5輪塔

撫子や学校門の外に咲く  高資

門外に撫子の咲く五徳かな  高資

https://www.e-ohaka.com/guide/kind/gorintou/  【五輪塔とは – 構造、歴史と成り立ち、お墓としての意義】  より

五輪塔の構造と意味

五輪塔は名前の通り、5つの形をしたもので塔が形成されています。それぞれ、四角形・円形・三角形・半円形・宝珠形(上が尖った団子のような形)の順に積み上げられています。

ただし形などは必ずしも一定ではありません。作られた時期や場所、材質によって多少異なるのも特徴で、形によって名称がついているものもあります。

例えば、三角の部分が三角錐になっている「三角五輪塔」や四角形の部分が長い「長足五輪塔」、一石に掘られた「一石五輪塔」などです。

5つの形にはそれぞれ意味があり、下から地・水・火・風・空を表しています。この5つはインドで五大と呼び、宇宙を構成する要素とされています。また、その他にも五体満足という言葉があるように、5つの石が人間の体を構成しているともされています。

この思想が、インドから日本の密教へと伝わり、五大を五輪として塔にしたのが五輪塔です。

五輪塔には、宗派によってさまざまな文字が刻まれますが、インドの思想が元になっているため、五大の要素をそれぞれの石にインドの「梵字」で記載しているものがあります。

このようにさまざまな意味合いのある「五大」は、死者を極楽浄土へと旅立たせることができるとされています。

また、お墓でよくみられる塔婆にもこの五輪塔の概念が見られます。概念が同じため、塔婆の表側にも五大を表す梵字を記載します。

五輪塔の歴史

五輪塔は日本独特のもの?

五輪塔の歴史はとても古く、平安時代末期の11世紀中ごろには供養塔として日本で見られるようになりました。

五輪塔はインドが発祥と言われていますが、インドや中国などの日本の宗教の元になっている国々では現存しているものが確認されていません。そのため、経典にあったものを日本が独自で作ったのではないかと言われています。

お墓としての五輪塔

時代が鎌倉時代へ移り変わると、五輪塔はお墓として日本各地で使われるようになります。

この頃は平地に五輪塔を建てて、周りを土居で囲み墓地にしたり、山に岩穴を開けてその中に五輪塔を建てて埋葬をしていました。

この頃の五輪塔は、宋から伝わった高度な石造りの技術により硬質な石が使われるようになりました。特にこの当時に作られたものは、鎌倉型五輪塔と呼ばれています。

室町時代に入ると一般庶民も境内や寺院などのへの埋葬ができるようになり、現在のような供養の形が出来上がっていきます。

それから江戸時代に新しい形の墓石ができるまで、五輪塔は幅広い地域で使われるようになったのです。

五輪塔は何故建てられるようになったか

五輪塔が、供養墓や供養塔として数多く建てられるようになった訳は、さまざまな要因が重なっています。

平安時代より前の時代では、一般庶民のお墓というものはなく、ただ死者を埋葬するというものでした。それが、平安時代になると浄土教という宗教的価値観が庶民の間に広っていきます。この浄土教の教えには極楽や地獄といった概念が含まれており、庶民にも死後の世界や応報といった考えが普及します。

そんな中、「覚鑁上人」という高野聖の一人である僧が、五輪塔で供養をすることで極楽浄土に行くことができるという考えを広めました。

このような背景から人々の死後に対する考えや先祖への追善供養の思いが強くなり、国もこの流れを推進していくようになったのです。

さまざまなお墓が混在している理由

江戸時代になると五輪塔とは別の形のお墓が作られるようになります。現代でもよくみる角碑型や先端が尖った尖頭型です。

また、この時代には檀家制度というものができて、人々はみな何かの宗派に属していなければいけませんでした。

浄土真宗では、死後すぐに極楽浄土へ旅経つとされているので、五輪塔の概念と相違があるため基本的にはお墓としては用いません。

そのため、檀家制度で浄土真宗に属していた地域では、五輪塔が必然的に少ないです。

このように複数の宗派による考えや時代の流れにより、さまざまなお墓が混在するようになりました。


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