目に見えぬ敵と対ふにまづ涙こらへて我に克つべかりけり 高資
橘城・圓名山寶珠院
心字が池ー 場所: 石田城跡
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E6%B1%9F%E8%97%A9-123908 より
肥前(ひぜん)国福江島(長崎県五島(ごとう)市)に居城を置き、五島列島の大半を領有した外様(とざま)藩。五島藩ともいう。五島列島を支配していた宇久純玄(うくすみはる)は、1587年(天正15)に豊臣(とよとみ)秀吉から所領を安堵(あんど)された(表高1万5530石余)。92年(文禄1)に純玄は姓を五島に改めた。1619年(元和5)に継嗣(けいし)をめぐって争いが起こり、幕府の裁断で盛利(もりとし)の藩主権が確定した。以後、盛利は家臣の城下集住を断行し、35年(寛永12)に領内検地を行った。捕鯨業盛時のおりは、その運上銀が貴重な藩財政収入となった。61年(寛文1)に福江島南端の富江(とみえ)ほか7か村3000余石が、4代藩主盛勝(もりかつ)の叔父で後見役であった盛清(もりきよ)に分知され富江領が成立した。この分知後、漁業権をめぐって福江藩と富江領間で争いが起こり、幕府の裁断で決着した。低生産力地帯であったために徹底した人改(ひとあらため)が行われた。
1834年(天保5)には産物会所が設けられ財政収入の増加が図られた。1867年(慶応3)異国船警備、薪水(しんすい)供与費用捻出(ねんしゅつ)のため富江領を併合する動きが出たために富江領民が一揆(いっき)を起こしたが、幕府は富江領主に北海道後志(しりべし)国に領地1000石を与え富江領を福江藩に合併させた。明治に至り、福江県を経て長崎県に編入。[長野 暹]
富江藩は 福江藩とも漁業権をめぐって対立。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/church/7/index.html
【●外海から五島へ【潜伏、移住による伝播】】 より
島原の乱以後は、踏み絵をはじめ、五人組制度や寺請(じせい)制度、類族改(るいぞくあらため)制度、キリシタン訴人(そにん)に対する懸賞制度など、キリシタンの取り締まりは一層厳しくなりました。そんななか、浦上や外海地方などでは、神父不在の中で潜伏して組織を作り、信仰を継続していった人々がいました。
大村城下から遠く離れ、なかなか目が行き届かない外海地方は、大村藩領と佐賀藩領の飛地が混在していて領境も複雑であり、秘かに信仰を貫くのに都合のいい土地でしたが、平地が少なく土地はやせ、暮らしていくには困難な場所でした。その上、財政的に厳しかった大村藩は、経済の安定を計るために、人口増加を抑制する長男以外の子どもの間引き政策を実施。間引きはキリシタンの教えに背く大罪であり、人々は子どもを自由に生み育てられない環境に苦しんでいましたvol.6外海地方の潜伏キリシタン【潜伏】。
寛政9年(1797)、五島藩主五島盛運(もりゆき)は大村領の領民を土地開拓者として移住させるように要請。大村藩主大村純鎮(すみやす)はそれを快諾、外海地方から108人が五島へ移住しました。そして、そのほとんどは潜伏キリシタンであったといわれています。移住した人達に開拓地が与えられたことを知ると、外海地方から五島への移住者は続々と増え、その数は3000人以上に達したとされます。また、その後、五島だけでなく、九十九島の1つの黒島や、比較的禁教の取り締まりが緩やかだった佐賀藩領の伊王島や神の島などにも潜伏キリシタンの移住がありました。
五島の地には、今も、外海の人々が移住した確かな証が残されています。西彼杵半島で産出され、かまどや家の周囲を囲む石垣などに使用されてきた結晶片岩(けっしょうへんがん)の存在です。五島列島では産出されないこの石は、西彼杵半島の主な地盤で温石(おんじゃく)とも呼ばれます。比較的柔らかく手軽に加工できるとあり、外海の人々の間では古くから生活道具の材料として親しまれてきました。外海の人々が五島へと移住する際船底の重石、錨(いかり)などとして持ち込んだものと思われます。この温石は五島の人々から、今も“外海から運ばれた石”と語り継がれているそうです。外海から五島列島の島々へ――移住した人々により故郷の文化や道具も運ばれていったのですね。
★その頃の長崎★
その頃の長崎での大きな出来事といえば、出島の大半を焼失してしまった寛政の大火です。当時の商館長はドゥーフで、彼の住居であるカピタン部屋も焼失しましたが、なかなか再建されず、完成まで10年の月日を要しました。現在、復元されている出島オランダ商館跡の建物の中でも特徴的なカピタン部屋。完成当時、そのカピタン部屋の扉には「1808」という完成の年号が書かれたといいます。文化5年(1808)まで日本側と商館長の意見が合わず、再建までに経過した10年という歳月……「1808」の文字は、きっと完成を祝う記念の印。長きに渡る悲願の実現、その時の喜びが伝わってくるようなエピソードです。ちなみに寛政の大火後は、奉行の指示で出島中央の道幅は約2mも広がったそうです。
★キリスト教人物伝★ ドミンゴ森松次郎(1835-1902)
五島のキリシタン信仰を支えた指導者
天保6年(1835)、外海の黒崎村で生まれた森松次郎は、幕末から明治にかけて五島において活躍したキリシタン。彼もまた、一家で外海から上五島・鯛ノ浦へと渡った移住者でした。独学に勤(いそ)しみ、絵や和歌を嗜(たしな)む才人だったといいます。元治2年(1865)、大浦天主堂で信徒発見の奇跡が起こると、松次郎は大浦天主堂へと出向き、プチジャン神父から直接カトリックの教えを受けます。そして、鯛ノ浦へ戻り、五島でキリシタン達の指導者となりました。五島列島・中通島の北東部に位置する周囲わずか4kmの島・頭ヶ島(かしらがしま)。幕末まではほとんど無人島だったこの島の北側の入江の最も奥まった場所には、頭ヶ島天主堂(国指定重要文化財)が建っています。松次郎は、神父をかくまうために慶応3年(1867)この地へ移り住みましたが、明治元年(1868)この島にもキリシタン迫害がおよび、厳しい弾圧が行われました。そのとき、松次郎は追っ手を逃れ、浦上を経て、香港、マニラまで逃れました。弾圧を受けた島の人々も脱走し禁教令が解けると再び舞い戻ってきたといいます。現存する天主堂は、明治43年(1910)から10年ともいわれる歳月を要して完成しました。島の信者による資金集めや労働奉仕など献身的な努力があったと伝えられています。西日本で唯一の石造りの教会で、島内で切り出した石が使用されました。天主堂の裏には、ドミンゴ森松次郎の記念碑が建てられています。
参考文献
『「株式会社」長崎出島』赤瀬浩(講談社)、『文化百選 五島編』長崎県企画、長崎新聞社製作、『日本初のキリシタン大名 大村純忠の夢~いま、450年の時を超えて~』(活き活きおおむら推進会議)
【五人組】 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E4%BA%BA%E7%B5%84-65696
江戸時代の村や町における最末端の行政組織。村では本百姓(ほんびゃくしょう)、町では家持(いえもち)(地主)、家主(いえぬし)をそれぞれ近隣の5戸ずつを原則として組み合わせて構成した。五人組の機能は、年貢納入、治安維持につき組の構成員が連帯責任を負うところにあり、組内に年貢不納の者や欠落(かけおち)をする者が出ると、組として弁済の責任を負わされ、また五人組内に犯罪者がいるときは、密告を強制され、知りながらそれを怠ると処罰された。また日常生活で相互に監視しあうことを強いられ、質地などの土地移動でも連帯責任を負わされた。その反面、五人組の百姓は、仲間として日常生活での相互援助も行ったが、どちらかといえば農民の支配や監視のための組織という性格が強かった。
五人組はもとは戦国時代の農民の自衛組織として成立したが、豊臣(とよとみ)秀吉がこれを全国に行政組織とし、1597年(慶長2)に掟(おきて)を定め、侍には五人組、百姓・町人は十人組をつくらせ、制裁規定も定めた。江戸幕府はこの制度を踏襲し、17世紀中ごろまでに多くの法令を出し、制度として整備した。五人組の組織を明示した五人組帳が全国に整備されるのは、1655年(明暦1)のことであった。江戸時代の農民の統制の制度としては、キリスト教禁止を理由とする宗門人別改(しゅうもんにんべつあらため)制度(寺請(てらうけ)制度)があるが、この五人組の制度は、それと並んで、農民生活をその内部から監視する制度として、それ以上に有効な制度であった。
太平洋戦争直前に設置された隣組(町内会などの下級団体)の制度も、この五人組、十人組を原型とするものであった。[上杉允彦]
富江の人々が生き残るためには閉鎖性は必要不可欠!
要約剣を手放し虹と出会う時が訪れたのかもしれません。
涙と共に「もや」は 流しましょう。
自分を守ってきた(満たしてきた)「落ち葉=(過去世も含めた)学習・信念体系・言葉」に感謝をし、お別れしましょう。
懸命に生きた自分を慈しみ ねぎらいの拍手を贈りましょう。
虹の贈り物を受け取りましょう。
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