高天原は唐王朝?

東に日の立つ島や天高し 高資


https://plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/201211020000/  【日高見国】

日高見という地名は、大和または蝦夷の地を美化して用いられた語で、特に大和から見て東方の辺境の地域のこととされていました。ですからそれは、特定の場所を指すものではなかったそうです。長脛彦(ながすねひこ)が神武天皇に敗れて逃れた地であるとも言われます。

 神話学者の松村武雄氏は、日高見に『日の上』という意味があるということから、日向から見て東にある大和のことを『日の昇る国』と呼んだとしています。

 日高見国という地名の最初は、武内宿禰(たけうちのすくね)が東国視察を終えた際の報告書の中にあり、日本書紀に記載されているそうです。また日本武尊が東国遠征からの帰途、陸奥国から常陸国に入るところで『日高見国から帰りて』という一節があるそうですから、日高見国は茨城県よりも北にあったことになります。養老5(721)年に成立した常陸国風土記の信太(しだ)郡の条に、常陸国は『ひたかみのくにへの道』の意味で、元『日高見国』とあるそうです。

 また日高には『見る』という意味があり日の出(日立・茨城県)の意味も持つので、信太(しだ)については、日の出(鹿島神宮の方向)を見る(拝む)地、ということではないかとも推測されています。いずれにしろ、日高見国は時の王権の支配する地域の東方で、大和国の東進とともに北方に移動していったものと考えられています。なお北上(きたかみ)川という名称は日高見(ひたかみ)に由来するという説があり、平安時代には北上川河口のある石巻市より北を指す言葉になっていました。石巻市の平孝酒造では日高見国にちなみ、『震災復興酒 希望の光 日高見』を販売しています。

 福島県でも棚倉町の八溝山は日高山と呼ばれていたそうです。須賀川市の長沼城跡のある日高見山には日高見稲荷神社が祀られており、日高見山公園があります。また須賀川市今泉には日高見国御影神を祀ったという白方神社もあります。この日高見の『見』には周辺という意味もあるそうです。

 茨城県が元『日高見国』であったということは、それより北にある棚倉町や須賀川市に日高見という名が取り残されていても、不思議ではないのかも知れません。

竜天に登りしあとの岬かな  高資

海坂やニライにつづく青葉潮  高資

青葉潮値嘉の岬に岐かれけり  高資ー 場所: 高浜ビーチ

コメントのやり取り

五島高資 天と海とがダイナミックに交差する聖地のような気がします。空海が入唐帰朝の二回にわたり発着した日本最果ての場所です。

ニライカナイ って沖縄の方言だと思っていました。

五島高資 宮良さん、柳田国男が五島・三井楽(みいらく)の語源がニライカナイに由来すると言っています。対馬暖流という海の高速道路で繋がっていたのかも知れませんね。高浜も三井楽にあります。

五島高資 柳田国男の民俗学的知見を他の学問的傍証で固めていきたいと思っています。たしかに海の中に海流という高速の川があり、古代人はそれを水運にうまく利用していたようです。

五島先生なんと美しい海の色でしょう✨エメラルドグリーン✨きっと渡来人達はこの地に残った人も数多くいたと思います✨どちらを目指して上陸したが気になりますが。。。

五島高資 この地に残った人々がしばらく高天原という司令塔の役割を担ったのだと思います。

五島先生私も高天原は一ヶ所だけでなく何ヶ所かあったと思います✨もちろん五島列島にもあったと思いますし九州、四国にもあったと思います✨筑波山にもあったと思います✨先生が文章にされるのを楽しみに待っております(^o^)/🌸


http://www7.torichu.ne.jp/~landp21/koj-2.html  【2、天照に武則天を描く】 より

李氏唐王朝のこの列島に対する認識は、梁書や北史・南史に描かれていました。それは、唐王朝によって征服され、その後も支配されている今のわが国の歴史認識でもあります。

 その北史・南史は、李延壽によって記されていますが、この列島に関する記述は、北史では隋書を、南史では宋書が使われていました。それも、参考にしているといった程度ではなく、まったくそのままの文章を部分的にパクリのごとく使っています。そして、自らの思惑に沿って、都合よく付け加え、あるいはカットし、さらに書き換えるといった改竄を行っていました。

 この改竄の証拠こそが、わが国の矛盾だらけの『歴史認識』を解明するカギとなりました。

 わが国の成り立ちを記したとされる古事記・日本書紀の原本は今に残されていません。おそらく、当初は、時代背景とその内容から考えますと、663年に出雲王朝が滅ぼされ、その出雲王朝に伝わる歴史がそれらに残されていたのでしょう。それを、唐王朝・藤原氏は、自らの支配に都合よく改竄し、それが今に残されているという経緯が見えてきました。

 日本書紀には、本来、系図もあったようですが、それは写本すら残されていません。

 唐王朝が崩壊し、この列島にその王朝貴族が流れ着いて、改竄の手法を受け継ぐ人たちによって、この列島の歴史も北史・南史のように、彼らにとって都合よく作り変えられたということがうかがえます。

 そこで作り上げられた『新しい歴史』が、『新唐書』に反映しているとみられます。 

 その改竄された『新しい歴史』の中心を為す古事記の中で、最強の神は『天照』です。そして、『天照』の弟は『スサノオ尊』となっています。

 中国の史書『魏書』には、女王『卑彌呼』を共立し、『有男弟佐治國』と、弟が補佐して国を治めているとありました。隋書にも使者の言葉として『天を以って兄と為し、日を以って弟と為す』とありました。それは、どちらも国家的象徴と実質的支配者という関係をそこで述べていました。つまり、肉親的な意味ではなく、国家の統治機構における力関係を意味するものでした。言ってみれば『兄貴分・弟分』といったことでしょうか。

 これらのことは、出雲王朝の成り立ちを伝えるものでした。

 新興勢力の出雲は、この列島の先住民族の象徴である『卑弥呼』を国家的象徴として奉り、征服者であるにもかかわらず、自らをその国家的象徴の下で実質的支配者としてこの列島を統治したということを言い伝えているのでしょう。

 これらのことが、中国の史書や古事記・日本書紀の原本には残されていたと考えられます。万葉集には、『日皇子(ひのみこ)』といった表現が出てきますが、それが史書では、卑下されて『卑弥呼』と記されたとみられます。

 そして、その唐王朝の勢力によって、この列島の成り立ちの歴史も、彼らの思惑に沿って改竄されたのでしょう。

 国家的象徴としての『天』と実質的支配者『日』という関係が、古事記では、『天照』と『スサノオ尊』にあたるのですが、本来最強の神であるはずの『スサノオ尊』は、まるで妖怪のごとく忌まわしい姿に描かれていて、その上『高天原』で大暴れします。

 つまり、征服された民族の象徴は、征服した民族によって貶められるということです。

 こうして、出雲王朝の最強の神は、唐王朝・藤原氏の神を意味する『天照』の下に置かれてしまいました。

 その『天照』は、古事記の中では、勇猛な姿に描かれています。スサノオ尊が天照のいる高天原へ近づくと、天照はスサノオ尊が国を奪いに来たと思い、武装して『何ゆえに来たる』と言ってスサノオ尊を迎え撃とうとします。ここでは、出雲の勢力には決して油断することなく万全の構えをせよということが述べられているとも言えます。

 そして、その天照は、自分の子どもにスサノオ尊の世界を支配させたいという意思を表明します。その時期は、スサノオ尊からすでに大国主命に国の統治が移っていました。これは、まさしく663年、武則天の命により、この列島の出雲王朝『大国』が征服されたことを伝えているようです。

 天照は、まず一人二人と出雲の平定に向かわせるのですが、大国主命に取り込まれてうまくいきません。そこで、武甕槌神(たけみかづちのかみ)にお供を付けて中つ国、出雲国の平定に向かわせます。その武甕槌神が降ったのが出雲国伊耶佐の小浜、今で言う稲佐の浜です。武甕槌神は、浜に剣を突き立て、『天照大神は、自分の子どもにこの国を治めさせようと言われているがお前の気持ちはどうだ』と大国主命に迫ります。大国主命は、二人の子どもの神に相談するのですが、つまり家臣でしょうか、その二人とも武甕槌神に太刀打ちできず、結局、大国主命は国を『献上』すると言ったとされています。

 まずは、交渉をするのですが、所詮は侵略行為ですから『平和的』にそんなことができるはずもありません。結局、武甕槌神による実力行使で出雲が平定されたと描かれています。

 ここでは、李淵によって唐が建国された時と同様の手法で、この列島が征服されたことを描いています。まずは、武力で以って制圧し、その後に『禅譲』という形式でその侵略行為を正当化するというものです。ここでは、さらに『献上』されたとまで美化しています。

 『唐王朝による列島征服の軌跡』でも検証しましたが、武則天の忠実な家臣であった劉仁軌によってこの列島が征服されていたことが、古事記では『天照大神』の指示で武甕槌神により出雲が征服されたとあり、まさにその史実に相当しています。

 また、同時に、武甕槌神の働きがなければ、その後に続く神武天皇以下の天皇も成り立たないということにもなります。その武甕槌神を、藤原氏は、奈良春日大社の第一殿で奉っています。

 これらのことからも、『天照』は、武照、つまり武則天を意味し、その武則天の命によりこの列島が征服され、今にも続く天皇のルーツは武則天にあるということをも意味しているようです。

http://www7.torichu.ne.jp/~landp21/kj-4.html  【唐王朝による列島征服】

西暦190年頃、スサノオ尊と卑弥呼によって確立された統一国家は、この列島において営々と繁栄を築いていくのですが、7世紀半ばになると大きな転機を迎えます。

 朝鮮半島は激しい戦乱状態に陥り、この列島もその戦火に巻き込まれていきました。

 その当時、唐王朝第3代皇帝李治は病弱で、その皇后「武則天」が実質的支配者として君臨していました。西暦660年、新羅の支援要請を受けて、武則天は、東アジア制圧の詔を発します。そして、663年百済が征服され、先にも述べたように、白村江の戦いの直後、わが国も唐に占領・征服されます。

 唐は、676年、朝鮮半島から軍を引きますが、わが国を、その後も支配し続けます。

 当時、仏像などに施す塗金では、金を水銀に溶かして塗り、その後水銀を蒸発させるという手法でした。また朱の原料など、水銀は今の石油にも相当するほどの重要な鉱産物でした。その水銀が、丹波や伊勢などから豊富に産出されており、その支配が列島征服の大きな動機でもありました。

 彼らは、唐(藤)を源(原)とするという意味で藤原氏を構成し、後々に至るまでわが国を支配下に置きます。

 さらに、彼らは、唐王朝が占領征服したことも、その後も支配し続けていることも歴史から消し去り、自らに都合の良い歴史を創作しました。そして、わが国の庶民は、1300年にわたって、彼らの創作した歴史がこの列島の歴史だと思わされてきています。

 しかし、よくよく見れば、そういった占領・征服の痕跡は数多く残されています。

 武則天は、660年、皇帝を天皇に皇后を天后に改称します。しかし、武則天の失脚後は、元に戻されています。ですから、中国皇帝制度にあって天皇を名乗ったのは、李治ただ一人です。その武則天の時代にわが国が制圧されたので、今にまで天皇がわが国に残されています。

 その武則天の指令により、わが国が制圧されたことも古事記に残されました。つまり、古事記において出雲の征服を指令している「天照」とは、武則天を意味しています。武則「天」の幼名・本名は、武「照」で、まさしく「天照」です。その天照は、わが国における最強の神として伊勢神宮に奉られています。それを象徴するかのように、その神紋は花菱で、別名「唐花」とも呼ばれています。

 武則天は、自ら即位し「聖神皇帝」を名乗ります。聖なる「神」であるところの「武」則天で、「神武」です。つまり、天皇の祖先が天照であり神武天皇だとされているのは、天皇のルーツが武則天にあることを伝え残していました。

 さらに、出雲は唐により武力制圧されているので、出雲国造家の神紋は、唐花である花菱に剣が組み込まれた「剣花菱」です。

 唐王朝を築いた李淵は、隋王朝を滅ぼした時に禅譲という手法を用いています。つまり、征服・簒奪したとしても、譲られたとする支配者としての都合の良い形式です。

 古事記にある『国譲り』とは、まさしくその禅譲という手法であり、実態は、唐王朝による出雲王朝の占領・征服です。 



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