北上川 茅の湿原

五島高資 川霧をまとって幻想的でした!!


http://www.thr.mlit.go.jp/iwate/kodomo/chousatai/con6/top.html   

北上川の名前の由来

この地方は日本書記にでてくる『武内宿禰、東国より環りまいてきて奏して言さく、「東の夷の中に日高見国あり…』(景行天皇27年2月条)の日高見国ではないか、といわれています。日高見国がどこにあるかは、はっきりとしていませんが、朝廷の権力のとどかない辺境の地をさしたものと考えられています。

その日高見国を流れる川「日高見国の母なる川」の意味が、日高見川(ヒタカミ川)→キタカミ川、やがて北上川とあて字をするようになったといわれています。

(参考資料)北上川百十年史-国土交通省東北地方建設局

 

http://saigyo.sakura.ne.jp/kitakamigawa.html   北上川(岩手県)

東北の代表的な河川と言えば、北上川、阿武隈川、最上川ぐらいかな。そのうち阿武隈川と最上川は立派な歌枕で、数多の歌が詠まれている。ところが北上川を詠んだ歌はほとんど見当たらない。北上川の流域は、平安時代まで蝦夷国に支配されていたので大和国の文化が浸透していなかったのかなと思ったり、「北上(きたかみ)」という名が一般的過ぎて詩作のモチーフとして弱いのかなとか、いろいろ考えていた。

けれども北上川の名称は、古代蝦夷国の美称である「日高見」に由来するという説もあり、いろいろ奥行きは深そうだ。


霞たつ北上川からは否応なく葦 茅 の茂る湿原を連想します。


http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099284.html

【第2節・日高見国の滅亡とアテルイの死】


https://www.komenet.jp/bunkatorekishi01/20.html  イネのふるさと  より

 イネの栽培の歴史は古く、紀元前12~13世紀頃の最古の文献『リグ・ヴェーダ』にイネ(vrihi)のことが書かれています。イ ネが栽培された当初は、おそらく山地・丘陵でアワ、ヒエ、キビなどの雑穀類とともに混作されており、その後、イネだけが独立して水田で栽培されるように なったものと思われます。その理由として、イネは水田栽培に適しており、うまく育てると収穫が多くなり、しかも安定していること、穀粒が他の雑穀類と比較 して大きく、モミもとりやすいので調理しやすい点があげられます。栽培地の条件に応じて、水田で栽培される水稲と、乾燥に強く畑で栽培される陸稲(オカ ボ)に区別することができ、米質により、粘りのあるモチ米と粘りの少ないウルチ米とがあります。

 私たち日本人が3000年間もの長きにわたって利用している米、ジャポニカ種の祖先となるアジアイネの原産地は、いったいどこなのでしょうか。現在最も有力なのが、中国の長江中・下流域とする説です。すでに紀元前5000年、浙江省河姆渡(かぼと)遺跡から、炭化米や稲穂の文様を描いた黒陶などがみつかっています。朝鮮半島南部を中心とする地域からも、約2500~3000年前の炭化米やヒエ、アワ、ムギなどの雑穀類が一緒にみつかりました。


http://agrin.jp/hp/q_and_a/kome_rekisi.htm   

稲はもともと自然にはえていました。つまり野生の稲です。野生の稲が変化して、栽培(さいばい)できる今の稲になったのです。

 今アジアで作られている稲が生まれた所は、

①インドの北東部からラオスの西部にかけての、中国雲南省の南西部より南の地方(この地域からは3,800年前の「モミがら」の化石が見つかりました。)

②揚子江の中流から下流の地域(この地域には、50ぐらいの遺跡が発見されていて、今から、9,000年前~8,000年前に、お米を作っていたことがわかりました。イネの「モミ」や「くき」の化石が出てきたからです。現在発見されている栽培種で最も古いものです。)

の2つの説が考えられています。

 どちらが正しいのかはわかりませんが、どちらにしても、水辺の地域で、最初は、水辺に生えている野生の稲を集めて食べていたものと考えられています。

 米作りは、野生の稲のタネを取って集めた後に、モミを住んでいる場所の近くにわざとばらまいたりして(=タネまき)、大きくなってモミが実ったら取って集める(=収穫)ことから始まったと伝えられています。

 このようにして、それまで狩猟に明け暮れていた原始の人たちは、人をじゅうぶんに養えるだけの食べ物を安定して手に入れるために、原野をきりひらいて農耕や牧畜を始めました。

 原始時代の人たちは、もともと自然に青々と生い茂るたくさんの草木の中から、その土地の風土によくあって、収穫量の高い植物を選び出していったのです。そして、それがその地方の食べ物として食べられるようになっていったわけです。稲だって最初は雑草のようにしか見えなかったのが、意外と収穫量が他のものより多いことに気づいたのでしょう。

 やがて、メソポタミアを中心とする西側では、主食としては麦が選ばれ、インドや中国を中心とする東側では、米のほかにアワやヒエといった「こくもつ」が選び出されました。そして副食品としては狩猟動物や飼い慣らした動物の肉や乳、さらには海の幸、山の幸にも手を伸ばしていったのです。 アジアで米が主食になったわけは、稲という植物がアジア(日本も入ります)の気候によく合い、たくさんの人を養うことができたからです。

 また、揚子江下流地域の遺跡からは、世界で一番古い「田んぼのあと」が発見されています。今から6,000年前のものと考えられています。

 日本へ米が伝わった道すじは、3つぐらい考えられていて

①揚子江の中流から下流の地域⇒中国大陸を北上⇒山東半島・朝鮮半島⇒北九州

②中国大陸をもっともっと北上⇒遼東半島・朝鮮半島⇒日本

③揚子江下流の地域⇒西九州

このうちどれが正しいかは、まだわかっていません。

 日本の中では、一番古い田んぼは、縄文時代の終わりころ(2,500年くらい前)のものが発見されています。(ただし、イネの化石で一番古いのは、岡山県の遺跡から、3,500年前のものが見つかっていて、当時は田んぼでなく畑でイネを作っていたのではないかという説があります。)

 今から2,500年前の縄文時代に「水田での米作り」の技術が伝わり、田んぼでイネを作り始めたことが、縄文時代を終わらせて弥生時代に変わるきっかけになったといわれています。弥生文化は、田んぼでの米作りが基礎になっている農耕文化で、縄文文化とは明らかに違っています。

 大昔に、東南アジアで生まれた稲は、人がタネを持って移動し、世界各地でたくさんの種類が増えていったのです。東南アジアのほか、インド、中国に文明が栄えたのは、こうした多くの種類の稲が、多数の人間の食生活をささえてくれたからです。稲というのは、気温が高く雨が多い、水が豊かなアジアの国々の気候・風土によく合い、たくさんとれるのです。

 日本でも邪馬台国(やまたいこく)をささえていたものの1つが、米作り・お米であったことはまちがいないといわれています。このころすでに、お米は主食のこくもつになっていました。お米作りが始まる前の日本の人口は、20万人くらいだったのが、奈良時代には600万人、江戸時代の後半には3,000万人に、最近は1億2,000万人以上に増えました。日本列島でこれだけの人口を養ってこれたのは、イネがほかの作物に比べて、日本の気候に合って、たくさんとれたからなのです。この、お米のすばらしさに気づいた昔の人々は、いっしょうけんめいに田んぼでイネを作り始め、お米をとるようになっていったのです。

https://www.komenet.jp/bunkatorekishi01/112.html   伝わったのは縄文時代の終わりころ

日本では、戦後まもない頃に発掘された静岡県登呂遺跡から水田跡や炭化米、農具が発見され、これにより稲作は弥生時代になって初めて日本に伝えられ たと考えられていました。しかし、弥生時代以前にもイネの栽培が行われていたという確かな裏づけが、昭和35年以降、九州地方の縄文遺跡から発見され始 め、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことは明らかです。それよりも古い時代に原始的農耕が行われた可能性さえあるのです。

 イネが日本にもたらされた最も古い証拠は、縄文時代後期末までさかのぼります。(7)福岡県や(8)熊本県の遺跡の土壌から、この時期のものと推定されるプラントオパール(イネ科植物の葉身にある、ケイ酸を含む細胞)が検出されており、これによってイネの痕跡が確認されています。

表1 縄文時代区分

草創期     B.C. 10,000~7,000年   早 期   B.C. 7,000~4,000年 

前 期  B.C. 4,000~3,000年     中 期 B.C. 3,000~2,000年

 後 期 B.C. 2,000~1,000年    晩 期 B.C. 1,000~200年

(日本考古学小辞典より)

やや時代はくだりますが、確実な証拠が九州各地でみつかりました。(1)福岡県の板付(いたづけ)遺跡や(2)佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見されています。水流をせき止めて調整する柵(しがらみ)もありました。

 年代からというと、菜畑遺跡は今から約2700年ほど前のもので板付遺跡の水田を含む層(晩期終末)よりも、およそ100年以上さかのぼります。このこ とは、日本における水田稲作の開始が、従来考えられていた時期よりも、さらに200~400年も前だったことを意味します。

 板付や菜畑における水田では、非常に整備された形で、水稲耕作が行われていたらしく、しかも同時代の稲作を行った痕跡のない遺跡とは孤立した状態で発見されています。こうした点から、すでに縄文晩期には、大陸で稲作を行っていた集団が稲作技術とともに日本に渡来し、稲作をおこなっていたと考えられるのです。

 水田稲作技術が伝わる以前は、イネをアワ、ヒエ、キビなどの雑穀類と混作する農業が行われていた可能性があります。たとえば、菜畑遺跡では晩期の層から炭化米とともにアワ、オオムギといった雑穀類やアズキがみつかっており、同じ時期の(3)長崎県雲仙地方の山ノ寺遺跡、(4)大分県大石遺跡からは、イネの圧痕がみられる土器が発見されています。遺跡が台地に立地することから、谷あいの湿地か畑でイネが栽培されていたのかもしれません。

 以上のように、縄文時代の晩期、九州では灌漑(かんがい)による水田稲作がおこなわれる一方で、畑では陸稲や雑穀類の栽培がおこなわれていたと思われま す。しかし、水田稲作をおこなっていた人々と、畑で陸稲栽培をおこなっていた人々の由来や相互の関係については、まだ解明されていません。

 縄文晩期、北九州地方に伝来した水田稲作技術は、その後、弥生時代になって急速に日本列島を東へと伝播し始めます。現在まで、弥生時代の水田は全国で20か所以上見つかっています。最も有名なのが(5)静 岡県の登呂遺跡(弥生後期)で、その遺跡から発見されたのが図1-2のような農具です。前に述べた佐賀県の菜畑遺跡では、弥生時代前期の層から大型の水 路、堰(せき)、取排水口、木の杭や矢板を用いた畦畔(けいはん)といった大規模な水田遺構物が出土しています。すなわち、この地域では縄文後期から引き つづいて水田稲作が行われていたと思います。

図1-1 遺跡と稲作関連出土品

1 板付遺跡(福岡県) 穀類:炭化米、土器に付着したモミ圧痕

農具:石包丁、石斧、田下駄

水田遺構:水田跡、用水路、柵(しがらみ)

2 菜畑遺跡(佐賀県) 穀類:炭化米、土器に付着したモミ圧痕、アワ、オオムギ、アズキ

農具:石包丁、石斧、田下駄

水田遺構:水田跡、用水路、柵(しがらみ)、 水路、堰、取排水口、畦畔

3 山ノ寺遺跡(長崎県) 穀類:イネの圧痕が見られる土器

4 大石遺跡(大分県) 穀類:イネの圧痕が見られる土器

5 登呂遺跡(静岡県) 農具:田下駄、鍬、鋤、農耕具、堅杵

6 垂柳遺跡(青森県) 水田遺構:水田跡

7 四箇東遺跡(福岡県) 穀類:プラントオパール

8 東鍋田遺跡(熊本県) 穀類:プラントオパール

弥生時代の前期中頃には、水田稲作技術が北九州から近畿、東海地方へと広まっていきます(図1-3)。しかも、北九州から東海地方にかけて、同じような土 器文化が見受けられるのです。これは、九州にもたらされた水稲耕作技術が、200~300年の間に急速に普及したことを物語っています。

 さらに時代をくだると、関東地方のみならず6青森県南津軽郡垂柳(たれなやぎ)(中期の中菜)遺跡でも、水田跡が発見されています。弥生時代中期には、北海道をのぞく日本列島のかなりの範囲にわたり水田耕作が行われていたことになります。 

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