東の海の底より室根まで茜さす日は日の本の日ぞ 蘆東山
https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,18682,146,html 【芦東山について】
人間愛と信念の生涯
芦東山(あしとうざん)は元禄9年(1696)仙台藩磐井郡東山渋民(現一関市大東町渋民)に生まれました。幼い頃から学問に励み、仙台藩儒学者として第5代藩主伊達吉村に仕えました。藩政に関する考えを上言(「七か条の上言」)し、元文2年(1737)には講堂座列に関する願書を出した結果、評定所より処罰され、元文3年(1738)から宝暦11年(1761)までの23年間加美郡宮崎(現宮城県加美町)及び栗原郡高清水(現宮城県栗原市)にて幽閉生活を送りました。その間、我が国の刑法思想の根本原理を論じた『無刑録』18巻を執筆、宝暦5年(1755)に完成させました。農家出身であった芦東山は、常に庶民・弱者の擁護を念頭に置いていました。幽閉中に記した『二十二か条の上言』などに見られる人間愛と儒者としての信念に基づいた卓越した識見には、時代を超越した真実が存在し、今なお私たち現代人に訴えかけてきます。
https://spc.jst.go.jp/experiences/change/change_1503.html 【蘆東山の「楚辞」】
蘆(または蘆野)東山(1696-1776)について記す。幼名は善之助、改名し勝之助、幸七郎、幸(孝)四郎となる。諱(いみな)は徳林。字は世輔または茂仲。号は東山の他に、渋民、玩易斎、赤蟲、貴明山下幽叟などの別号を持つ。本姓は岩淵で、通称は幸四郎と呼ばれていた。陸奥国磐井郡渋民村(現在の岩手県一関市大東町)に生まれ、岩淵の姓は、武蔵国岩淵(現在の東京都北区岩淵町)に住んでいたことに由来する。その後、「芦野」を名乗るが、これも天正(1573-1592。正親町天皇、後陽成天皇の時代)時代に、先祖六郎左衛門が武蔵国岩淵から下野国芦野(現在の栃木県那須町芦野)に移り住んだことによるものである。東山は幼い時から聡明で稗史を好んだ。7歳で正法寺に入僧し、定山良光和尚の弟子となり勝之助と改名した。9歳になると、祖父徳芳の勧めもあり、明石藩松平家の家臣 桃井素忠から教えを受けるようになり、わずか一年で四書五経を読みつくしている。この時、幸七郎と改名した。既に桃井素忠のもとでは読む本もなくなり、宝永五年(1708年)、母とともに本の買い入れのため仙台に出向き、そこで、仙台一の薬屋の主人 大和屋久四郎と出会う。その二年後の宝永七年(1710年)には、再び仙台に出向き、大和屋久四郎の世話となり、吉田儒軒に需学や医学を学ぶ。同年、儒軒のもとを藩の学者 田村希賢が訪ねてきたことがきっかけで藩学校に入り、田辺希賢(字、整斎)の弟子となり、江志知辰より天文学を学ぶ。正徳元年(1711年)には渋民に帰り、村の人々に『孝経』などの講義をしている。正徳四年(1714年)、孝七郎と改名した東山は番外侍となり、享保元年(1716年)には京都に遊学し浅井義斎に、享保二年(1717年)には三宅尚斎に、それぞれ師事し門人となる。享保三年(1718年)、孝七郎は中国の学問だけが学問と思ってはいけない、と考えるようになり、当時の国学の大家 高屋徹斎につき古事記、万葉集など国学を学んだ。享保六年(1721年)には、江戸に出て室鳩巣のもとで学び、仙台藩に儒者として奉じ、第5代仙台藩主 伊達吉村に仕えた。当時、東山は26歳であった。同年夏、東山は豪商鈴木八郎の援助により田辺希文らと学問所の建設を献策し、許可が下りた。三年後には完成し「明倫堂」と名付けられ、主に『左伝』『孟子』『近思録』などの講義を行った。当時、仙台は学問が盛んであり、東山はその最先端にいた。享保十二年(1727年)、岩淵から芦野へと改姓し、名を徳林と改めた。
元文三年(1738年)、東山は同僚と講席を争って藩に上訴し、従来の家柄に応じた席次や間違った儀礼を改めるよう主張した。このことにより東山宅に「御用」として数人の役人が出向き、結果、加美郡宮崎村(宮城県加美郡加美町)の石母田家方へ蟄居を命ぜられて24年間の幽閉生活を送ることとなった。その間は厳しく監視を受け、手紙なども制限されたが、宝暦十一年(1761年)、ようやく赦免された。故郷に戻った東山は、「室根山崑崙を望む 更に黄河に向って 源を尋ねんと欲し ただ見る雲間夕陽映じ 天涯の心事 誰とともにか論ぜん」という詩を残している。幽閉期間中、寛保二年(1742年)から寛延二年(1749年)のわずか8年の間に、一男三女二婢を失うという悲劇にも遭ったが、この間、主著となる『無刑録』の著述に打ち込み、宝暦元年(1751年)、十八巻が完成している。そしてその後、宝暦十一年に赦免され帰郷したのである。
東山は、晩年は梅隠翁と号して諸国の寺を回り、『太極図説』などを講義し、鈴木八郎の援助のもと本を出版、そして安永五年(1776年)、81歳の生涯を閉じた。友人の田辺希元が墓表を撰し、黒沢東蒙が『実記』を記した。
主な著作には『無刑録』[1]、『楚辞評園』、『玩易斎遺稿』[2]、『芦東山日記』(1763年、一冊、手稿本、現在岩手県図書館収蔵)等[3]がある。また東山について記された書物には、多田東渓『芦東山先生事実』(宝暦七(1757)年)、田辺希文『芦世輔碑銘』(事実文編三十七)、東条琴台『芦東山』(先哲集談後編八、明治十三(1880)年本)、斎藤馨『芦東山伝』(事実文編 三十七)、芦育平『芦東山先生伝』(東盤日報 昭和三十九(1964)年二月から四十(1965)年一月)等が挙げられる。また、芦東山記念館が岩手県一関市に建てられている。
東山の性格は権力を嫌い、柔軟さや妥協がなく剛直であった。三宅尚斎は「彼は信念を曲げず恐れを知らない」と言い、室鳩巣は「彼は終わりを善くする者にあらず」と語ったとされる。人柄の面でも政治的失意の面でも、東山と中国の屈原は多くの類似点を持つ。政治的失意と悲痛な経歴は、東山をして『無刑録』の著述に専念させるのみならず、その目を『楚辞』へと向けさせ、日夜これを熟読し手放さなかった。東山は屈原の悲劇を自らのものと受け止め、「我はすなわち今日の屈原なり」と言ったという。屈原と『楚辞』は東山の生命の一部となり、「芦東山日記」の宝暦八年四月十日には、「楚辞一冊の写本・・・袋に入れる。」、また同年六月十六日には「楚辞の序を写し、箱に入れた。」と記されており、東山は晩年、『楚辞』の注釈を自ら行おうと決め、『楚辞評園』をその書名とした。これは、『楚辞集註』(桂庵四年刊行、朱熹)を参考に自らの意見をまとめたものであり、日本人による『楚辞』の注釈に関する最初の研究にあたる。
岩手県西盤井郡花泉町教育委員会所蔵の『楚辞評園』は『注解楚辞全集』(『楚辞弁証』は欠けている)を底本とし、書名には「楚辞評苑」と書かれており、巻頭には「楚辞総評」と「各家楚辞書目」が置かれ、「楚辞総評」では、四九家[4]の楚辞評を抄録し、「各家楚辞書目」では、王逸の『楚辞』十七巻、『楚辞釈文』一巻、『補注楚辞』十七巻(考異一巻)、重編楚辞十六巻、続楚辞二十巻、変離騒二十巻、龍風楚辞説五巻、楚辞贅説、楚辞集注八巻の解題、司馬遷『史記・屈原伝』と沈亜之『屈原外伝』などが収められている。上述の四九家の楚辞評は枠外に記され、「徳林按」とは区別されている。また、関連文献の引用、参照、議論などは浅見絅斎の『楚辞師説』で取り上げられており、「文選訓読」により、漢文、和文などで読まれている。しかし、惜しいことに東山はこの書が未完のうちに世を去ることとなった。
『楚辞評園』のほかにも、東山の詩には『楚辞』を根拠とした表現が数多く見出され、屈原に寄せて自らの状況が謳われている。宝暦六年(1756年)藩主の交代に伴い、東山の蟄居地も加美郡宮崎から栗原郡高清水へと変更になった。この時、東山は屈原の『哀郢』の詩に思いを寄せ、「厳譴に荒に投ぜられて二十年、今春此を去るにうたた凄然。誰か知らん孤客東遷の日、哀郢吟成る最も憐む可きを。」との詩を作っている。さらに自ら、「楚国で国が荒れた後、仲春に屈原は東へ居を移し「哀郢」の詩を作り、私と同じなのは、時を隔てた屈原のみである。」[5]と注釈している。その他の詩でも、「楚辞」を根拠とする作品は数知れない。
東山の『楚辞』の引用は字句の表面をなぞるだけでなく、「境遇、心情を屈原と一体化する傾向にあった[6] 」とある文献には記されており、彼は『楚辞』を自己の精神の拠りどころとしたと言えよう。また、「彼のように楚辞の影響を受けた詩文を多く創作した者は、日本では数少ない[7]」とも評されていた。
芦東山記念館
0コメント