https://ara-suji.com/novel/2555/ 【「二百十日」のネタバレ&あらすじと結末を徹底解説|夏目漱石】 より
二百十日の主要登場人物
圭(けい)
主人公。実家はお寺の前に店を構える豆腐屋さん。市民階級の出身のために華族や権力者が嫌い。
碌(ろく)
圭の友人。比較的に裕福な家庭で生まれ育つ。旅行費用は圭とワリカン。
二百十日 の簡単なあらすじ
圭と碌が東京からはるばる阿蘇の温泉地へとたどり着いたのは、9月1日の夕方のことです。宿屋で温泉に入って夕食を済ませてたっぷりと休息を取った次の日には、阿蘇山への登山にチャレンジします。しかしその日は二百十日という1年で最も風が強く天候が荒れる日のために、ふたりは予想外のトラブルへと巻き込まれていくのでした。
二百十日 の起承転結
【起】二百十日 のあらすじ①
熱き豆腐屋の息子
東京で生まれ育った圭と、彼の友人である碌と一緒に熊本県阿蘇郡まで旅行に来ていました。
ふたりが宿泊している温泉宿の近くには鍛冶屋があるために、先ほどから馬具を打つ音ばかりが鳴り響いています。
その音は圭の実家である小さな豆腐屋から1丁(約100メートル)ほど行った先にある、お寺から毎朝聞こえてくる鐘の音にそっくりです。
豆腐屋出身で血気盛んな圭は、今の時代にやたらと威張っているお金持ちや華族のことが気に入りません。
優れた知性と人並み外れた向上心を持ちながらも豆腐屋の息子は豆腐屋に、魚屋の息子は魚屋にしかなることができないからです。
次第に議論に熱くなる圭に気を遣って、碌は彼を大浴場まで連れていきます。
湯船の端へ肘をかけてガラス越しに外を眺めている圭の肉体は、いかにも豆腐屋らしい筋肉質です。
窓の外は日が暮れ始めていて、その先には阿曽山がどっしりとそびえ立っていました。
明日は6時に起床して、12時過ぎにはあの山に挑むつもりです。
【承】二百十日 のあらすじ②
卵とビールで腹ごしらえしつつ明日に備える
湯上りに宿の食事をごちそうになりましたが、湯葉やシイタケに芋などのあっさりしたメニューのために大食漢の碌からするといまいち物足りません。
若い女性の従業員に半熟卵を注文しましたが、肥後の方言が強いためなのかなかなか話が通じません。
ようやく彼女が持ってきたのは固ゆで卵が2個に生卵に2個で、断ることもできずに食べる羽目になりました。
ビールはないと言いつつも恵比寿ビールが運ばれてきたので、圭と碌はふたりで乾杯をします。
明日の朝食は8時で、宿屋を出た後に11時に阿蘇神社へ参詣する予定です。
従業員に道のりを詳しく尋ねてみると、宿から3里(約11キロメートル)行くとお宮があって山の上まではさらに2里(約7キロメートル)はかかることが分かりました。
「よな」と呼ばれる火山灰が先ほどから降ってきたために、明日の天気は荒れ模様になるかもしれません。
縁側からは阿曽山の火口から噴き出すマグマが、何とも不気味に光輝いています。
【転】二百十日 のあらすじ③
志半ばで山を降りる
翌日は立春から数えて二百十日目に当たり、1年を通して最も台風が多い日とも言われていました。
雑木林の間を歩いていきますが、道幅は3尺(約90)センチもないためにふたりで並んで歩く訳にはいきません。
阿蘇の社で無事を祈願してから30分も経過しないうちに、碌は圭の姿を見失ってしまいます。
朝から怪しかった空からはついに雨が落ちてきて、風はますます強まっている一方です。
無造作にハンカチで顔を拭いてみると、雨に灰が混じっているためかたちまち真っ黒になってしまいました。
ようやく林を抜けた先に広がる広々とした草原で、碌と圭は合流します。
その向こうに待ち受けているのは、ふたりを威嚇するかのように噴火口から立ち昇るけむりです。
圭は碌の様子がおかしいことに気がついて、噴火口の手前で立ち止まりました。
碌の足には一面に豆ができて腫れ上がっているために、これ以上先に進むことは無理でしょう。
登山を諦めたふたりは、辺りが暗くなる前に何とか宿まで引き返します。
【結】二百十日 のあらすじ④
圭と碌の賭け
吸い殻に米粒を混ぜた自家製の膏薬を圭が塗ってくれたために、碌の足にできた豆の痛みは少しずつ和らいでいきました。
圭と碌が着ていた着物は火山灰が付着して真っ黒になっていましたが、宿のおかみが冷水で洗い流してくれます。
次の日には嵐も止んですっかり天気も良くなり、懲りない碌は再び阿蘇山に登るつもりです。
昨日のことで疲れ果てている圭は早く馬車に乗って熊本に行きたいために、ふたりの意見は真っ向から対立してしまいました。
そこで碌は手をたたいて宿の従業員を呼んで、最初に入ってくるのが御者か主人か賭けをします。
御者であれば碌の言う通りに山に登る、主人であれば圭の言う通りに熊本に向かう。
入ってきたのは単なる雇われ人で、御者でも碌でもありません。
ふたりはお互いに歩み寄って、今回は熊本に帰って次回に阿蘇に再チャレンジすることにします。
ふたりのはるか頭上では、二百十一日目の阿蘇山が大空へ煙を吐き出しているのでした。
二百十日 を読んだ読書感想
圭と碌の息の合ったコンビネーションと、とぼけた味わいの会話の応酬が心地よかったです。
半熟卵のオーダーが全く通じないために、生卵と固ゆでの卵を食べるシーンには笑わされます。
「吾輩は猫である」の苦沙弥とそのお客さんとの間で延々と繰り返される、無駄話にもつながるものがありました。
一部の特権階級が権力を握っていた、明治時代の社会制度への痛烈なメッセージも込められていて考えさせられます。
大自然のど真ん中に投げ出された時の無力さと、いつの時代にも変わることのない阿蘇山の雄大なシルエットとのコントラストが心に残りました。
http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0770.htm 【二百十日】 より
今年も台風の襲来する季節となってきました。
波立つ海 現在では気象学が発達し観測技術も高度に発展していることから台風の接近の時期はかなり正確に予測できるようになり、このため台風による被害も昔に比べれば遙かに少なくなってきてはいますが、人工衛星や高層の雲のレーダー映像などを活用できなかった昔は秋に訪れる台風は恐ろしい存在でした。
台風が来襲する時期は、日本にとっては最重要な農作物である米の生産においてもその収穫時期に当たり、台風が稲の前に来るか後に来るかでその年1年の努力が水泡に帰すことすらあるわけですから気が気ではなかったでしょう。また、漁をする人たちにとっても海上で嵐に遭遇すれば当に生死に関わるのですから、台風の来る日を事前に知ることが大変重要でした。
こうして「嵐の来る日」として暦に載るようになったのが「二百十日」です。二百十日とは立春の日から数えて210日目の日だということから名付けられたものです。同じような名前の暦日としては「八十八夜」や「二百二十日」があります。
二百十日を最初に掲載した官暦は貞享暦。1684年のものです。貞享暦の編纂を行った渋川春海が釣り好きで、たびたび出かけた品川の漁師から教えられたのがきっかけだと言われていますが、それより以前に出された民間の暦、伊勢暦(1656年)に既に記載されていたとそうですので、実用性を考えてこれを暦の雑節として取り入れたものと考えられます。
二百十日は立春の日からの日数ですので、現在の暦であれば9/1(立春が2/4の場合)頃で変化しません。ただ旧暦の時代は毎年月日が変化してしまうため暦注として記載して注意をしていたものです。
三大厄日
嵐の来襲する確率の高い日(荒日:あれび)として、八朔・二百十日・二百二十日の3日は、三大厄日として怖れられました。ちなみに八朔は旧暦の八月一日(朔日)のことです。
風祭り
農作物を風害から守るため、神に祈る祭り。二百十日前後に行われることが多い。
獅子舞によって風神を追い払う行事や、家の棟木の両端に風切り鎌を外向きにたてる習俗も中部地方・北陸地方などに残っています。これも風神を追い払うための行事。
野分のあと
●野分(のわき・のわけ)
二百十日から二百二十日頃に吹く秋の強風を野分と呼びます。
「野分」は野の草を分けて吹きすさぶ風ということから名付けられたもの。台風を含む秋の頃の強風の一般的な呼び名。ただ現在は雨を伴わない強風に限って呼ぶことが増えているようです。
野分の過ぎた後には吹き倒された稲や草が風の痕を留めています。
俳句では秋の季語。
吹き飛ばす石は浅間の野分かな(芭蕉)
我が声の吹き戻さるる野分かな(内藤雪鳴)
●風の盆
越中八尾の風の盆、あるいは「おわら風の盆」として知られる風祭。風神を踊りにあわせて送り出してしまう祭りといわれ、300年以上の歴史があるそうです(富山県婦負郡八尾町、9/1~3)。
余 談
台風の思い出
小さな頃から嵐の日は何か特別なことの起こる日のような気がして、うきうきしていた。
台風が近づき、田圃の稲穂を風が吹き分ける「野分け」の様子を見るのが好きだった。農家の人の苦労なんて考えもしなかった子供の頃。
大人になった今でも、やはり風の音を聞くと何かわくわくしてしまう。
http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0765.htm 【八十八夜】
夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは茶摘みじゃないか
茜襷に菅の笠
不思議によく覚えている唱歌である。
てっきり曲名を「八十八夜」だと思っていたのは私だけではないだろう(正しくは「茶摘」である)。それだけ八十八夜という言葉の印象が強烈だ。
八十八夜は、暦の上では「雑節」と言われるものの一つだ。
立春の日から数えて88日目の日。
立春は 2/4頃であるから、指折り数えると・・・大変だけど閏年だと5/1、平年だと5/2頃がこれに当たる(まれに5/3のことも)。
(指折り数えるのが大変な場合は、「日付の電卓」を使うという手もある。宣伝だった)
暦の上にある、二十四節気や七十二候は中国生まれであるが、八十八夜は日本生まれ。中国の暦には無いものであったが、日本での実生活上の必要性から記載されるようになった日本生まれの言葉である。
日本の正式な暦に八十八夜が記載されるようになったのは、渋川春海による貞享の改暦(1684年)からだといわれる。もっともすでに伊勢暦などにはその記載が有ったというので、八十八夜という言葉はそれ以前から存在していたことがわかる。
八十八夜の日の時期に摘まれた茶葉から作られた「茶」が特に上等で美味しいと言われる。いわば茶の旬である。茶摘みも盛んに行われ、その情景が歌に唱われたわけだ。
●季節点としての八十八夜の役割
「八十八夜の別れ霜」という言葉がある。
八十八夜が暦に書かれるようになったのは、この言葉に表される季節の移り変わりの「目印」(こういう目印を「季節点」というそうだ)としての役割からである。
農家にとって遅霜は恐ろしい。育ち始めた作物の若い芽、若い葉に霜が降りて作物がだめになってしまってはそれまでの苦労、その後の1年の収穫が台無しである。
春も終盤となって、もう大丈夫だろうと油断していると危ないよと言った一種の警告。見方を変えると、八十八夜を過ぎれば、そろそろ霜の心配をしなくてもよい時期だよと言うことでもあるか。
遅霜の月日
(CD-ROM版理科年表2000)
場所 平均
月日 最遅記録 統計
開始年
京 都 4/09 1928/5/19 1882
大 阪 3/19 1940/5/06 1911
名古屋 3/29 1902/5/13 1892
東 京 3/13 1926/5/16 1877
那 覇 **** ********* 1961
鹿児島 3/11 1929/4/22 1916
福 岡 3/21 1913/5/11 1891
高 知 3/26 1947/4/23 1886
静 岡 3/29 1956/4/30 1877
仙 台 4/18 1928/5/20 1927
札 幌 4/25 1908/6/28 1886
このおそれられた遅霜であるが、理科年表などで記録を調べてみると、左の表のようになる。
遅霜の平均の時期を見ると3月末ごろとなるが、もっとも遅い記録などを見ると、八十八夜以降の日付も多い。まあこのようなまさに「記録的」な遅霜は別とも言えるだろうから、そう考えれば八十八夜頃までは霜に注意しようと言う注意は妥当なところか。
ここでは霜との関係で取り上げたが、八十八夜は籾蒔きの時期や、苗の生育の目安となる時期としても重要な農業上の季節点とされた。
ちなみにこの八十八夜の3日後は、立夏。暦の上ではもう夏。
「夏も近づく八十八夜」 なのである。
●「季節点」をなぜ立春の日付から数えるのか?
季節の移り変わりの目安として用いられる印を季節点というそうだ。
今回話題とした八十八夜もその一つ。
二十四節気や他の雑節もまた暦の上に書かれた季節点である。
「八十八夜は、立春から数えて八十八日目の日」
というのは判る。
「八十八夜の別れ霜」
も前の解説で示したとおり、遅霜の警戒時期の終わりを示す言葉としては妥当だということも判る。
さらに、八十八夜が現在の5/1~5/3に当たるというのも判る。
ならば、
「五月朔日(ついたち)の別れ霜」
と言ったってよさそうに思うし、その方が覚えやすい気がする。なぜわざわざ「立春から数えた日数」で季節点を示す必要があったのだろうか?
八十八夜以外にも、立春から数えた日数で季節点として「二百十日」「二百二十日」などがあることから、八十八夜だけが特別なわけではない。
でも立春から八十八日目が何月何日になるかを瞬時に計算できる人は少ないと思うから、「覚えやすい」という理由でこういう呼び名が生まれたとは思えない。
と八十八夜という言葉の成立した訳を考えてゆくと、「旧暦は季節によくあった暦だ」という世間の常識(?)が間違っていることがわかってくる。
新暦と旧暦で2017から 5年分の八十八夜の日付を示してみると
八十八夜の新暦と旧暦の日付
西暦年 新暦 旧暦
2017 5/2 4/07
2018 5/2 3/17
2019 5/2 3/28
2020 5/1 4/09
2021 5/2 3/21
新暦の日付は、ほとんど変わらないのに旧暦の日付は結構ずれるのが判る。新暦であれば先に書いたとおり、八十八夜の代わりに、「五月朔日の別れ霜」とも言えるが、旧暦だと日付に固定して言うことが出来ない。
季節の移り変わりは、主として「太陽の動き」に関係しますから、どうしたって「太陽暦」である新暦の方がよくあった暦なのだ。
旧暦では、この「季節の移り変わり」を日付によって表すことが難しいので、八十八夜などの太陽の動きに連動する季節点を暦上に書き込むことでこれを補ったのだ。
そういえば、江戸時代の歳時記などを読むと、
「桜は、立春から五十四、五日後に咲き始める」
といった記述を目にすることがありますから、作物に限らず動植物の状況を示すのに立春(太陽の位置で決まる)からの日数を目安にすることは一般的なことだったようだ。
後日追記 2008/04/29
「なぜ八十八夜なのか」について、中山和久様より次のようなお便りを頂きました。
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ご存知の通り、月の満ち欠けは約29.530589日周期ですから、立春の月の形を覚えておけば、3回目の同じ月の夜が88.591767夜となりますので、非常にカウントしやすかったのだと思います。
小生も、なぜ「立夏の別れ霜」ではいけなかったのか不思議でしたが、あく
までも八十八日ではなく八十八夜なんですね。
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傾聴すべきご意見かと思います。
旧暦時代ですから、同じくらいの月が見えると言うことは、ほぼ同じ日付けということにもなります。試しに2007,2008,2009年の立春と八十八夜の日の月日を並べてみると、
2007年 旧暦12/17と 3/16 (新暦 2/4と 5/2)
2008年 旧暦12/28と 3/26 (新暦 2/4と 5/1)
2009年 旧暦 1/10と 4/08 (新暦 2/4と 5/2)
※「立春日付と八十八夜の日付」の形で書きました。
日付だけ見ると1ないし2日ずれますが、これは88.59・・の端数分と、八十八夜が立春を0ではなくて、1と数え始めることからこうなります。
余 談
茶摘みは夜?
冒頭に書いた唱歌茶摘みから、「八十八夜」と「茶摘」の関係が特に気になったのだろう、次のような質問をされたことがある。
「八十八夜の茶摘みとは、夜に行われていたんでしょうか?」
歌の最後に「茜襷に菅の笠」と有る。夜では月夜だって襷がけだとか菅の笠だとか細かなところは見分けにくいだろうし、ましてや襷の色までわかるはずがない。ということで、情景は、もちろん昼の情景。
それなのに、「八十八夜」とはこれいかに?
この場合の「夜」は「日」と同じ意味で使われている。「八十八夜」は「八十八日」と同義。
古代には、1日の始まりを日没としたと言われるが、日にちを数えるのに夜をもってするのはこの辺の名残かもしれないな。
八十八夜の別れ霜は、当日の朝? それとも夜?
八十八夜の別れ霜は、その前日夜から当日の朝にかけての霜か、
それとも、当日夜から翌日朝にかけての霜か
と尋ねられたことがある。
元々、「遅霜に注意しましょう」という目安だから、1日違うと間違いといった性質のものではないのだが、それはそれとしてここで使われる「夜」の意味に絞って考えれば、
「当日の夜から、翌日の朝にかけて」
が正しいと思う。
先に書いたとおりここでの「夜」は「日」と同義で使われている「夜」だからだ。
例として思い浮かぶものは、「十五夜の月」。
ご存じの通りこの十五夜の月は旧暦の十五日の月。
この時期の月は、夕方に昇って朝方に沈むので、旧暦十四日に昇った月も十五日の朝に見ることが出来るが、
次の十五夜には、月見でもしましょう
と言ったときに、十四日の夜から十五日の朝まで見えている月を眺めることだと考える人はいないだろう。あくまでも「十五日の夜に昇る月」が月見の対象だ。八十八夜の別れ霜もこれと同じことだ。
野良の「茶の木」
記事に使った写真の「茶」ですが、自宅の裏山に生えているお茶の木。
人間が植えたものだろうが、手入れされなくなって少なくとも十数年。野生化して元気で生きているお茶の木である。
野生というか、野良の茶の木かな?
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