和泉の出身。そしてその中心に、和泉に宮殿を持つ軽皇子がいたのです。クーデターの主役は、中大兄皇子ではなく軽皇子だったのではないかと考えられます。入鹿が暗殺された時点で4人いた皇位継承候補者は、中大兄皇子と軽皇子の2人に絞られます。2人の内一番得をしたのはどちらだったのか。答えは皇極天皇の跡を継ぎ天皇となった軽皇子だと言えるのではないでしょうか。さらに意外な人物が軽皇子に仕えていたこともわかりました。それは中臣鎌足。実は、鎌足は2つのシナリオを持っていました。1つは、軽皇子の邪魔となる山背大兄皇を取り除き、その罪を蘇我入鹿に押し付けることで、入鹿暗殺の大義を手に入れます。そして、入鹿に不満を持つ中大兄皇子を利用して、あの古代日本史史上最大のクーデターを起こさせたのです。蘇我入鹿と中大兄皇子。2人の対決の裏には、一人の男の陰謀があったのでしょうか。

ここから始まる藤原氏の栄華

中大兄皇子とともに入鹿暗殺を実行し、軽皇子の即位に成功した中臣鎌足。今度は、中大兄皇子の即位を実現します。蘇我入鹿暗殺から実に23年のときが経っていました。即位の翌年、鎌足は天智天皇となった中大兄皇子から、それまで誰にも与えられなかった最高位「大織冠」、そして、「藤原」という姓を授けられます。ここから1000年にも渡る藤原氏の栄華が始まることになるのです。

https://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/soga/soga04_3.html

馬子の後を継いで大臣の地位についていた蝦夷は、推古の死で蘇我氏にとっての第二の破局に直面する。天皇の後継者をめぐる争いが再燃したのだ。推古の遺志は、敏達天皇と広姫の孫・田村皇子を跡継ぎにということだったらしい。けれど、遺言はそれほど明確なものではなかった。馬子の弟つまり蝦夷の叔父・境部摩理勢は聖徳太子の子供・山背皇子を天皇に推して、田村皇子を戴こうとする蝦夷と鋭く対立する。

これは、蘇我のどの家系とも血のつながりの強い山背皇子を天皇にたてて蘇我氏全体の立場を守ろうという摩埋勢の方針と、本宗家と天皇の関係を常に卓越したものとしておこうという蝦夷の思惑との衝突だったと考えるのが一番自然だろう。

上宮家の滅亡(橘寺蔵「聖徳太子絵伝」)

上宮家の滅亡

(橘寺蔵「聖徳太子絵伝」)

さらに言えぱ、馬子亡きあと蘇我氏の長老の位置にあった境部摩理勢と、本家の甥・蝦夷との相譲れないプライドの問題もあったかもしれない。双方の言い分はどちらにももっともな理屈があり、双方の勢力も拮抗していたのだろう。群臣の意見も二つに分かれて纏まりがつかない。この時ちょうど、蘇我の諸家は共同して馬子の墓を造っていた。摩理勢は墓所の仕事場から引き上げて、本宗家の方針を批判。さらに聖徳太子の一族・上宮王家との連携を強める姿勢をしめす。

族長の蝦夷は、40年前の馬子のひそみに倣って強行手段にうったえ、言うことをきかない境部摩埋勢とその息子たちを殺してしまう。結局、蝦夷が武力にものをいわせて反対派を黙らせた後、田村皇子が即位して舒明天皇となった。舒明の皇后は宝皇女、二人の間の子供に葛城皇子(中大兄)と大海人皇子がいる。馬子の娘・法提郎媛が夫人となり古人皇子(大兄)を生む。

蝦夷は大臣として馬子の地位を継ぎ、本宗家はその方針をつらぬいて権力の座を確保したかのようにみえる。しかし、第一の破局の時と情勢は大きく違っていた。馬子の場合は物部氏を倒すことによって唯一といってもいい対抗勢力を取り除き、蘇我一族の結束を固めることができた。馬子には、口うるさい金持ちの叔父さんたちもおらず、弟たちは兄の力が強くなれぱ自分たちの地位もあがることをよく心得ていた。

蝦夷の場合、境部臣を片付けても対抗者を一掃したことにはならなかった。馬子の兄弟は、既にそれぞれが有力な貴族として一家をなしているのだ。その一つを仇敵のように攻め滅ぼすという強引なやりかたは、一族内に大きな不満と危機感とを残したに違いない。境部を倒した蝦夷の一撃は、蘇我氏のまとまりに深刻なひぴ割れをつくって、馬子の下で一枚岩の結束を誇っていた強大な蘇我の力に分裂のきざしが見えはじめる。

舒明天皇は仮宮とはいえ、一時、田中臣の本拠、田中に宮殿をうつしている。また、舒明の大療に際して、誅をしたのは法提郎媛の子・古人大兄ではなく葛城皇子だったいう。

どうやら、舒明朝を通じて何もかもが蘇我本宗家の思い通りに動いていたわけではないようだ。蘇我氏の内紛と、これを睨んだ王家、他豪族の水面下の動きが渦巻く中で、舒明天皇13年の在位は終わりを告げる。


http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter2-4.html    ①「乙巳の変」と高向臣  より 

馬子は嶋宮に館を構え、大臣になってからは「嶋大臣」と呼ばれましたが、その前後から「(蘇我)葛城臣馬子」と称していたと推測されます。これは馬子が推古大王に、「葛城の県(あがた)は私の元の本拠であり、その県にちなんで姓名を名乗っている」と言ったことに拠ります。
馬子と同時代に厩戸皇子の側近として、大王家以前から葛城に居住していた古代の大豪族で皇別(こうべつ。大王や皇子の子孫)葛城氏の血筋を引く、葛城臣烏那羅(かつらぎのおみおなら)という人物がいました。信憑性はありませんが、馬子は葛城氏も蘇我氏も祖先が同じ建内宿禰(たけのうちのすくね)だという理由を付けて、実質的に葛城県を既に支配下に置いていために、馬子も葛城臣を名乗っていたようです。馬子はそのことばに続いて葛城県の私有を申し出ましたが、葛城氏が完全に凋落していたわけではないので、推古帝に強引すぎることをたしなめられて、実現しませんでした。

しかし馬子が葛城臣と称していたことに対する咎めは受けていませんから、蘇我の宗家であり同時に葛城氏の長という立場は認められていたということでしょう。馬子の母と妻について詳しいことは不明ですが、住まいが葛城にあったと言ったことから、義母(稲目の妻の一人)が葛城本宗家の娘で、そこに生まれた娘が馬子の正妻になって、葛城一族を統率する立場になっていたものと思われます。稲目も馬子も、往時の畿内で名門豪族だった葛城氏を取り込むために、葛城氏宗家の血統にある娘と無関係だったとすることはできないからです。さらに推測すれば、敏達大王のあとに大兄皇子が大王(用明)に立てられたのは、稲目からすると用明大王が娘の石寸名(いしきな)の夫として義理の息子であり、同時に娘の堅塩媛の子として孫でもあり、さらに嫡男馬子の義理の兄でもあったという理由もあったからだろう、と考えられます。用明大王はまさに蘇我氏のために擁立させられた大王だったわけです。用明大王と石寸名の間に生まれたのが田目皇子で、葛城直磐村の娘の広子との間には、当麻氏の祖になった麻呂子皇子(当麻皇子)をもうけています。

そして蝦夷は、宝皇女が大王(皇極)になったとたん、葛城の高宮(御所市の高宮廃寺跡)に祖廟を建てて、そこが蘇我の領有地であることを宣言しました。大王はそれを責めていませんから、蝦夷の代には蘇我氏が葛城氏を完全に押えてその土地の実権を握っていたことがわかるのと同時に、これも蝦夷と皇極大王の強い関係を示していると考えられます。蘇我氏の人物の呼称については、養育関係に基づく場所の名前だけでなく、血縁関係がなくても、別氏族の長に指名されて、その氏族の名を付けた「臣」や「王」と名乗ることがあったと推定されます。

馬子の異母弟だったと推定される摩理勢(まりせ)は、「境部臣」を名乗りました。天武天皇が定めた「八色の姓」で、朝臣に次ぐ姓の宿禰を授けられて、境部(橿原市)に居住していた氏族に「坂合部連」(さかいべのむらじ)があり、彼らの族長となって統率したと考えられているのが「境部臣」です。摩理勢を馬子の弟、また従弟とする説もあります。摩理勢は上宮家との係わりが深く、泊瀬王(山背王の異母弟)を頼りにしていたことや蝦夷への反発、また蝦夷に討たれたことなどから、馬子の実弟(蝦夷の実叔父)とは考えにくく、馬子の異母妹(小姉君あるいは石寸名)の兄弟だったのではないか、と思われます。

ちなみに、摩理勢は田村皇子(舒明大王)の皇位継承の前に山背皇子の擁立を決めていましたが、大夫たちに「大兄王の命に違うてはならぬ」とたしなめられています。これは非常に示唆に富むことばです。山背王はその前に不服でも蝦夷の決定に従うと言っていますので、摩理勢が独走した悪者になります。そして、ここからの『紀』の構図は、舒明大王を立てるまでの蝦夷も、摩理勢が擁立を謀った山背王も善人であり、のちに、皇極大王を立ててから悪人になった蝦夷と、善人であり続けた山背王を入鹿が独断で討って一族を滅ぼしたので、蝦夷と入鹿を中大兄皇子が討った、という流れになります。

更に蛇足ですが、筆者は、田村皇子の擁立を馬子は生前に決めていて、推古大王にも蝦夷にも伝えていたのですが、内紛を恐れた蝦夷がすぐに命令を出せなかったために混乱し、最終的に摩理勢を処断して収めた、と考えています。

推古大王の宮の上殿(かみつみや)を与えられた厩戸皇子は「上宮王」と呼ばれ、その子の山背大兄皇子は山背氏に養育されたものと考えられています。

山背臣の人物では、推古期に山背臣日立(ひたて)がわが国で初めて方術を学んでおり、「八色の姓」で山背臣が朝臣姓を授かっていますが、系譜は不詳です。しかし山背を付けられた皇子が、「山背臣」や「山背王」とも称されていました。山背大兄皇子が「山背大兄王」とも記されているからです。

『記』においては、欽明大王と堅塩媛の間の第八皇子山背王子が「山代王」、押坂彦人大兄皇子と桜井玄(ゆみはり)皇女(『紀』の敏達大王と推古大王との間の第七皇女、桜井弓張皇女)も「山代王」の名を継いでいます。

皇極大王の祖父になる桜井皇子は、『記』では桜井玄(ゆみはり)王と記されますが、「吉備王」と呼ばれていた可能性もあることを述べました。これは吉備姫王の父だったことからも妥当性があると思われます。また、後述しますが『紀』で「身狭(武蔵)臣」と呼ばれた蘇我日向は、『続紀』「文武紀」に記される「日向王」だと推定されます。

従って、馬子から大臣位を継いだ蝦夷についても、館を構えた場所から「豊浦(とゆら)大臣」と称されたのですが、入鹿が林臣と記されるのと同様に、養育された士族の長としての立場もあったものと考えられるのです。

その推理に重大な暗示を与えてくれるのが、「皇極紀」に記される高向臣国押(たかむこのおみくにおし)です。

高向氏は南河内に拠点を置いた古族で、蘇我宗家と祖(武内宿禰)を同じくするとされています。その一族は恐らく継体大王の時代から、大王家の警護役を任務としていたようです。蝦夷も、高向氏は大王家に対する蘇我氏の見張り役だと思っていたのでしょう。しかし長く大王家についていた高向氏は、蘇我氏の分断と宗家の打倒を狙う鎌足と中大兄皇子にすでに抱き込まれていたのです。

だから入鹿たちが山背大兄王を攻めて一旦取り逃がした時には、国押は「大王の宮を守るのが役目」と、追討の兵を出すことを拒みました。

そして「乙巳の変」では、国押は蘇我宗家に対して明らかな裏切り行為に出ました。入鹿の遺体が蝦夷に送られたあと、甘樫丘(甘橿丘)の北側の尾根にあった蝦夷の館の守りについていた東漢氏などを、「吾等は君大郎(きみたいろう)のことで死刑に処せられるだろう。大臣も今日明日のうちに殺される。それなら誰のためにむなしい戦をしなければならないのか」と、解散させてしまったのです。東漢氏は技術や武力を持って、古くから蘇我宗家に直接従った数十の枝族からなる大集団でした。

国押のその言葉では蝦夷を単に「大臣」として、「君大郎の父」と切り離しています。しかし「君大郎」は「主君の大郎」で、大郎は太郎つまり長男のことですから、君=蝦夷で大郎=入鹿です。また、国押を長とする高向臣の君(=王)が蝦夷だったことを暗に示しています。

『紀』のこの箇所については『藤氏家伝』(正式には『家傳』で藤氏の名はついていない)とほとんど一致していて、入鹿を示す「君大郎」も使われているので、『紀』と『家伝』のどちらが元になったのか疑問なのですが、「賊党高向国押」と記しているのが目につきます。鎌足が利用して協力させた国押を「賊党」にしたことに、『藤氏家伝』の性格が現れています。国押が「大臣も今日明日のうちに殺される」ことを一人で勝手に予測したはずがなく、計画を国押に教えた人物がいたことを隠しているからです。

高向臣の名称については、蘇我稲目の弟の蘇我塩古(しおこ、また桓古ともいう)が河内の高向村に居所を構えたので「高向臣」の姓を負ったとされています。塩古が初代高向臣で、蝦夷は豊浦に居を構えながらその地位と名称を継いだ「高向臣蝦夷」として国押の君(王)だったと考えられます。

つまり、 蝦夷が養育された氏族については、その名前から東国の氏族と見る説がありますが、ここから考えられるのは、蘇我蝦夷は高向臣に養育されたことです。

高向氏は蘇我氏と同祖と伝える名家で、国押は大王の宮の警護長を務めるほどの重用人物ですから、『紀』の流れからすれば、入鹿が殺されたために国押に死罪を与えられる力を持った人物は、彼らの統率者だった蘇我本宗家の蝦夷しかいなかったのではないかと感じさせます。ところが国押は、すぐに殺されるとわかっている蝦夷に死刑にされることはないと知っていたのです。

だからここでは、国押の部隊と東漢氏の兵たちを処罰できる人物が別に存在していた、と考えなければなりません。ここで細かく見直さなければならないのは、国押は「吾等は死刑に処せられるだろう」が「守るべき人がいなくなるのだからむなしい戦はやめよう」と言っていることです。つまり、東漢氏も死刑になるとは言っていないのです。

国押を死刑にできて東漢氏も罰せられる人物は、国押を入鹿の殺害計画に引き込んで利用していた中大兄皇子でも鎌足でもあありえません。そうなると残りはただ一人、――用明大王の孫だった高向王の子で父の王称を継いでいた可能性が高い「高向王」、同時に東漢氏との深い関係が推測される「漢皇子」だったとみなさざるを得ないのです。

そして、この推定で浮かび上がってきたのは、夭折説も出されていた漢皇子が乙巳の変の時点までは生存していたという新しい発見です。

しかし漢皇子は国押を死罪にできませんでした。なぜなら、国押は孝徳朝で貴族に列する刑部尚書(ぎょうぶしょうしょ)に就いた、と伝えられているからです。また東漢氏をすぐに罰することもできませんでした。しかし東漢氏は天武天皇の代になって大きな叱責を受けることになります。これがあとで極めて重大なヒントになりますが、恐らく入鹿が暗殺されたことはすぐに漢皇子に知らされなかったか、皇子が動きを封じられてものと思われます。

国押が蝦夷を裏切った理由は、高向臣の長の座が、蝦夷の死によって「賊党高向国押」(『家伝』)が高向臣国押(『紀』)に与えられたことから明白です。国押と蝦夷は恐らく幼少時からの友達で、国押からすれば蝦夷は単に一族の養育者であり、族長は自分が務めるべきだと思っていたはずです。その心理を利用した恐るべき人物が、外向けには国押を臣にして立てながら内では賊党扱いにしていた鎌足だったと考えれば、乙巳の変の裏の流れが読めます。

蝦夷親子について、「皇極紀」は「甘橿丘にならべて建てた、蝦夷大臣の館を上(かみ)の宮門(みかど)、入鹿の館を谷(はさま)の宮門と呼んだ。またその男女を王子(みこ)と呼んだ」、と記しています。この記事からも、蝦夷が「王」と呼ばれていたことがうかがわれます。『紀』はそれを事実として記載しているだけであって、それを天皇家に対する不遜や専横と捉えたのは近世になってからの解釈です。

その他に従来は、①蝦夷が葛城の地に祖廟を建てたこと、②そこで八佾の舞(やつらのまい。大王だけに許された8人8列の群舞)を舞わせたこと、③双墓を造らせて蝦夷の墓を大陵(おおみささぎ)、入鹿の墓を小陵(こみささぎ)と呼んだこと、④館を宮門と呼ばせて子女を王子と呼ばせたことなど、すべてを混同して、蝦夷が大王を差し置いて数々の横暴な行為を行ったと捉えられてきました。

 しかし①から③に対して怒りを表したのは、山背大兄王と共に自害することになった上宮大娘姫王(かみつみやのいらつめのみこ。厩戸皇子の娘の舂米女王(つきしねのひめみこ)とされる)です。この妃は大王家に仕えた膳(かしわで)氏の娘でしたから、蘇我宗家に対する反発を強調されたのでしょう。

 『紀』はそれらを蝦夷と入鹿が殺害される原因と記しましたが、皇極大王がそれらの行為に反対したとは記していません。

しかも②には皇極女帝が参列していた可能性があり、③については、死後に墓の造営で民を苦しめないためだとの説明を付けていますから、理解を示しており、④は蝦夷は舒明大王以前の筆頭外戚であり皇極大王を立てた皇族ですから、単に臣下の傲慢のなせる業だったとは言えません。

また蝦夷が自害した当日に、皇極女帝は蝦夷と入鹿を墓に葬ることも、喪に服して泣くことも許しています。女帝は二人を罪人ではなく、通常死を遂げた宮人と同じように葬って送るように命じたわけです。それは憎しみを持っていた者たちに対する刑ではなく、『紀』が伝えようとする、馬子から蝦夷と入鹿に及んだ蘇我宗家の横暴に対する処罰でもなかったのです。

入鹿が皇極期になって突然権勢を振るったように思われるのは『紀』の文章によるためで、皇極女帝が特別に頼りにしてかわいがったのを、『家伝』は反感とねたみから「寵幸近臣」としたのでしょう。そうでなければ鎌足を軽皇子の寵臣と記した理由も理解できません。





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