目に見えぬ敵と対ふにまづ涙こらへて我に克つべかりけり 高資
橘城・圓名山寶珠院ー 場所: 岩手県 一関市
最強の敵は自分であるとよく言われます。その敵である自分に勝つことを克己と呼ぶのでしょうか?
例えば人に愛されたい、承認されたいという欲求を持つとします。
誰もが持つ基本的な欲求です。
そんな欲求、願いを剋するとは 自分の本心を抑圧することにほかなりません。
抑圧は本心を切り捨てることになります。
もう少しわかりやすい例は怒りです。
怒りは できれば感じない方がよいのかもしれません。
しかし怒りは自然な感情です。
自分を守る力にもなるし行動を起こす力にもなります。
ただコントロールが困難な激しい感情になることがあるため(極度の怒りは茫然自失、記憶喪失、発狂につながることさえあります)怒りとの付き合い方を学ぶことは大切です。
怒りは我慢すると、身体にたまって、潜在的に有害な影響を及ぼします。
また怒りを適切に表現するのでなく、ぶつけると暴力そのものになります。
怒リを忍耐力で抑圧するのでなく大事なサインとして受け取り適切に対応するためには 怒りに 即・反応しないでまず鎮めることが大切です。
そうすれば「二次感情といわれる怒り」のきっかけとなった一次感情を知ることが可能となります。
例えば 無視をされ 怒るとします。
この一事でも様々な一次感情が考えられます。
例えば
*相手の関心を引けない自分にがっかりした。
*拒まれて 寂しい気がした。
*自分が期待したように応答が返ってこなかった・期待外れ
(相手は気がつかなかった場合もあります)
*プライドが傷つき、恥をかいた*相手からの攻撃
*自分の存在を無視された
私たちは 相手に勝手な期待をし、期待が叶わなかったことで傷ついてしまいます 。
「お父さんだったらこうあるべきだ」「先生だったらこうあるべきだ」「子どもはこうあるべきだ」……「あるべきだ」の一人相撲をやめて「あって欲しい」という自分の望みを観る必要があります。
その望みが 相手との生きた関係の中で生まれたものなのか,勝手な想念、願いの中から生まれた独りよがりのものなのか・・・観る必要があります。
そうすれば 本当は何を望み、その願いを叶えるため 自分には何ができるのかを考え アイメッセージで相手に伝えることができコミュニケーションが成り立ちます。
私は 「ありのままの自分を認め受け入れることからしか」 すべては始まらないと考えます。以下をご参照ください。
https://note.com/hayam1_/n/nd1ba5df8ebdb
【ありのままの自分を受け入れることは絶望と共にある】 より
「ありのままの自分を受け入れて自由に生きよう」
とても優しい言葉で、明るい未来の示唆のように思える。
「ありのまま」を受け入れることは確かに喜びもあるけれど、それと同じくらい苦しみがある。
自分を受け入れるということは、諦めることと似ている。
自分が必死にしがみついている「理想の姿」「あるべき姿」を手放すことでもあるからだ。
自分がこれほどまでに脆弱で、未熟なのだということを思い知らされるということ。
「ああはなりたくない」と見下す他人の側面が、自分の中にも存在することを、心で知ること。
こんな自分、知りたくなかった。認めたくなかった。好きでこんなふうになったわけじゃない。
怒りや、許せないという気持ちで自らの心を焼くこと。
ありのままの自分を受け入れることは、そういう絶望と共にある。
けれどその絶望の先に示された明るい未来がある。
*
「ないものねだりをせずに、まずはあるものに目を向けよう」という言葉がある。
「ないものねだり」それ自体は悪いことではないとわたしは思う。
それはきっと、心の渇望の証だから。求める中で磨かれるものもあるはずだから。
ただ、「あるもの」を無視したままでは、「ないもの」はいつまで経っても手に入らない。
「ないもの」を生み出すためには、「あるもの」同士を組み合わせる必要があるからだ。
たとえば、刃物で人も自分も傷つけてばかりの人がいて、その人は刃物しか持つことができない。でも本当に欲しかったものは、暖かく人を包む毛布だったとして。
自分が刃物しか持ち得ないと知った時、誰かを傷つけてばかりだった過去を嘆くだろう。
しかし本当に刃物しか持たないからといって、できることは「人を傷つけること」だけなのか?
そうではないと思う。
たとえば、人ではなく食材を切れば、料理をすることが出来る。
動物の革や草木、土を加工して道具を作ることが出来る。
同じように人を傷つけるとしても、それが病を治すためであれば全く違う意味を持ってくる。
まずはその、人と自分の血で錆びてしまった刃をきちんと打ち直し、磨き、研ぐ。
そして、今度は違う使い方を試していくんだ。
そうすれば、助けた人に、欲しかった毛布をもらえるかもしれない。
あるいは刈り取った羊の毛を人に託して編んでもらうこともいいと思う。
変わりたければまず自分が持つものを使いこなせるようになること。
人は自分のあるものを知り、使えるようになることで、新たな可能性を開いていける。
それはかつて目指した姿とは全く違っていたとしても「それでいい」と思えるもののはずだ。
そしていつか「ないものねだり」も現実味を帯びてくるだろう。
絶望は終わりではなく、その先に行くために必要なステップ。
完全に受け入れることは難しくて、誰しもすぐにはできることじゃない。
何度も心が折れそうになるだろう。でもその度に、昨日までの自分とは確実に変わっている。
そして、そうやって生きようとすることが新たな自分を形作り、後ろを歩く誰かを照らす光になるのだと思う。
http://www4.plala.or.jp/k-k/meisai012.html
【自分を否定しているかぎり、なにも変わらない】 より
私は若いときは、だらしなく、約束を守らず、その場しのぎばかりしていて、マージャンやパチンコばかりしていました。 なんとかその場をつくろえば、あとはそのときになればなんとかなるという生き方をしてきました。 いまでもそんなに変わりはないかも知れませんが。 若いときよりは、幾分かはましになったとは思っていますが。 そしてそんな自分が嫌でたまらず、自分を忘れるために賭け事にはまり、当然のこととしてその場しのぎを繰り返してきました。 自分が嫌いで、そのうえこんな自分を産んだ親を恨み、自分の環境を恨んだこともありました。
でも、そのようなことから得たものは「こんな自分が嫌でたまらない」ということだけだったと思います。 自分を嫌えば嫌うほど現実から逃げるようになったのです。 そしてますます自立心と自信を失っていきました。 うそや言い訳で固めた生き方をするようになりました。
いま生きることに悩んでいる人は自分を好きですか、それとも自分を嫌いですか。 自分を嫌いだという考え方には、否定的な生き方しか考えつかないように思います。 自分はなんとかして苦境から抜け出そうとしているのですが、前向きの考えがでてこないで、どうしても後ろ向きの考え方しかでてこないと思います。 少なくても私はそうでした。 たまに前向きの考えが浮かんでも否定的な自分がでてきて、その前向きな考えをすぐに否定してしまうのです。 「どうせ、やっても失敗するに決まっている」、「どうせ、あいつには負けるに決まっている」、「お前はそんなことを言ったり、できる値打ちのある人間ではない」、「だらしないおまえに、そんなもっとらしいことが言えるのか、できるのか」と否定的な自分がささやきかけるのです。 果てしない悪循環が始まってしまうのです。
本当の自分の姿を否定しているから、本当の自分が見えなくなるのです。 こんなときは本当の自分を見ているつもりでも、自分に都合のいい自分しか見ていないのではないでしょうか。 「本当の自分は、こんなものではない」と自分に言い聞かせても、現実の自分を変えようがないのです。 なにを、どう考えようと各人の自由ですが、考えただけでは本当の自分が変わることはないのです。 実行しなければなにも変わらないことは、前に書いたとおりです。 苦しみや悩みの真の原因が分からなくなっているのです。 現実の自分を否定すれば、自分自身への言い訳にはなりますが、かえって生きることが苦しくなるだけだと思います。 だから現実の自分を受け入れなければ、問題は解決しないのです。 解決の糸口は、自信を失い無力感に苦しんでいる情けない自分の姿、いろいろな人間関係に否応なく巻き込まれて右往左往している自分を受け入れることなのです。 その勇気と決断力が必要なのです。
ありのままの自分を直視することは、つらいことです。 でも、すべてはそこからしか始まらないのです。 自分に都合のいい自分から出発しても、自分をごまかしているということは否定できないので、自分を信頼することができないのです。 現実の自分のすべてを受け入れてこそ、真の意味で自分が変われるのです。 自分を否定的に見ている限り、自分を変えようとしても変えることはできないのです。 このことは重要なことです。
いまの自分を自分として認めないかぎり、生きることは楽にならないのです。 だから自分が強くなるには、一時的にせよ自分が傷つくことは避けられないのです。 自分が傷つかないで、自分を変えることはできないのです。 自分が傷つくことを恐れているかぎり、強くなれないのです。
決断が必要なのです。
現実の自分を受け入れることはむずかしいし、とくに否定的になっている自分を受け入れることはなおさらむずかしいことです。 でも、その否定的な自分を受け入れることが必要なのです。 不思議なもので否定的な自分を受け入れることができると、自分を肯定的に考えることができます。 否定的な自分を受け入れたのだから、現実を肯定しているのだといえばそれまでですが、それは理屈だけの話だと言えます。 とにかく一度自分を受け入れてみることです。 どうしても受け入れられないときは、受け入れられるようになるまで待つしかないと思います。 無理にありのままの自分を受け入れようとすると、それも自分に嘘をつくことになるからです。 待つこと、耐えることが必要なのかも知れません。
自分は周囲のことばかり気にしている人間だ
自分の意見を言えない人間だ
ひとりではなにも決断できない人間だ
他人の出世が、これほどまで気になる人間だ
いくら勉強しても分からない人間だ
異性にはもてない人間だ
いつも威張ってばかりいる人間だ
過去にしがみついてばかりいる人間だ
いつもその場しのぎばかりしている人間だ
他人に利用ばかりされている人間だ
結果ばかり気にする人間だ
すぐ感情的になる人間だ (感情を抑えられないのか)
失敗ばかり恐れている人間だ
いつも他人の噂が気になる人間だ
実行力がない人間だ
利己的で思いやりのない人間だ
完全でなければ気の済まない人間だ
親離れできない人間だ
子離れできない人間だ
ひとりで抱え込む人間だ
あきっぽい人間だ
責任転嫁をする人間だ
臆病な人間だ
けちな人間だ
他人の悪口を言わないと気が済まない人間だ
自分の過ちを認めることのできない人間だ
ひとを騙すことが平気な人間だ (約束を破ることも含む)
「ノー」とはっきり言えない人間だ
親の言いなりになる人間だ
部下に厳しく、上にはごまをする人間だ
自分に甘く、他人に厳しい人間だ
相手を束縛しないと気が済まない人間だ
自分のことをたなにあげて、相手ばかり責める人間だ
利己的だ
本音を言えない人間だ
根暗な人間だ
対人恐怖症の人間だ
いつも他人より優れていなければ気が済まない人間だ
このような現実の自分の姿を受け入れることがなにより大切なのです。 「受け入れてどうなるのか」と思う人もいるかと思いますが、とにかく現実の自分を「自分はこんな人間なのだなぁ」と認めてみることです。
自分を否定するとは、自分に都合の悪いことは棚に上げて
ありのままの自分を認めて、「いまの自分はこのようなのか」と認める勇気を持つ必要があるのだと思います。 他人に嘘はつけても、自分自身に嘘をつくことができないからです。 そして、いまの自分、いままでの自分の欠点と長所を洗い出してみることが必要だと思います。
そして、今日よりは明日、明日よりは明後日の自分を想像しながら、気長に自分を変えていくことだと思います。
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