「夕日影を額で受けて松果体へ」の「日輪観」は陽を宿したる命を連想させます。
まさに「心に太陽を持て」ですね。
『心に太陽を持て』 チェーザレ・フライシュレン(訳 山本 有三)
心に太陽を持て。
あらしが ふこうと ふぶきが こようと 天には黒くも、地には争いが絶えなかろうと、
いつも、心に太陽を持て。
くちびるには歌を持て、軽く、ほがらかに。
自分のつとめ、自分のくらしに、よしや苦労が絶えなかろうといつも、くちびるに歌を持て。
苦しんでいる人、なやんでいる人には、こう、はげましてやろう。
「勇気を失うな。くちびるに歌を持て。心に太陽を持て。」
樅の木の日を宿したる雪の朝 高資
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6745838
【山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう・慈悲の瞑想】をご残照ください。
https://www.gentosha.jp/article/15019/?fbclid=IwAR3QWsvKNWPCHWaCdCUkF3EVhqEsDk3fwA83hgWOQAfz1B9kqje6n97zTpQ
【『夜と霧』のフランクルが説く「本当に幸せな人」の考え方諸富祥彦】 より
「悩みから逃げず、きちんと悩める人にだけ濃密な人生はやってくる」。そうおっしゃるのは、心理学者でカウンセラーの諸富祥彦先生。とはいえ、やみくもに悩めばいいわけではありません。「正しい悩み方」があるのです。著書『悩みぬく意味』は、その具体的方法を伝授してくれる本。いつも悩みがちなあなたにぜひ読んでいただきたい本書から、一部をご紹介します。
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「私」でなく「人生」の立場に立つ
フランクルの思想の中でも、読者に大きなインパクトを与えたのは、次のような言葉です。
「あなたがどれほど人生に絶望したとしても、人生があなたに絶望することはない。人生があなたに期待をしなくなることはけっしてない」
「私たちが人生に『イエス』と言えなくても、人生は私たちに『イエス』と言っている。自分のこんな人生にいったいどんな意味があるのだろう、とふさぎ込み、絶望していたとしても、人生は『イエス』と語りかけてくれる」
「何かがあなたを待っている。誰かがあなたを待っている」
これらの言葉に共通するレトリック。それは「私」(もしくは「あなた」)と「人生」(もしくは「誰か」「何か」)との位置の転換です。
「私」の立場から見るのではなくて、「人生」の立場に立ってみよ、という立脚点の変更の要請です。
「私」が「人生」に期待するのに先立って、「人生」が「私」に期待している。
「私」が「人生」にイエスと言えなくても、それに先立って、「人生」は「私」にイエスと語りかけてきてくれている。
こうした言葉によって、フランクルは、「私」(もしくは「あなた」)と「人生」との位置を180度転換せよ、と迫ってきているのです。
要するに、フランクルは、こう言うわけです。
生きるとは、私たちに絶えず送り続けられてきている「人生からの問い」を引き受けて、それに責任を持って「答え続ける」ことである。
私たちは、人生全体をかけて、このことをやりぬかなくてはならない。
フランクルのこの考えを真に受け入れることは、しかし、私たちの生き方、「人生への構え」そのものに、ある根本的な転換をおこなうことを意味しています。
私たちはふつう、人生を「自分のしたいこと」をしていく場だと考えています。
自分の夢を実現する。希望や願望を実現し、目標を達成していく……。そんなものだと考えているわけです。
もちろん、自分のしたいこと、やりたいことを実現していくことは、それ自体悪いことではありません。しかし、「幸福になりたい」という人間の欲望には際限がありません。
ある地位を手に入れたらもっと高い地位が欲しくなる。
ある程度有名になれたらもっと名声を、と思ってしまう。
それが世の常で、だから「幸福になりたい」という欲望に駆り立てられている人は、どこまでいっても心の底から満たされることがありません。絶えず「何か足りない」「どこか満たされない」という欠乏感を抱き、「永遠の不満の状態」に陥ってしまうのです。
「欲望の虜」では幸福になれない
幸福は、それを求めれば求めるほど、私たちの手からスルリと逃げ去ってしまう、という人生のこの逆説的な真実。すなわち「幸福のパラドックス」。
古来、哲学者たちはこの人生の真実を説き、その罠に陥ることのないよう人々を戒めてきました。フランクルもまた、人生のこの罠から人々を解き放とうとします。
そのために、「人生への基本的な構え」「基本的な人生哲学」を180度、転換することを求めるのです。
つまり、「私のしたいこと、やりたいことをするのが人生だ」という人生観から、「私のなすべきこと、私がこの世に生まれてきたことの、意味と使命とを実現していくのが人生だ」という人生観へと転換すること。
こうした生き方の転換が、「欲望の虜」となり「永遠の不満の状態」にイラだちながら生きる状態から脱け出して、「私は、なすべき時に、なすべきところで、なすべきことをしている」という深い「生きる意味の感覚」に満たされて生きていくことができるようになるためには必要なのだと、フランクルは言うのです。
これまでの心理学では、次のように自問するよう促してきました。
「私が、ほんとうにしたいことは、何だろう」
「私の人生の目標は何だろう。どんな希望や願望を実現したいのだろう」
これは、言わば「幸福の獲得を目指す問い」です。しかし、このように自分に問うていくと、私たちの欲望はかき立てられ、ますます「欲望の罠」にはまってしまいます。
そこでフランクル心理学では、これを逆さにし、次のような問いに変えます。
「私は、この人生で何をすることを求められているのだろう」
「私のことをほんとうに必要としている人は誰だろう。その人は、どこにいるのだろう」
「その誰かや何かのために、私にできることは、何があるだろう」
フランクル心理学では、絶えず、このように自問しながら生きていくように勧めるのです。
つまりフランクルが私たちに求めているのは、「欲望や願望中心の生き方」から「意味と使命中心の生き方」への転換です。
「人生でしたいことをする生き方」から「この人生で果たすべき使命を果たしていく生き方」への転換です。
そうすることではじめて、私たちの人生は、欲望への執着から解き放たれ、深い生きる意味と使命の感覚に満たされた人生を送ることができるようになるのです。
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