https://sites.google.com/site/hp0307hiroakitakenaka/japanesehistoryeraofasuka 【日本史外伝(ヤマト王権時代)】 より抜粋
36) 国の存亡の危機であった崇神時代
① 疫病の大流行
崇神天皇の時代は崇神天皇5年から7年にかけて、疫病大流行のため、国民の半数以上が亡くなったとされています。大変な国難を前に、遂には従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移したりしますが効果なく、銅鐸もこのために放棄されたという説があります。
崇神天皇7年11月、大田田根子を大物主神を祭る神主とし、市磯長尾市を倭大国魂神を祭る神主としたところ、ようやく疫病は終息し、五穀豊穣となったということです。2年もの間、疫病のために国存亡の危機に瀕します。
② 四道将軍の派遣
疫病が落ち着くと、崇神天皇10年から11年に皇族の4人の将軍をそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣し、地方の賊軍を平定しました。そして崇神天皇12年9月、戸口を調査し課役を科すようになりました。また依網池や軽の酒折池などの池溝を開いて農業を盛んにしたと伝えられています。
ちなみに崇神天皇の没年は、住吉神代紀により258年と証明されているそうです。
大阪市東住吉区ホームページ
https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033859.html
https://www.city.uda.nara.jp/udakikimanyou/yukari/series/kojikinihonsyokimanyousyu2.html
【『古事記』『日本書紀』『万葉集』と宇陀市(中)】 より抜粋
崇神天皇と墨坂神
ここからは、第10代天皇、崇神(すじん)天皇のお話です。記紀では、天皇は、磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)を宮居としたと伝えています。三輪山の周辺に宮居があったのでしょう。また、崇神天皇が即位して5年、大和国内には疫病が流行り、多くの人々が死に絶えたので、大いに歎き、悲しんだとあります。
崇神天皇6年には、宮中で祀っていた天照大神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)の二神を他で祀ることとなります。天皇は、この二神の神威を畏(おそ)れ、宮の外で祀ることとしたのです。天照大神を皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託し、笠縫邑(かさぬいのむら)(現在の桜井市檜(ひ)原(ばら)神社)で祀らせることとしたのです。この天照大神と豊鍬入姫姫命のことについては、第11代天皇のお話のなかで、改めてご紹介することとしましょう。空から見た三輪山麓
さて、天皇が悲しんだ疫病は、というと・・・。同7年には、夢のお告げによって、大物主(おおものぬしの)神(かみ)(三輪山を御神体としている大神(おおみわ)神社の祭神)、倭大国魂)神((やまとのおおくにたまのかみ)(天理の大和(おおやまと)神社の祭神)を祀ったところ、疫病が収束に向かい、五穀豊穣になったとあります。また、同9年の3月のある夜には、天皇の夢のなかに神人が現われて、「赤盾八枚・赤矛八竿(さお)を以て、墨坂神(すみさかのかみ)を祠れ。亦(また)黒盾八枚・黒矛八竿を以て、大坂神(おおさかのかみ)を祠れ。」というのです。天皇は、先の二神に続き、さっそく、墨坂神と大坂神に盾と矛を奉献(貢物)し、祀ったところ、疫病や災いが無くなりました。
その後、天皇は、近畿とその周辺までその勢力範囲を広げ、国を治めることとなったので、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と褒め称えられることともなったのです。この呼び方から崇神天皇が本来の初代王者であるとする説があります。
墨坂と墨坂神社
崇神天皇は、夢のなかに出てきた神人の言うとおり、赤盾八枚・赤矛八竿(さお)を奉献して墨坂神(すみさかのかみ)、黒盾八枚・黒矛八竿を奉献して大坂神(おおさかのかみ)を祀りました(崇神天皇9年)。これらの神を祀ったことによって、疫病が収まりました。
崇神天皇は、疫病などの悪いものが奈良盆地へ入って来ないようにするため、盆地東側の街道に墨坂神、盆地西側の街道に大坂神を祀ったのです。墨坂神には、赤盾・赤矛、大坂神には、黒盾・黒矛を奉献しましたが、この色の違いはどこからくるのでしょうか。東側は日の出、太陽が出てくる方向なので、「赤色」、西側は日没、太陽が沈む方向なので「黒色」としたとの考え方もあります。この色の違い、皆さんはどう思いますか。墨坂神社の旧社地「天ノ森」
墨坂神を祀ったところがのちの、墨坂神社(宇陀市榛原萩原)、大坂神ゆかりの神社は、大坂山口神社(香芝市)といわれています。墨坂神社・墨坂神は、もともと、西峠近くの「天ノ森」というところに祀られていましたが、室町時代の文安6年(1449)に現在の場所に移りました。「天ノ森」の近くには、現在も「墨坂」という地名が残っています。「墨坂」は、榛原の集落から見て「隅にある坂」であることから、「隅坂」と呼んだことに由来するとの説もあります。
現在の墨坂神社は、墨坂神を祭神としており、本殿は、一間社春日造(いっけんしゃかすがづくり)という構造となっています。この本殿は、春日大社本殿のひとつを元治(げんじ)元年(1864)に移築したものです。現在の春日大社本殿(国宝)より古いもので、墨坂神社の本殿は、春日大社本殿の先輩ともいえるでしょう。
墨坂神社の秋祭では、今の神社から元の社地へと「渡御行列」が行われています。大神輿へと移された御分霊が11月2日の夜に神社から旧社地の御旅所に赴き、そこで一晩を過ごしたのち、3日に御旅所から神社へと戻るというオワタリ祭りです。
さて、この墨坂ですが、神武天皇が宇陀で戦いを繰り広げたときに敵軍が「墨坂」に焃炭(おこしすみ)が置いて人が通れないように炭火をおこしていたところでもありました。また、壬申の乱(672年)においても墨坂で戦いが繰り広げられました。奈良盆地へと通じるこの墨坂は、古代から交通の要衝として重要な場所であったことから、幾度となく記紀に登場してきます。
信濃の墨坂神
平安時代の史料、墨坂(須坂市墨坂)『新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)』という書物(法制書)には、「天応(てんおう)元年十月十四日墨坂神一戸信乃」と書かれており、奈良時代末の781年には、信乃(しなの)(信濃)に墨坂神の神領があったことがわかります。なぜ、信乃に神領があったのかは、詳しくはわかりませんが、神領があった所以で、ここには、「墨坂神」が祀られるようになります。
現在の長野県須坂市には、墨坂神を祀った墨坂神社が2社あります。ひとつは、須坂市墨坂にある墨坂神社、もうひとつは須坂市須坂にある墨坂神社です。この2社とも「7世紀中頃に大和国宇陀郡墨坂神社(須坂市須坂)の墨坂神社から墨坂神を遷祀したことにはじまる」と伝えられています。大和の墨坂神社の神領は、この辺りにあったのでしょう。ちなみに須坂(すざか)という地名は、「墨坂」に由来しているといわれています。少々、遠方ですが、後輩の墨坂神社も訪れてみてはいかがでしょうか。
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/19538 【「疫病の日本史」を振り返る、アマテラスと疫病】 2020年5月10日 より
日本史における疫病の歴史をたどってみたい。そこから窺えるものは何か?
最初の疫病は、『日本書紀』(以下『紀』)の崇神(すじん)天皇5年条に登場する。
〈国内に疾疫(えのやまい)多くして、民死亡(まか)れる者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす(国内に疫病が流行し、死ぬ者が多く、民の半分ほどだった)〉
この一文は、伊勢神宮など主要な3つの神社の起源説話の契機とされる。
ハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇)と称され、ヤマト王権の実質的初代天皇とされる第10代崇神は、磯城(しき・奈良県桜井市)の瑞籬宮(みずがきのみや)に宮都を定めた。
次の年、崇神は天神地祇(てんじんちぎ)に祈ったが民の離反は止まらない。顧みると、宮中に(天神の)アマテラス(天照大神)と(地方神の)倭大国魂(やまとおおくにたま)神の2神を並べて祀(まつ)っていた。神霊が強く両神が合わないのかと、皇女2人が別々に祀ったがうまくいかない。
その後、夢やお告げの通り、太田田根子(たねこ)を探して(三輪山の)大物主神を、長尾市(ながおち)に倭大国魂神を祀らせたところ、崇神7年に疫病は収まり、五穀が実り国内は安定した。
つまり、天皇家の祀る太陽神(ここではアマテラス)と、農耕神(=竜蛇神)の地方神は一緒に祀ると災いがあり、各自伝統の家柄の者が奉斎すべきだった、と教示する。
アマテラスに関しては、次の垂仁(すいにん)天皇の時代、皇女ヤマトヒメが鎮座地を求めて巡行し、「常世(とこよ)の浪の重波帰(しきなみよ)する国」である伊勢に至り、「社(やしろ)」を立てた、と『紀』は記す。
しかし、これは疑わしい。多くの研究者が指摘するように、アマテラスを祀る皇女・斎王(さいおう)の伊勢派遣は5世紀後半の第21代雄略天皇の時に始まり、斎宮(さいぐう)の制度として整ったのは7世紀後半の天武朝から、だからだ。
古代日本において天皇の権力がもっとも高まったのが第40代天武天皇の時代。天武は壬申(じんしん)の乱(672年)で皇位を奪取したが、行軍の途上で伊勢のアマテラスを望拝したことが勝利につながった。そこで伊勢神宮を設け、斎王による祭祀制度を確立したのだ。
世を騒がす次の疫病の記事は、『紀』の仏教伝来当時の起源説話である。
6世紀前半、百済(くだら)の聖明王から第29代欽明天皇の下に仏像や経典が贈られた。
いわゆる「仏教公伝」だが、外来の神の受容を巡っては、崇仏派(蘇我氏)と排仏派(物部氏や中臣氏)の間で激しい争いが起き、結果として疫病が流行したのだ。
天皇自身は受容せず、蘇我稲目に礼拝を任せたところ疫病が発生、多数の民が亡くなった。そこで物部尾輿(おこし)らは天皇の同意を得て、蘇我氏所有の仏像を難波の堀に投げ棄て、建てた伽藍に火をつけて焼失させた。
対立は次の世代も続き、蘇我馬子と物部守屋が争った時にも疫病の惨劇が発生した。
かくして第31代用明天皇の崩御の年(587年)、馬子は厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)らと共に決起し、物部守屋の一族を滅ぼした。崇仏派の全面的な勝利である。
外国の宗教である仏教を受け入れた「祟り」とされる疫病は、現在の天然痘だった(崇神朝の疫病にも天然痘説がある)。
ともあれ、古代の天皇は何よりもまず神を祀る司祭者であったため、国家にとって最重要事の祭祀対象の改変に際しては、(天皇としての資質を問うような)多数の民を巻き込む悲劇(疫病)が付随した、と思われる。
(MasterLu/gettyimages)
同格だった神仏の関係が崩れる
ちなみに田村圓澄『仏教伝来と古代日本』(講談社学術文庫、1986年)によれば、蘇我氏が滅ぼされた645年の大化改新(正しくは乙巳(いっし)の変)の理由の一つは、「天皇家が仏法興隆の主導権を、蘇我氏から奪取することだった」と記述する。
その後、王権神授説(『金光明経』など)で天皇支持を明確にした仏教は、天武朝以降は鎮護国家の国家仏教として普及した。
そして平城京の第45代聖武天皇が大仏造営を発願した時、始祖神(八幡神)を祀る宇佐八幡宮は「天神地祇を率いて成就させる」と託宣した。前掲書によればこの時、それまで同格だった神仏の関係が崩れ、「仏」が「神」より格上の救済者になった、と指摘する。
この説に従うと納得できることがある。
推古・皇極・持統と女性天皇が頻出したために天武・持統朝に伊勢神宮のアマテラスが女性の皇祖神になったと思われるが、なぜ歴代の天皇はただの一人も(明治時代まで)伊勢に参拝しなかったのか、という理由だ。
つまり、天皇家が宮中でタカミムスヒ(高御産日)など始祖神8神を祀っている以上、また神仏習合で大半の神社に神宮寺があり、神より格上の仏が天皇家を守護している以上、伊勢に御座(おわ)す例外的皇祖神に天皇自身が参拝する必要はなかったのだ、と推察される。
3つ目の疫病は、その伊勢のアマテラスが約1200年の眠りを経て再び息を吹き返すきっかけとなったコロリ(コレラ)である。
インドの風土病だったコレラが19世紀初頭から20世紀初頭にかけて猛威をふるったのは、近代化による国際交流の結果だった。その意味では新型コロナの原初型と言える。
安政5(1858)年、長崎に上陸したコレラは大坂・京都を経て江戸に達した。立川昭二『病気の社会史』(NHKブックス、1971年)によると、江戸のみで死者10万余人を数えたという。続いて文久2(1862)年夏にも流行し、この時は江戸だけで7万3000人の死者が出た。
安政のコレラは、その5年前に浦賀に来航したベリー艦隊の一隻ミシシッピー号が改めて持ち込んだもので、安政2年の大地震の被害も重なり、庶民の間に開国への不安や外国人への敵意が生じ、終末観が広まった。
明治天皇が伊勢神宮を参拝
やがて開国、新たに明治時代が始まる。
文明開化を掲げた新政府は、欧米を模倣する一方、「王政復古」の基盤を神武創業に置くことにしたが、神武時代は不明。そこでモデルになったのが天武・持統朝の古代律令制である。
初代神武天皇が大和平定後、鳥見(とみ)山(奈良県桜井市)の皇祖天神(タカミムスヒ?)を祀ったのに倣い、明治2(1869)年明治天皇は史上初めて伊勢神宮に参拝した。
神祇官が復興され、伊勢神宮を頂点とした全国の神社の序列化も進んだ(相前後して神仏分離令に伴う全国規模の廃仏毀釈(きしゃく)が進行)。
江戸時代の「お伊勢参り」は天皇崇拝とは無縁の物見遊山だった。しかもアマテラスを祀る内宮(皇大神宮)より豊受大神を祀る外宮(豊受大神宮)の方が勢力があり、優位だった。
その状況が突然一変したのだ。そして、アマテラス以来の「万世一系の天皇」が統治する「大日本帝国」が誕生したのである。
こう見てくると、折々の疫病の大流行は、日本という国の根幹を揺るがす変化をもたらしてきたと言える。では、今回のコロナ禍がもたらすものは?
象徴天皇制の変更は考えられない。であれば、価値観がひっくり返るのは「グローバル資本主義」か、それとも「自由と民主主義」か?
https://artworks-inter.net/ebook/?p=5175 【中国の疫病が古代日本を襲った 崇神天皇と邪馬台国の興亡】 より
もぎせかチャンネルhttps://youtu.be/1icr-WogIB4感染症の世界史02 中国仏教と日本神道の起源の講義の内容をもとに、私の感想として書いている。
現在(2020/2)、中国では武漢肺炎が猛威を振い、感染者が日本及び世界中に発生、その不気味さに世界中が恐れおののいている状況である。
武漢肺炎
もともと中国は、その国土の大きさと生活習慣で、古代から現在まで疫病の歴史は続いていた。
それは仕方ないのだが、中国の疫病が、日本に移ってきて、古代日本の歴史に大きくかかわっているかもしれないという、推論が今回の話である。
疫病の流行
まず話は中国から始まる。
3世紀に興った晋(王朝)という国がある。
司馬炎が魏の最後の元帝から禅譲を受けて建国した国で、280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。
司馬炎
この時代の疫病についての詳しい解説はネットにはなかったが、
ただ、「統一の5年前に洛陽で疫病が流行した際に司馬炎も重病に倒れた。」
太康5年(284年)以降は天災が相次ぎ、日食もしばしば起きて人心は荒廃した。
という記述がウィキペディアにあった。
この時代に、はやった中国の疫病の猛威はすさまじく、大勢の民衆が死んだという。
そんな社会不安が、異教だった仏教の台頭につながっている。 宗教が必要とされるのは、やはり人心が荒廃した時である。
中国は道教、儒教がメインなのだが、ここに異教である仏教が登場する背景には、戦乱と疫病が背景にあったのである。
実は日本もそうで、朝鮮との交流が増えて、仏教伝来と時を同じくして痘瘡が持ち込まれ、日本最初の疫病大流行となったとある。
これに対抗したのが神道派の物部氏で、渡来系仏教派、曽我氏との対立が起こる。その背景には、朝鮮から持ち込まれた痘瘡(天然痘)が原因だったのだ。
中国の疫病の為、晋(西晋)では人口が極端に減り、このせいで、周りの異民族を呼び込むことになる。五胡十六国時代の始まりである。
西晋
この後、晋(西晋)は分裂して、東晋(とうしん)が江南に建てられることになる。
ここまでが中国の話である。
日本での疫病
この西晋の疫病がはやった時期、年代は定かではないが、3世紀後半ごろに実在したとされている崇神天皇の時代だとされる。
崇神天皇
記録では、この時代、日本も疫病が流行して人口の半ばが失われたとある。
最終的には、疫病は収まったのだが、同じ時代に、中国と日本で疫病がはやって、大勢の人間が死んだことに繋がりはないだろうか。
もぎ先生は、「これは妄想だけど」と断っているが、現在の状況を見れば、あながち偶然とも思えないのだ。
さらに神武東征も、中国の事象の力が玉突きのように朝鮮半島から九州にやって来て、神武天皇が東征したという可能性も述べている。
つまり、ビリヤード(玉突き)のように、疫病は恐れを呼び、人々が移動する事で、バタフライエフェクトのように、神武東征が起きたという事である。
それって考えすぎだと、笑う人もいるけど、現実の今の社会を見ると、大いに信ぴょう性があると思う。
空白の4世紀
3世紀は、崇神天皇の話とは別に、邪馬台国も現存していた。
中国の『魏志倭人伝』から推測すると、卑弥呼は242年~248年に死んだとされている。
邪馬台国は、中国の魏・晋との外交が盛んで、「魏志倭人伝」には、帯方郡(朝鮮半島の中西部に置かれた地方拠点、植民地)を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。
3世紀半ばの壹與の朝貢(266年)を最後に、倭の記述はなくなり、次に記録が出てくるのは、413年の倭の五王の王讃による朝貢である。
つまり、150年間、倭の記録はなくなっている。「空白の4世紀」と言われるゆえんである。
先述した、中国の記録を付け足して再度記する。
222年に魏は3方向から呉を攻め、呉を苦しめたが、疫病が流行したため退却した。
統一の5年前(275年)に洛陽で疫病が流行した際に司馬炎も重病に倒れた。
太康5年(284年)以降は天災が相次ぎ、日食もしばしば起きて人心は荒廃した。
296年漢中一帯で大飢饉が起き、中国各地で河川が氾濫、疫病が流行し、農民は土地を捨て流民化した。
これらの事が中国でおこっている。そして、邪馬台国はかなり密度に、魏と西晋に密着をしている。
日本では、
三世紀後半、崇神天皇の時代に疫病が流行して人口の半ばが失われた。(日本書紀)
240年から249年に卑弥呼死亡。(他説はあるがほぼこの年代)これ以降、男王
が治めるが、駄目だったようで、266年より前に台与が邪馬台国の女王になった。(中国王朝の記録)
である。
これは私の妄想だが、中国でおこった疫病が、朝鮮半島経由で日本にやって来たこともありうると思った。
さらに、「魏志倭人伝」の邪馬台国は、中国の魏・晋との外交が盛んだったので、疫病を招き入れた可能性もある。
そのせいで、卑弥呼は台与と交代をしなければならなかった。
さらに、邪馬台国連合はこの疫病のせいで分解したのかもしれないとも思う。
この古代の疫病については歴史の解説には載っていなく、病気の正体も不明なので、憶測するしかないのだが、東洋史に与えた影響は間違いないだろう。
渡来人が持ち込んだ結核
さらに日本でも、古代の病気の事がわかっている。
肺結核
縄文時代の遺跡出土の人骨からは、結核痕跡が確認されていないので、現在のところ、日本列島における結核はアジア大陸から渡来した人びとによってもたらされたものと考えられている。
中国大陸での戦乱で、難民が日本にやって来たのが、弥生人だと私は思っているのだが、「5000年前の初期稲作農耕民は結核症を患っていた」という表題の鳥取大学医学部の論文もある。
また、加藤茂孝氏の論文
弥生時代の時代の韓国・日本の遺跡の人骨に見られる結核の広がりは、中国の春秋・戦国時代(BC770 ~BC221 年)の混乱を避けて大量の難民が南(ベトナム)北(朝鮮半島)に移動した時期と一致する。つまり、この時代に東アジアで激しい人口移動があったことの反映であると思われる。第3回「結核」-化石人骨から国民病、そして未だに
上記で書かれている通り、弥生人たちは、病気を持ってきたのである。
日本の縄文人たちは、その病気を恐れ、不用意に接近しなかった。だから争いは起こらなかったのだろう。
影響を受ける日本
日本の様々な事が、渡来人が持ち込んだ病気に関係しているという、発想は重要である。
つまり、当たり前だが世界はつながっているのだ。
今回の武漢肺炎も、過去の事と照らし合わせれば、今後の日本に大きくかかわってくる問題だと思う。
今回の病気の結果がまだ不明なので、不用意に結論は出せないのだが、災い転じて福となすを期待したい。
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