隠れキリシタン

手を合はせ蹲ふ浜や風光る  高資


http://blog.tsurumi-u.ac.jp/shogai/2010/11/1029-808a.html

【文化財スタディ・ツアー(10) 倭寇と隠れキリシタンの島々~長崎・五島列島~】

http://www.iokikai.or.jp/siomatinominato.hukue.html

【潮待ちの港、五島列島】

大瀬崎灯台:明治12年に作られた。200万カンデラという日本一の明るさで海を照らしている。遣唐使船はこの崎を廻って帰国した(本文より)

城門の開かれて夏木立かな  五島高資

城門を抜けたる風や蟬時雨


異国船に対する防衛のために、日本で最も新しく築城された海城だからだと思われます。外洋に面した石垣には反りが多少見受けられます。松前城築城と同時期です。

幕末に完成し、明治維新によって廃城となるなど時代の荒波に翻弄されました。高祖父は馬に乗ったまま写真の蹴出門を通って登城したと聞いています。まさに兵どもが夢のあとですね。


コメントのやり取り

梅の間の云われは何でしょう?床柱は何でしょう?

五島高資 ねぢ梅の紋があしらわれていますね。柱はたしか欅かと。宇都宮藩主だった奥平昌章が五島盛勝の次男だったことなど色々と話が弾みました。

 五島さんの様に、かっての藩主の末裔がいらっしゃる事は夢の様な事です。そのお城さすが五島のお城、造りが繊細です。

五島高資 亀の間の雪華紋も斬新でした。これは古河藩主・土井利位が雪を研究して広まった当時の流行ですね。奥平公も以前、古河藩主でした。私も古河日赤病院に勤めていたこともありご縁を思いました。五島藩は将軍家との関係が深く十万石の格式で城も造られました。

浅はかな私は、蜘蛛の巣絵かと思いました。土蜘蛛(海賊)からの連想です。(笑)雪の結晶図ですか。凄いですね。五島の海には(南側)大きな海亀も出没してた見たいですね。床柱は欅とか。細いので欅とは思い付かなかったです。因みに京の二条城の床柱は南天です。

なるほど、だから古河日赤病院の広報誌が『雪華』なんですね!

 五島列島は松浦藩と五島藩で統治されてました。五島氏と松浦氏です。平家がどうのと言うなら、松浦藩では無いですか?松浦藩は五島北部と長崎です。

五島高資 縁戚ではありますが、本家ではありません。五島藩は平家盛を祖とする説がありますが、源姓の武田家や松浦家の血筋も入っています。

五島家は、華族、公家になるんですか?凄いね❗️

五島高資 本家は子爵でした。

ご本家は観光協会を立ち上げて、五島全体の活性化に尽力されて居ると思います。東京でお会いしたとき(旅行社に勤務中)夢を語ってました。立派な方です。やはりオーラを感じました


五島藩は隠れキリシタンであり多くが五島藩と大村藩の政治的駆け引きのなかで行われた「公式移住」者??? のようです。下サイトをご参照ください。

http://www.asahi.com/travel/hikyou/TKY201102240373.html  

【隠れキリシタン紀行:最後の晩餐は質問攻め】

https://rekijin.com/?p=15714

【【意外に多い?】官兵衛、大友宗麟…戦国時代の有名なキリシタン 大名たち】

黒田官兵衛は麻生家と縁が深いですね。

長崎市片淵町は旧大村藩では?

http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukuokahatu/minjindou.html 【明人堂(みんじんどう)】

明人堂(みんじんどう)は、長崎県の五島列島南西端に位置する福江島に建てられた廟堂です。

天文9年(1540)、当時東シナ海を舞台に貿易商として活躍していた明国の王直は通商を求めて 福江(当時は深江)に来航した。 財政に苦しんでいた領主である宇久盛定は喜んで通商を許し、江川城下の川向うの高台の地に居住地を与えた。 これが現在の唐人町である。

その一角に王直ら中国人が、航海の安全を祈るために廟堂を建立し、その跡が現在の明人堂であるといわれている。

王直はその後、平戸に居を構え、倭寇の大頭目に転じていくことになる。

以前は明人堂のそばに、交易の時に使用していたと思われる荷揚場が残されており、 付近一帯が交易の場として栄えていたと思われる。

現在の新しい明人堂は、官民一体となった建設資金の募金活動により、 島内外の浄財を集め建設されたものであり、建設にあたっては石材等は中国から取り寄せ、 中国風の瓦葺きや壁画は中国の工人の手によるものである。

[現地案内より転記]

種子島に鉄砲を伝来したポルトガル人を案内した王直(五峯王)の居館があったところです。五峯とは五島のことです。

直木賞作家・安部龍太郎の『五峰の鷹』は、戦国時代に五島列島を中心に東シナ海で活躍した徽王(和寇の頭目)・王直を主人公にした時代小説です。その王直が祀られています。

今でも時化のときなど中国の避難船が入港します。一衣帯水だなと思います。

この明人堂は五島市唐人町にあります。


https://news.goo.ne.jp/article/postseven/trend/postseven-713470.html

【「種子島に鉄砲伝来」はポルトガル船ではなく中国船だった】  より

長崎・熊本両県にまたがる「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録された。日本でのキリスト教布教は、1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸に始まるとされる。その数年前には、種子島に漂着した南蛮船により「鉄砲」が伝来した。歴史作家で『ざんねんな日本史』著者の島崎晋氏が、キリスト教伝来と並ぶ日本史上の大事件「鉄砲伝来」にまつわる“よくある誤解”について解説する。

 * * *

 いつ果てるとも知らなかった戦国時代を終焉へと向かわせるきっかけとなった出来事は天文一二年(一五四三)、九州の種子島で起きた。鉄砲の伝来がそれである。

 この一件を「ポルトガル船の種子島漂着」と記憶している人が多いのではないか。しかし、それは間違いである。漂着したのは中国・明の船で、船長は島民と砂上で筆談を交わし、自分は「大明儒生五峯」という者で、同乗の客人の中に「西南蛮種の賈胡(かこ)」がいるとも明らかにしていた。

 ここにある「西南蛮種」とは種子島の西南方向から来た異人種といった意味で、「賈胡」とは西方の商人、その正体はポルトガル出身の船乗り三人だった。

 彼らは何らかの理由からシャム王国のドドラ(現在のタイのアユタヤ)でポルトガル船からの脱走を図り、中国・明の商船に同乗させてもらった。

 明の商船といっても、その船は合法的なものではなく、倭寇の船だった。倭寇とは元来、日本人の海賊をさす言葉であったが、この時期の、いわゆる後期倭寇の主体は中国沿海部の密貿易商人からなっていた。密貿易を本業としながら、時と場合に応じて海賊に転じる。それが後期倭寇の実態だった。

 一行が目指したのは最大の根拠地、現在の浙江省沖にある舟山群島だったが、強い嵐に遭遇して流され、種子島に漂着。それが日本への初めての鉄砲伝来という大事件につながるのだった。

 ところで、漂着した船の船主は「大明儒生五峯」と名乗っていたが、実はこの人物、「五峯船主」「五峯先生」などとも称され、本名を王直(おうちょく)という歴史上名高い倭寇の大頭目だった。

 王直はやがて東シナ海と南シナ海を股にかけて活躍する倭寇一の大頭目と化し、明の当局から最大のお尋ね者とされてからは、現在の長崎県五島と平戸にそれぞれ一大拠点を構え、九州の諸大名から上客として扱われるなど、「海の王者」として一世を風靡した。

 仮に王直の船の漂着がなくとも、日本にも早晩、鉄砲が伝来していたことは間違いない。その場合、鉄砲伝来の地は九州本土のどこかになっていただろう。

※島崎晋・著『ざんねんな日本史』(小学館新書)より一部抜粋

http://fukuoka-enplan.com/blog/2016/08/05/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F%EF%BC%88%E5%BB%83%E8%97%A9%E7%BD%AE%E7%9C%8C%EF%BC%89-%E3%80%80%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C%E7%B7%A8/

【歴史を紐解く(廃藩置県)- 長崎県編】

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