https://genshobo.com/archives/6148 【漱石の俳句を読む】 前山 光則 より
年に2回、寒い時季に地元図書館の文学講座の講師を務めている。今年度は「漱石と熊本」「山頭火と蓮田善明」というテーマでやろうと考えており、まだ先のことで慌てる必要はないが、折りに触れて準備しておきたい。それで、まずはこの1週間、全集を借りてきて夏目漱石の熊本時代の俳句を読んでみた。この当時の漱石は、第五高等学校の教師をしながら俳句を盛んに作っているからである。
明治29年の4月に四国松山から転居して来て、やがて夏。その頃の句が「すゞしさや裏は鉦うつ光琳寺」である。翌年の年末から教師仲間の山川信次郎と共に有明海辺の小天(おあま)温泉へ旅をし、新年を迎える。小天で詠んだ句の一つが「温泉や水滑かに去年(こぞ)の垢」だ。この時の旅が後に名作「草枕」に結実する。「安々と海鼠の如き子を生めり」は明治32年5月に長女・筆子が生まれた時の句。「二百十日」の題材を得たのが同年8月末から9月上旬にかけての阿蘇への旅で、内牧温泉で「雪隠の窓から見るや秋の山」「秋の川真白な石を拾ひけり」と詠むし、阿蘇神社に詣でて「朝寒み白木の宮に詣でけり」の句を残している。皆して阿蘇山に登ったものの道に迷ってしまい、大変な目に遭う。その折りの句が「行けど萩行けど薄(すすき)の原広し」、いかにも難渋したろうことが窺える。
漱石の熊本時代の作はおよそ900余に上り、かなり熱心だったし、詠みっぷりも立派に専門俳人級である。むろん、「なんのその南瓜(かぼちゃ)の花も咲けばこそ」「長けれど何の糸瓜(へちま)とさがりけり」「真夜中は淋しかろうに御月様」と戯けたり、小林一茶の向こうを張ったのか「凩のまがりくねつて響きけり」、このような句もひねっているから、漱石にとって俳句はストレス解消、気楽な言葉遊びだったろう。「文人俳句」の部類に入れられてもしかたないところであるが、しかしそれでも人物のスケールの大きさは自ずと反映される。
木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙を守るべく
菫程な小さき人に生れたし
この2句などは、作者本人にしっかりした人生哲学がなくては湧いて出ないはずだ。
それから、個人的には「秋の暮一人旅とて嫌はるゝ」という句に惹かれた。この句は明治30年作である。どこで詠んだか分からないが、漱石の生きていた頃もそうだったのか、と深く同感するわけである。わたしなども6年前に若山牧水の足跡を辿って1人で群馬県の山間部を10日ほど旅した折り、旅館に宿泊を申し込んで次々に拒絶され、困ってしまった経験がある。どうにか泊めてくれても、疑り深い視線にさらされる。ビジネスホテルではそんな目に遭わなくて済むが、田舎の旅館ではなぜか一人旅は「嫌はるゝ」のである。
ともあれ900余句、みっちり読めた。
https://kumamoto.guide/look/terakoya/155.html 【「夏目漱石「二百十日」の世界」】 より 講師/熊本日日新聞社編集委員 井上智重 氏
夏目漱石が「二百十日」を発表して100年を迎える今年、舞台となった阿蘇をはじめ、熊本の各地であらためて漱石と作品世界が関心を呼んでいます。そこから意外な側面や新たな発見が生まれることで、漱石に対する愛情、ふるさとに寄せる愛着がさらに深まっています。そしてふるさとのこれからの100年を考えるきっかけになれば、と阿蘇に記者として4年間勤務された井上さんにご講話をいただきました。
二百十日の不思議 コースについての謎?
夏目漱石の小説「二百十日」は、「草枕」に比べると短く、読めばわかるという感じがあり、これまで研究者はあまり詳しく調べていませんでした。しかし、実は不思議でわからないことがたくさんあります。 まず、戸下温泉に漱石は五高の同僚山川信次郎と泊まっていますが、その宿はどこか。長野一誠という人物がいます。長野は阿蘇南郷地方の産業・地域開発に努め、代議士にもなります。五高ができる時には多額の寄付をしています。 二人はたぶん、長野を頼って戸下の別邸に泊まったものと思われます。長野は国権党です。「草枕」の舞台となっている前田家別邸の当主、前田案山子も国権党です。山川あっての「草枕」の前田ですし、また「二百十日」の旅行の段取りもすべて山川が考えたと見て間違いありません。 熊本時代、漱石は多くの俳句を残しています。後年作ることになる小説は、構成しなおすなど後から「つくるもの」ですが、俳句はその場その場でその時のことを素直に詠んでいます。ですから、俳句を見ていけば大体歩いた道筋や日にちがわかります。 それでは、なぜ漱石と山川はあのコースを通ったのでしょう? 戸下か栃木、地獄を通って阿蘇山上に登るのが距離的にも近いし、普通です。国木田独歩も五足の靴のメンバーもそうでした。ところが、漱石たちはわざわざ内牧に回っています。一高教授に転出する山川信次郎にとってゆっくりする時間的なゆとりはなかったはずです。それにもかかわらず、なぜ回り道をしたのか?答えは簡単です。実はそのちょっと前に集中豪雨があり、登山道が壊れていて戸下からは登れなかったからです。
武蔵と漱石の接点
「顕彰本・宮本武蔵」という本があります。これが吉川英治をはじめとする「宮本武蔵」のネタ本になっているのですが、その刊行を企画したのが先の長野です。また武蔵の「五輪書」写本は、実はあの草枕の前田家にありました。その後事情があって細川家(永青文庫)に移っていきます。そして、漱石も武蔵に関心を持っていました。それは今日のような吉川英治の描く武蔵像とは違うもので、草枕の世界と宮本武蔵の世界は近いものがあると思います。
阿蘇山に登った日はいつ?
「二百十日」の阿蘇神社は山上神社のイメージが強いようです。当時、阿蘇神社前は門前町のようで、娼婦もいて、客引きをしていました。漱石はそんなことは書いていないし、もし夜にそこを歩いていれば袖を引っ張られたでしょう。漱石は内牧から宮地まで馬車で通ったと思います。そして阿蘇神社境内でぽつりと雨…。漱石はそこで三句詠んでいます。それでは阿蘇山に登った日はいつかという問題になります。 阿蘇神社の当時の社務所日誌を読んで見ますと、明治32(1899)年8月30・31日は「美晴」と書いてあります。9月1日は天候の記述がありません。月初祭で忙しかったのでしょう。2日は「強風、午後美晴」となっています。つまり9月1日から2日にかけて前線が通ったのでしょう。それと俳句とを照らし合わせると漱石が阿蘇山に登ったのは9月1日と断定して間違いないと思います。
なぜ書いたのか?
「二百十日」は何かわびしく、寒い感じがします。漱石はなにか心細さを感じていたのではないでしょうか。冒頭で寺の鉦、鍛冶屋の音を聴きますが、明治はじめの江戸人の感覚を素直に表しているのだと思います。一方で、ビール=恵比寿、さらに半熟卵というのは西洋文明的です。これはパンに半熟卵という、ロンドン滞在のときの漱石の習慣でしょう。 「坊ちゃん」は小説の舞台が松山であることから、松山の物語とされていますが、内容は五高の人間関係だと思います。山嵐が黒本稼堂、うらなりが浅井栄煕、そして坊ちゃんは漱石かというと、これはそうではなくて漱石は赤シャツです。漱石は自分の中にある西洋文明のいやなところもちゃんと認識し受け止めている、そういう偉さが漱石にはありました。そして、客観的に自分を見つめるというのが近代的な文学の手法です。そういう意味で言えば、「草枕」と「二百十日」は別々の物語ではなく、実は熊本を舞台にしたひとつの物語であるということもいえると思います。 「草枕」、「二百十日」の100周年を迎えるこの機会に二つの作品世界を読み、あなたが100年後の漱石になってゆっくりその舞台を訪ねてみるのも一興でしょう。
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