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『酒止めようかどの本能で遊ぼうか』 より
第1章 戦争体験・私の戦争体験と俳句 ほか
第2章 私を育てた郷土・肉親・母体/秩父の男気/金子伊昔紅のこと/医者っぽ 俳句を楽しむ父/雁坂越え/春雷ほか
第3章 自画像・蛙と柿と雪/荒凡夫/五七調定型ひとすじ/俳句と人生/
第4章 師・先輩・友人たち・師・加藤楸邨を語る/白虹と連作と 横山白虹のこと/石田波郷その系譜 ほか
「荒凡夫」とは、江戸期も終りごろの文化文政の時期に活躍した俳諧師小林一茶が、六十歳の正月、句文集に書きつけたことばだが、私はこれを多としている。
一茶は、これからは荒凡夫として生きたい、と書いているが、胸の中では、阿弥陀如来様、荒凡夫として生かさせて下さい、という気持だったとおもう。
一茶は浄土真宗の門徒で晩年とともに如来信仰を深めていた。 理由についても書いていた。自分は煩悩具足・五欲兼備の「愚」のかたまりで、どうにもならない。
それに歳も歳だし、中風(広辞苑から抄記すれば、半身不随などの病気で、一般には脳出血後に残る麻痺状態)も直ったばかり、これからは「ことしから丸儲ぞよ娑婆遊び」で過ごしたいのです。愚の上に愚を積み重ねることになりますがお許しください。
したがって、「荒凡夫」の「凡夫」は普通の人間。
「荒」は、〈荒っぽい〉〈粗野粗雑〉くらいのことだったのだとおもう。しかし私は「荒」を〈自由な〉と受取る。
粗野の 気持ちもあってよいが、もっとさっぱりと自由と受取り、〈自由で平凡な人間〉としたい。
「愚」のままに自由に生きる、と言うことになるが、「愚」すなわち本能のままに、と言いかえておきたい。
それでよいのか、と私はもっともらしく自問して、それは自他に害をおよぼさない本能の自由でありたい、そのための自ずからなる自己抑制あってこそ、とおもい定めるに到っている。
そして、一茶の句文から、アニミズムと言える心性を承知して、自己納得している。 ところで、「荒凡夫」の語に出会ったのは一茶に関心をふかめるようになった四十歳代だったが、そのときは立ち止まらなかった。
立ち止まり、これはと頷いたのは六十代のはじめで、痛風、腰痛、歯槽膿漏などなどと、連続パンチをくらって、それ までの自分の躯への自信がかなりにぐらついたときだった。
しかし殊勝にも、痛風を根絶し体調を復元させるために、日常の食餌療法を。とそこで思い立った。
お医者には頼るまい。
そして、まず禁酒、肉食中止を、と考えたのだ、どうも自信が持てなかったのである。
戒律を自分に科するやり方は成功しないのではないか、とおもったとき、四十九歳でタバコを止めたことをおもい出していた。
あのとき意外と言えるほどに順調にいったのは、禁煙を戒律として身に科さなかったからだ。
いつでも喫えると気軽に構えて、その代り、タバコは買わない、持たない と決めた。
喫いたくなったら世界最高級のものを買う。
それ以外は人から貰う。
じっさいにも人からは随分貰ったが、われながら浅ましくなって、次第にタバコから遠退いてしまった。
緩褌(ゆるほん)方式がよい。
「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」とつくる。時間はかかったが、 禁酒禁肉を戒律化しないことで成功したのである。
いまでは夕食時、グラス半分くらいの赤ワインを栄養剤として楽しみ、外に出てのパーティーでは、コップ一杯の焼酎湯割り梅千一個入りで満足している。
止めることによる味気なさがまったくないから、このやり方の永続性が保障されているのである。
その体験以来、「荒凡夫」こそいまの自分にとって望ましい生の有りようとおもい定めてしまって、現在に到っている次第。
生きること。
つまり生(いのち)にとって 本能は不離。
これあることによって生(いのち)は生き生きしている、とおもうこと頻りなのである。
それまでもそうだったが、いまではますます、万事に生(なま)な有りようを大事にしている。
私の惹かれるものは、肉体、生理、野生、土、土俗、そして産土等等。
言語学者が言っていた「ことば」があって「もの」が実在している、というふうな考え方に肯きながらも、しかし結局は「もの」が基本で、「もの」できっちりと支えられていない「ことば」は衰弱してしまうと自分勝手に確信して止まないのは、そのためだとおもう。
「ことば」を支える「もの」の充足した具体感、その生生しさをおもう。
そして生きものどうしの生きた付合い、ということに惹かれる。
本能のままに生きるものどうしの〈和した付合い〉ということ。
一茶の句文を読んでいると、得も言えぬ〈生きもの感覚〉を感じ、嫌なものは嫌とし、好きなものは好きとする、生き生きとした〈和した付合い〉に惹かれる。
〈生きもの感覚〉を生(いのち)の触れ合う感性の韻きと言いかえてもよい。
ここにアニミズムということを感じると言ってよい。
〈生きもの感覚〉の豊かさがあって、「愚の上に愚を重ねる」自由な生きざまが佳しこんな「荒凡夫」への願望にとって、「自画像」などと言うものは野暮におもえる。どうでもいいことなのだが、熱心に私の講演記録や雑文を組立ててくれた中経出版・吉田幸生氏の御気持に和することが大事、とおもい定めている次第。 平成十九年八月 金子兜太
金子氏は禁酒を「緩褌(ゆるほん)方式がよい。
「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」とつくる。時間はかかったが、 禁酒禁肉を戒律化しないことで成功した」 と紹介していますが コズミックヒーリング企画では 先ず下記プログラムが役に立つと考えます。
http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm//e-teruhi-rinngu.html
1・入浴ヒーリングプログラム
金子氏の句「酒止めようか どの本能と遊ぼうか」はソリューションフォーカストアプローチの考えに即応しています。
脳は下図のような性質を持っています。
仮に「ミニーマウスのことを考えないでください」と言われたとします。
考えては駄目と思えばミニーマウスが頭に浮かんできますね。
ミニーマウスを忘れなければと思えばミニーマウスをイメージするのでいつまでたっても忘れられません。
正面切って戦うと負けてしまいます。
ではどうすれば???
金子氏は「酒止めようか」 をいなして「どの本能と遊ぼうか」と結んでいます。
ミニーマウスではなく もっと大事な事、切実な事、好きな事を考えればよいということです。
一つの習慣をやめたければ別の新しい習慣を身に着けるとよいとも言えます。
潜在意識を塗り替えるためのアファメーションも役に立ちます。
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/3761821?categoryIds=1007426
【自分自身を愛すること by ルイーズ・ヘイ】
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/2410447?categoryIds=1007426
【マインドリセット】
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/3516634?categoryIds=1007426
【アファメーション】
をご参照ください。
アファメーションの言葉は自分で考えるのが良いですが
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/3516605?categoryIds=1007426
【原瞑想アカデミー・アファメーションの言葉】 等から必要なものを筋肉反射テストを使って選ぶ方法もあります。
またルイーズ・ヘイのアファメーションカードの活用もできます。(下図はカードの一部です)
金子氏は本能鵜のままを良しとしましたが 本能より本心が大事かも?? 霊性は「ひ」の性質でもありますよね
西尾仁さんの投稿記事です
【人間は万物の霊長ではあっても、万物のならず者になってはいけない。】
人間を他の動物と区分しているものこそ、本心・良心というものである。
人間は、本心・良心によって、自分自身に対する人間としての存続の義務を問う生き物なのである。自分とは何か、人間とは何か、心とは何か、宇宙とは何か、神とは何か、如何にい来るべきか・・・・・
魂は肉体の主人であり、心と肉体は生命(魂)の道具である。
一人ひとりの人間として、生命を通して人間として生かしめている幽玄霊妙な中枢の主体を、中村天風は『霊性心』と呼んでいる。
その『霊性心』の発露が本心・良心の働きである。
心なら犬や猫にもある。前頭葉を持つ四ツ足の動物はみんな心を持っているかも知れない。
しかし同じ自然物であっても人間は『霊性心』が備わっている。
そこに人間の人間としての尊厳がある。
生命が愛と光とエネルギーによって守られ育てられて来た様に、人間は『霊性心』を発露することにより、『人の喜びを我が喜びとする』愛があり、光がみのり、力となることができる。
人間は万物の霊長ではあっても、万物のならず者になってはいけない。
清水榮一 著「中村天風に学ぶ絶対積極の言葉」より
ttps://what.yoga.jp/?p=127 【酒と瞑想】 より
酒と瞑想、、、
酒と迷走ならまだしも、酒と「瞑想」? と目を丸くされた方もいらっしゃると思います。
酒は集中力を散漫にしてしまう作用があるため、瞑想には有害なのではと思われる方も多いと思います。結論から言いますと「その通り」です。
瞑想前の飲酒は控え目に、もとい極めてお勧めしないのですが、ただ、実はヨーガのルーツ、瞑想のルーツを紐解いていきますと、実に酒臭いお話しに突き当たることになりますので、そのあたりからお話ししたいと思います。
今から時をさかのぼること3500年。
ヨーガスートラが編纂される1000年以上も前、ヨーガ哲学の基礎を育んだアーリア人という、色白で鼻の高い人たちが、現インドからパキスタンにかけて、広範囲に渡りその一帯を支配していました。
このアーリア人。武力もさることながら宗教的にも非常に発達した民族だったのですが、その彼らの宗教が、ヨーガの育ての親と私が勝手に呼んでいるバラモン教なのです。
このバラモン教、自然崇拝の多神教なのですが、粗く言ってしまうと、お祭りの儀式を通して太陽の神様や大地の神様など、様々な神様にお祈りし、その祈りを通して様々な恩恵を授かろうという色彩の強いものでした。
そのお祭りの儀式=祭祀の際に登場するのが、ソーマ酒と呼ばれるとっても強い酒。
この酒、ソーマ草と呼ばれるつる草の茎を圧搾して得られた汁に、水などを加えて発酵させて作る、幻覚作用を持つと言われる伝説の酒なのです。
そのソーマ酒を、祭官たちがゴクリと飲み干したり、ボッと火に捧げたりしつつ、神々と合一する神秘的な感覚を通して祈りを捧げたといわれています。
そのお祈りの言葉のことを、当時は「ブラフマン」と呼んでいたのですが、そのブラフマンは、神の使いである馬に乗って神の元へ届けられると喩えられていました。
そして、そのブラフマンを載せた荷台と馬を結びつけるという意味で「ヨーガ」という言葉が使われていたのです。
まだ「ヨーガ」という言葉が修行法としての意味を持つ以前のお話しですが、この時代に、特別なものを「ツナグ」という意味合いを持っていたために、後に瞑想を深める行法を差す言葉として使われるようになったことは、確証こそないものの想像に易いことではあります。
いずれにしてもこの儀式、現代風に言えば、酒(というよりはドラッグですよね)によるトランス状態を経て、神々と合一の感覚を得ようとする取り組み。この宗教儀式が、酒と瞑想の最初の出会いだと考えられています。
この構図は時を経て1960年代、かのヒッピームーブメントの中で、インスタント禅という名の下でドラッグが乱用されていた構図に見てとることができるのですが、ドラッグ全般の話になると話が複雑になってしまうので、お酒(という名の薬物)に限定して話を進めましょう。
酒(という名の薬物、、ってくどいですね)の成分であるアルコールには麻酔作用があり、これを飲むことで、まず理性の悩と呼ばれる大脳新皮質の細胞が麻痺していきます。
私たちは普段、この新皮質の働きによって理性を保ち、よからぬ欲望を抑えつけて生きています。ですから、飲酒によって欲望のストッパーといえる抑制機能が麻痺すると、当然心が本来の流れを取り戻し、陽気になったり、大胆になったり、はたまた近くにいる人に対して説教を始めたりなど、本音で動き始めてしまうのです。
ところが、さらに酒が進みますと、理性の悩より内側にある旧皮質や運動神経まで麻痺してしまい、ろれつが回らなくなったり、動けなくなったり、最悪は生命の危機的状態に陥ってしまうのです。
ここで注目したいのは、その旧皮質がやられる直前の状態。つまりすっかりと理性を失って心が底の方から解放された状態が、まさに瞑想が目指す状態であるということなのです。
私たちは普段、誰かと関わって生きている以上、少なからずともストレスを溜め込んで生きています。理性の悩が本音の悩を抑圧し、自然な心の流れ、感情の流れ、気の流れが滞ってしまう宿命の中で日々を過ごしています。これがひどくなると、イライラしやすくなったり、ウツっぽくなったり、やがて様々な心の不調、疾病に発展します。
だから、心が本来の正常な流れを取り戻すため、私たちはそのストッパーを排除する必要に迫られるわけですが、ところが、酒やドラッグに頼ってこれをやってしまうと、後で取り返しのつかないことに発展してしまう場合があるわけで、はたまた酒に依存してしまうと身体にとっても悪い影響が残ることになり、付き合い方次第で自分を滅ぼすことになります。
要するに、内面的な調整が行われていないままに鎖を解き放ってしまうと、後々にもっと自分を抑圧しなければならない結果を招く恐れがあるということです。
だからヨーガでは、内面的な成長を促すのです。
自分のことだけでなく、周囲の人のことをも我が事のごとく親身に気遣えるよう、性根から改革していこうとするのです。
そういうことを経て、その上でストッパーを取り除くことができれば、自然体でいい奴になっているわけで、どんどん自分を解放してさらけ出し、欲望の赴くままに生きれば生きるほどに、それが結果として周囲のためにもなるという構造が出来上がるわけです。
十牛図で言うところの第十の図、マズローの欲求五段階説で言えば自己実現の欲求の赴くままに生きるということになるのです。
といっても、ここまで極端な話しは理想論で雲の上の話。だからこそ、一時的にでもいいので私たちは瞑想の中で聞く耳を持ち、思いやりの心を持ち、その上でストッパーを取りはずし、一時的に自己を解放してハッピーになっていくというわけなのです。
そしてこれを繰り返すことで、少しずつ本当にそこへ近づいていける。 といいなあ。。。
と、ここまで書いておいて何ですが、実はドラッグやお酒などを利用する瞑想もあります。お酒なんかを使い、インスタントな方法で自己を解放する感覚をつかんでおきつつ、内面的な方向付けを導師(グル)と呼ばれる人が担う方法です。
このやり方は、密教(タントラ)と呼ばれ、師弟の強烈な信頼関係があってのみ成り立つもので、また必ずしも酒を使うなんて誤解もされませんように。そういった枠組みの中では、酒などが有効な手段にもなりうるという意味でご紹介しただけですので。
いずれにしても、酒が持つ効果や瞑想が目指す境地などを、一つひとつかいつまんで見てきますと、うまく付き合えばお酒もいいのかなという感じがしますね。
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