枝垂れ桜は基本的にどの方向にも満遍なく枝垂れるのではないでしょうか??
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6961448 【頭を垂れる】
ご参照ください。
そして下写真は同じ場所のものです。
さくらは新しい枝に咲くと言われます。
もしかして今年の何かが象徴されているのでしょうか?
撮影者の心が反映されているのでしょうか??
バームテストを連想します。
今年の釜川の桜はまるで命の水を求めるがごとく 川面に向かって枝垂れている感じです。
それぞれに咲いてふれあう桜かな 高資
さくらはさまざまな事を思い出さしてくれます。
http://www.ict.ne.jp/~sasa-mi/bashoukuhi14.htm
【さまざまの事おもひ出す桜かな】より
句意
ふるさとである上野に帰って今は亡き旧主禅吟公の庭前に昔のように咲き乱れている桜を見ると、自分が若い日旧主に仕えた日のことなど、この桜にまつわるさまざまのことが思い出されてならない。
若き日の芭蕉は藤堂藩の侍大将藤堂新七郎家に仕えていた。嫡男良忠公は禅吟と号し北村季吟に俳諧を学ぶ若き青年武将であった。芭蕉は禅吟公から格別の恩寵と待遇を与えられ、新七郎家の下屋敷である八景亭にも幾度か随従し、俳諧の途に進む学友として苦労も喜びも共に味わっていた。そんな中杖とも柱とも頼むべき主君禅吟公が寛文六年、二十五歳の若さで夭折した。芭蕉は失意の中当家を退き京都へ遊学、血の滲む思いの苦闘の中やがて江戸に下り俳諧宗匠として認められるまでになった。 主君の死後二十二年の歳月が流れ芭蕉は貞享四年に上野へ帰郷、翌春ののどかな日、旧主蝉吟公の遺児である探丸の招きにより、八景亭(新七郎家の下屋敷)での花見の宴に参列し禅吟公との交情の数々を心に秘めて挨拶の句を作り、懐紙に書きとめた。
http://www.st.rim.or.jp/~success/samazama_ye.html
【さまざまのこと思い出す桜かな】より
古寺に咲く花を見上げてしみじみと今に生きとふ縁(えにし)を思ふ
さまざまのこと思い出す桜かな
さまざまのこと思い出す桜かな
という句がある。実に平凡な句だ。俳句なんて、誰でも作れる、そんなことを思ってしまう。この句は、もちろん知る人ぞ知る芭蕉の句だ。芭蕉作となると、とたんに名句に思えてしまうから不思議だ。
なぜそんなことになってしまうのか。読んだ人間の心の動きをみれば、まず「芭蕉」というイメージに反応して、さざ波のような葛藤が起きる。その波紋が次第に大きくなり、句のイメージが一変する。芭蕉と聞いただけで、「お見逸れしました」となる人も多い。それほど「芭蕉」という名は、日本人にとって大きな存在で、文化的象徴ということにもなる。日本人の心の中にあっては、芭蕉は、歌人西行と並んで、ユングの言う「元型」(アーキタイプ)のひとつと数えても良さそうだ。言い換えれば、日本人は芭蕉コンプレックスを持っているのである。
具体的に言えば、「さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉」
と読んだだけで、多くの日本人は、イメージとして、蕪村が描いた「奥の細道」の芭蕉の旅姿を連想し、次に芭蕉が、この句をどのような情景の中で詠んだのだろうと考える。日本人は、自己の心にある芭蕉という元型(心のイメージ)に合わせて、物事を判断したり、推量する。
この句は、元禄元年(1688)芭蕉が、奥の細道の旅に出る一年前、故郷の伊賀の国に帰省した時に詠んだ句である。時に芭蕉45歳。
この「さまざまの」の句には、こんな詞書(ことばがき)が付されている。
「探丸子(たんがんし)の君、別墅(べっしょ=下屋敷のこと)の花見もよはさせ給ひけるに、昔のあともさながらにて」
現代語訳すれば、「探丸子の君が上野の下屋敷で花見の宴を開かれたのに招かれて行けば、そこは昔の宴もさながらにて」というほどの意味になる。
「探丸子の君」とは、芭蕉(本名松尾宗房)が、若い頃仕えていた故藤堂良忠の跡目を継いだその子良長の俳号である。若き日の芭蕉(宗房)は、良忠の近習だった。宗房の将来は、偏に良忠に掛かっていた。
宗房の将来は、まさに満開の桜のように輝いて見えた。しかし人生は分からない。良忠は、自ら寛文6年(1666)に主催した花見の宴の後、25才の若さで急逝してしまったのだ・・・。
この句の「さまざまのこと思い出す『桜』」とは、主君良忠とかつて花見の宴で見た思い出の「桜」を指していることになる。芭蕉は、その桜の中に、かつての主君良忠の若かりし面影を視ているのだろうか。あるいは桜とともに、良忠の子の良長(探丸子)を眺めながら、その面差しにかつての主君が甦ってきたような感慨をもっているのかもしれない。
芭蕉は、明らかに「さまざまの」の句を詠みながら、若き日の自分の周囲で起こったことを思い出している。主君良忠公を野辺に送った後、23才の若き芭蕉は、侍の道を捨て、俳諧の道で生きる決心をした。どのような心の葛藤があったか、それは今となっては誰にも分からない。しかし魂が粉々に砕ける寸前まで、悩んだ末の決断だったに相違ない。そうでなければ、脱藩の罪を犯してまで、故郷の伊賀上野を後にした理由の説明がつかない。
それから22年後の元禄元年(1688)、芭蕉は、45才の齢となっていた。この年、芭蕉は、2度目の吉野の旅に向かった。いつか芭蕉は、歌人西行が目指した風雅の道を志すようになっていた。西行と芭蕉、歌と俳諧(俳句)の違いこそあれ、ふたりは若い頃に、それが道ならぬ恋だったか、主君の夭折だったかは別として、共に魂が砕け散るような辛い決断をして、風雅の道に飛び込んだ共通項を持っている。
この年芭蕉は、父の33回忌の追善法要もあり、丁度桜の頃に故郷の家に帰っていたのであった。芭蕉の実家から、かつて仕えていた藤堂家の下屋敷は、一町(現在の距離にして109m強)ほどの距離であった。
おそらく、藤堂家の世継良長は、脱藩までして行方をくらましたかつての父の忠臣宗房が、江戸に出て俳諧の宗匠松尾芭蕉として名声を得ていることを聞くに付け、「どのような人物であろう。一度父のことや俳諧の道について尋ねてみたいものだ」と思っていたに違いない。その芭蕉が、今目と鼻の先に来ている。当然脱藩の罪を負っている者だから、芭蕉から挨拶に行くことは許されない。そこで、この若き良長は、父の没後22年目にあたる春に、芭蕉を非公式に花見の宴に招いたと考えられる。
芭蕉にとっては、二度と足を運べぬと思っていた藤堂家の花見の席への夢のような列席であっただろう。そして芭蕉は、自らの言葉にならぬ感慨を、文字通り「さまざまのこと思い出す桜かな」と、ありきたりの言葉で表現したのである。そこには言葉を飾ろうとか、巧く詠もうなどという思いはない。実感をただただ平凡に詠んだのである、
芭蕉は何故この句を後世に残したのか。本来であれば、芭蕉の厳しさからすれば、破き捨てるべき句であったかもしれない。しかしどうしても実感のこもったこの句を捨てられなかったのであろうか。幸い後世の私たちは詞書が付されていたために、芭蕉が、どのような思いで、この句を詠んだのかを、知ることができるのだ。
西行にも、随分と平凡な歌も多い。良いのである。魂が発した実感がこもっていれば、その実感は、響きとなって、それを読む人の心に、さざ波を起こす。
例えばこのような歌だ。
いにしへの人の心のなさけをば老木の花のこずゑにぞ知る
(訳:こうして桜の老木が見事に今年も咲いているのを見ていると、その花を付けた梢に古の人々の花を思いやる心の深さがつくづくと偲ばれることだ)
芭蕉にとって、桜は、ある意味で、幼い自分を育ててくれた父そのものであり、青春時代に、立身出世という夢を見せてくれた藤堂良忠であり、また今まさに生涯を掛けた目標となった先人西行法師その人なのである。それが、「いろいろのこと」という句となって、芭蕉の口から思わずポロリと洩れたのであろう。名句とは、推敲に推敲を重ねて作るものではなく、この「さまざまの」の句のように意外なほどあっさりとできるものかもしれない。さて芭蕉は、この句を詠んだ一年後、生涯の集大成とも言える「奥の細道」の旅に出る。西行の足跡を辿り、奥州を尋ねよう。そんな決意も、この懐かしき桜の前で誓ったのであろうか・・・。
最近この平凡な句が、様々な方面から注目を浴びるようになった。芭蕉が敢えてこの句に詞書を添えたのは、この句が取るに足りぬ平凡な句であるからだ。もう一度、この詞書を味わった上で、この句の実景を噛み締めてみる。そうすれば、この句の実感が読んでいるこちらの胸中にじわりと迫ってくる。きっと、私たち日本人の心の琴線に触れているからだろう。佐藤
https://mainichigahakken.net/hobby/article/post-341.php
【「さまざまの事思ひ出す桜かな」/井上弘美先生と句から学ぶ俳句】 より抜粋
さまざまの事思ひ出す桜かな 芭蕉
桜は王朝時代から、日本の美を代表する景物として脈々と詩歌に詠まれてきました。
芭蕉がこの句を詠んだのは元禄元(一六八八)年、四十五歳の時です。若き日に仕えた藤堂家に招かれて、二十年前を偲んで詠みました。芭蕉に俳諧を教えた藤堂蝉吟は若くして逝去。旧主への溢れるような懐かしさを素直に詠んだ句ですが、「桜」が決め手で、他の季語には置き換えられません。「桜」には過去を呼び起こす力があるのでしょう。万人の共感を呼ぶ名句と言えます。
芭蕉は元禄七(一六九四)年、五十一歳で亡くなります。
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7008951/
【咲くやさくら】
https://epinesis.net/archives/77246102.html 【バウムテスト検査(項目追加版)】
木の大きさ
・用紙いっぱいに木の絵が描かれている
自分に自信があり、やや自己中心的。
・木の絵が用紙面積の1/3程度しかない
あまり自信がない。現状に不満があって安心を求めている。
・適度に余白がある大きさの木が描かれている
周囲とよく協調してバランスを取ることができる。
木の位置
・用紙の中心に木の絵が描かれている
精神的に安定している。
・用紙の下側に木の絵が描かれている
現実主義的な傾向がある。
・用紙の上側に木の絵が描かれている
やや空想的な傾向があって飽きっぽい。
・用紙の左側に木の絵が描かれている
やや内向的で、現実逃避しやすい傾向にある。
・用紙の右側に木の絵が描かれている
相手を支配しようとする傾向にある。
木全体の様子
・全体が詳細に描かれている
完璧主義的で細かいことまで気にする傾向がある。重要なことと、そうでないことの判別が難しい。
・木の右側が強調された絵
現実,未来に対して意欲的であり、前向きに物事を考えることができる。
・木の左側が強調された絵
過去,自分に対して執着的であり、過去の出来事を引きずりやすい。
・木の形が測ったかのように正確な左右非対称
不安感が強く抑うつ傾向がある。自尊心が低く、劣等感を持つことが多い。
・下から見上げたように描かれた木
人には話せない何らかの願望があり、達成できておらず諦めきれていない。
・上から見上げたように描かれた木
やや自信過剰な傾向がある。
・木が2本描かれている
自分の過去を抑圧しており、新しい自分を再構築しようと試みている。
・木が3本以上描かれている
自主性の欠如を示している。集団の中で自分の価値を見失っている。
・風に吹かれている
外部からの影響によって内側に引きこもったり、強制させられていることを示す。
樹幹部(木の中心にある太い部分)と樹冠部(葉が集まっている部分)のバランス
・幹部が短く、冠部が大きい絵は周囲から認められたい傾向を示す。自己評価が高く、他者の欠点はすぐに目につく。
・幹部が長く、冠部が小さい絵は精神面での発達の遅れを示す。未成熟的な傾向。
樹幹の様子
・電柱のように幅が均等になっている
頑固で融通性に欠ける傾向にある。
・幹が細く震えた線で描かれている
精神的に不安定になりがち。
・途中に膨らみやくびれがある
周囲からの目が気になってストレスを溜めやすい。
・樹皮が描かれている
他人からどう思われているかをよく気にする。
・幹の部分が大きく強調されている
自己愛が強く、肥大した自我を持っている。
・根元部分が強調されている
現状に不安を抱いており、常に安定感を求めている。
・幹が蛇行している
外部からの妨害によって自分自身の欲求が抑圧されている。
・根に近い部分で分岐している
多重人格的な傾向を示している場合がある。
・幹が右に曲がっている
順応的でお人好しな性格。
・幹が左に曲がっている
引きこもりがちな性格。
・幹が左右どちらかに大きく曲がっている
ひねくれていて、素直に受け入れられない性格。
・幹を黒く塗る
自分自身を否定したり嫌っている。幼児期に親からの愛情をあまり感じていない。
枝の部分の様子
・枝がさらに小枝に分かれている
平和や調和を重視する傾向にあり、協調性がある。ただし小枝が著しく多い場合は空想にふけりやすい傾向にあり、軽い躁傾向にあると捉える。
・大きな枝しか描かれていない
外交的で感受性が強く、様々な方面に興味を持つ。
・枝が切られている
自分を発揮できていないと感じており、周囲から認めてもらえないことに不満や挫折感を自覚している。大きい枝が切られて切り株状になっている枝は過去にあった心の傷を示す。
・枝が交差している絵は、感受性や独創性が高く芸術肌だが、自己中心的で他人に対し批判的な傾向にある。
・枝が下がっている
自身の置かれている環境に不満があり、無気力になっている。
・枝がギザギザと曲がっている
不安を抱えやすく、衝動的な行動をとることがある。
・枝がグニャグニャと曲がっている
マニアックでこだわりが強く執念深い。
・枝の根元に線が描かれている
論理性が未熟で、自分は常に安心であると思い込む。
・放射状に枝が広がっている
多岐に渡る興味や関心を示すが、注意力が散漫な傾向にあり不安定。
・噴水状に枝が広がっている
注意力の散漫があり、投げ出しやすい傾向を示す。
・枝が棚のように並行して硬直している
指示がないと動けない傾向を示す。
葉の様子
・葉が大きく描かれている
無力感を持ちながらも、表面的には適応を示す。
・葉が一枚一枚丁寧に描かれている
完璧主義的で、自己顕示欲が強い傾向にある。
・葉脈が描かれている
対人関係が過敏で、人の目を気にする傾向にある。
・葉が描かれていない
自己表現が上手ではなく、人との関わりを苦手としている。孤独感を示している場合もある。
・大量の落ち葉
大きな失敗や挫折感を示す。目標の達成による虚脱状態を示している場合もある。
地面の様子
・丘の上に木が立っている
自分中心的な考えの表れ。リーダーシップを示す。
・地面がでこぼこしている
心配性で不安感が強い傾向にある。
・地面が塗りつぶされている
身近な人への嫌悪感や不信感を示している。
・地面が埋もれるほど草が生い茂っている
現状に満足して怠けたいという気持ちが強い。依存心が強く甘えたがり。
・根っこが浮き上がっている
自分を実力以上に誇張して表現する傾向にある。
・紙のふちを地面としている
不安感があって落ち込みやすい。子供の場合は特に親からの分離不安を示している場合がある。
・地平線が高く描かれている
現実逃避の傾向、あるいは状態を示す。
tree flickr photo by Justin T Stevens shared under a Creative Commons (BY) license
果実
適度に果実が描かれている場合は目標が達成されていることを示す。女性の場合は子どもが欲しいという欲求を示している場合がある。著しく果実が多い場合は精神がやや病的な傾向にある。
・いろんな種類の果実が描かれている
精神的な未熟を示しているが、発想が豊かでユーモアのセンスがある。多くのことに興味を示すが、短絡的な成果を求めやすい。
・果実が落下している
諦観や失敗などを示している。女性の場合は子どもの独立といった喪失感などを示す場合がある。
その他
・木が柵で囲まれている
臆病で用心深い性格。周囲の不幸をあまり気にしない。
・木に鳥が描かれている
明るい気分や希望を表している。鳥の巣や卵が描かれている絵は家族の温かさを感じているか、それを求めていることを示している。巣だけが描かれている場合は喪失感や無力感を表している場合がある。
・虫が描かれている
未熟を示しており、依存心がある。自己蔑視の表れである場合もある。
・花や鳥、虫などが描かれている
周囲からの人気を求め、目立ちたいという気持ちを表す。
・額縁が描かれている
自殺願望を示していることがある。
・絵を書かない
本当の自分を知られたくない。
・絵が非常に雑
精神的な不安、または飽きっぽい性格。投げやりな絵は反社会的でモラルの欠如を示す。
・用紙を横書きに使う
周囲が自分に合わせるべきだという自己中心的考えがあり、無意識のうちに周囲と反発する。実際のバウムテストでは縦書きの指示は特に無いが、紙があらかじめ縦に置かれて用意される。
木を描いた順番
・木を書いてから地面を描く
ふだんは安定しているが突発的に怒ることがある。
・地面を描いてから木を描く
他人に依存する傾向。
・葉の部分から描く
不安定で周囲からの目が気になって表面的な見栄えを求める。
絵を描く早さ
・描き上げるのが早い
やや衝動的で自己主張が多く攻撃的。
・描き上げるのが遅い
慎重で優柔不断な傾向にある。
筆圧
・筆圧が強く、線が太い
自己主張が多くて攻撃的な一方、活発で積極的。
・筆圧が弱く、線が細い
やや無気力で消極的な傾向。不安や恐怖を抱えていることを示す場合もある。
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