自分を生きる

Facebook・ごとう 孝二さん投稿記事  「自分を生きる純度。」

自分を生きる純度。その純度が高ければ高いほど人に与える影響は大きくなる。

そして類は友を呼ぶ。同じ純度の高さの人間同士が惹きつけ合う。自分を押し殺して我慢して生きるなら、同じく他人に我慢を押し付ける人たちに囲まれる。だから自分の心に対して嘘まみれ、自分に対して否定ばかり。自分の存在ないがしろ。

そんな純度で生きてると、目は死んだ魚のようになります。苦しくて仕方なくなります。

他人からも、自分が自分を扱ってるのと同じように嘘をつかれるし否定されるしないがしろにされます。

自分の心を大切に、食べたいものを食べる。やりたいことをやる、感じる感情を誰よりも大切に扱ってあげる。最悪だろうとなんだろうと自分の一番の味方でいる。人の批判より自分の好きなことを信じる。そんな純度で生きてると、目やオーラがキラキラと輝き出します。

わたし達の本質は”光の存在”だからね。純度が高くなる=本質に戻るってことだから光の存在に。内側のその光が外に漏れ出すって感じ細胞が蘇ります、だから若返る。

他人からも、自分が自分を扱ってるのと同じようにどんな自分でも受け入れてもらえます。

肯定してもらえます。味方でいてもらえます。

どっちの生き方だって別に良い。宇宙は優しいから”あなた”の意見を一番に聞いてくれるから。どっちの世界で生きたいのか。自分で選択すること。

勘の良い人はもう気づいているかも知れないけど、この2つの世界が今大きく2極化してきてます。

自分を否定しないがしろするものは豊かさも恩恵も与えられていることに気づかず、なんなら人からも奪われる。

自分の心を大切に、自分の存在全てを受け入れるものは豊かさ恩恵これでもかというほど与えられるし、人にもそれを与えることができる。

あまり過激なことは書かない主義ですが、本当にもうそろそろ覚悟決めたほうが良いです

自分の存在自分で受け入れない限り誰もあなたのこと受け入れてくれないって 自分の存在自分で認めない限り誰もあなたのこと認めてくれないって 自分で自分を雑に扱うから人から雑な扱い受けるんだって 自分で自分を傷つけ続けるからいつまでたっても傷だらけなんだって 自分へ与えたものが世界を通して自分へ還って来てるだけなんだって

良い加減、他人や世間に惑わされて 他人のモノサシで自分の価値や評価を決めるのをやめましょうよ。自分しかいないんだって。神様なんて神社じゃなくて一番の神様はあなたの心に宿ってるんだって。

目、醒まして!

今、あなたは自分をどれくらい生きてますか?命を使ってますか?”自分は今、純度が50%ぐらいかな”もしそんな半分眠った状態でも”幸せ”を感じてるなら.....本気で自分を生きたらどうなると思います?目をしっかり見開いてこの世界を感じ始めたらどうなると思います?

どれだけ至福を感じられることか。どれだけ豊かさ与えられるとことか。そんなあなたの可能性の伸び代って....ハンパないって!

happyオフィシャルブログより。


Facebook・船木 威徳さん投稿記事 【 できれば、長く生き延びたい 】

目に見えるやお金、家や 身の回りの高級品はもちろん、土地や、ファンド、株もそう、

家族、友人も、同僚もそうです。

なにひとつ、だれひとり、私たちにあたりまえ、当然の権利があって、「所有している」わけなどない。すべては、同じ時間や空間を共にできた大事な縁があるだけ。

勘違いしてはいけない。この地上にいることを許された、何年、何十年かの間、ギフトとして身の回りにいただいているにすぎない。

それを当然だと思うから、「すべて自分のモノ」だと勘違いするから 自分の力で手に入れたのだと考えるから 失うことがとんでもなく怖くなるだけ。

つまり執着するから、不安も強くなりますますモノや人を周りに置いておきたくなる。

一部の人たちは、目に見える「モノ」ではない「知識」が大事だと言う。

脳みそのなかの知識はだれにも奪われないから。

どんな不況、恐慌にあっても、ゼロからお金をはじめとする何かを生み出すのは「知識」だから・・・と、言う。それも、一理あると思う。私も「知識」があれば、どんな時代にあっても、なんとかやってゆけると思っていた。しかし、いまは、知識を軽んじるわけではないけれど、「知識だけでは充分ではない」と思う。もしかしたら、それも単純な勘違いだとさえ思う。

いまは、ひとつのできごとについて、あまりにも多くの情報が容易に、手に入りすぎる。

そして「情報=知識」だと考え、情報を集めれば、これからどうすればいいか、どのように生きてゆけばいいかが見えてくると訴える人も多いように感じる。

でも、ほんとうにそうだろうか?

 コロナのマスクの要否について、まったく正反対の結論を言う科学論文さえたくさんある。まったく正反対の考え、情報をやまほど集めて、そこにどんな知識を見いだしたらいいのだろう?そもそも、多くの人が言う「科学」がどれほどの「真実」を見いだしているのだろう?

いまほど、「自分で考え、自分の考えを柔軟に変えてゆく」ことを求められる時代はなかったのかも知れない。情報、知識などいくら集めても、そこにはなんの安心も得られない。

自分で考える。考え続ける。自分の心の深いところで、違和感なく受け入れられるものかどうかを何度も吟味する。自分で考えても、どこかしっくりこない、自分の心が受け入れかねる考えなら、他人の意見などいったん置いておき、自分がもっとも落ち着ける考えが残るまで考えるべきだと思う。そう、最後は、自分が納得できるかどうかだ。

結局は、だれがどう言ったところで、その人は、私たちの選択になんの責任もない。

炎天下、周りの「みんな」に合わせてマスクをして、熱中症で倒れたところでだれも、責任はとらないし、とれるわけがない。私は、都知事選の、多くの立候補者の訴えを聴いていて、冷静にその内容を考えるだけで私は、空恐ろしい気持ちになってしまう。

どのみち、この世に、純粋な意味で「私のもの」などなにひとつない。愛着は持っても、執着は少ない方がいい。

ただ、ひとつだけ、手放したくないもの、私が絶対に手放すべきではないと考えるものこそ自分の『思考』と、それによって作られた『信念』だ。

私は、小さな時から、自分の親をはじめ、多くの大人が言うことに大した意味は感じてこなかったし、残念ながら、暴力をもって脅されても、自分の考えを変えることはしなかった。

小学生のころから、タダひとりの大人にも、私の考えていることを聴いてもらったことはないし当然、自分の考えは話さなくなってしまった。

相手に言い返すなどバカバカしい。自分にとって、何の意味があるのだろうかと思う。

生意気だったのだろうと思うけれど子どもの時から、なんとなく感じていたのは

親でさえ、私の人生になんの責任も取れないということ。

だから、自分の人生で、おそらく「自分のもの」である自分の思考や信念を、貯金や知識よりも大事にしなくてはならないと思う。

社会は、特定の人々に意図されて、私たちに考えることをやめさせ特定の主義や方針を巧妙に求めてきている。もちろんそこには、絶対に偶然などない。はっきり言うけれど、戦争も不況も、病気の流行も偶然起きているわけではない。私は、この問題だらけの世界、欺瞞や搾取、分断と争いに満ちている社会をそれでもすばらしいと感じるし、生まれてきてよかったと日々感じている。1日でも長く、この地上の生活を楽しんで笑顔で過ごし、去ってゆきたいと思う。他のだれにとっても、私の人生にはほとんどなんの意味もないだろうし、私の人生には、私しか責任は取れない。

私がそれを自分で楽しもうが、不安におびえて過ごそうがすべては私次第で、だからこそ人生は面白い。

そうは言っても、自分が楽しいだけでは、もったいない。私がひとりよがりの幸せを感じるだけではつまらない。私がこの世に生まれてきた意味、わずかでもこの世界に価値をもたらし、それによって笑顔になれる人が生まれる喜びも味わって死にたい。ただ、それだけ。

そして、できれば、生きられるだけ生き延びたい。

だから、私は決めている。自分が正しいと信じることを自分の考えを否定されることは一向構わないけれど(何十年も前から、さんざん否定されてきて、そんな他者の意見など痛くもかゆくもない)それを「手放すよう強要されても」いっさい従うつもりはない。

その相手が、抗いようのない権力を持っていてこれまでの歴史にあっても、ありふれたやり方で力のある者が装置として作るところの「法」によって信念を変えるよう強いられても絶対に従わない。たとえ、そのために自分の命が奪われても。 

もちろん、正直に言うと、私も長く生き延びたい。それでも、こんなことを改めて考えなくてはならない「そんな」世の中になってゆく不気味さを日々感じている。

 ~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり


一指李承憲@ILCHIjp

どんなときでも自己卑下は禁物です。自分を責めたら再スタートするエネルギーを出せません。自分の人生を否定的に評価すると自分のことが嫌いになり、人や世の中にも固く扉を閉ざしてしまいます。これまでの人生のストーリーを淡々と眺めて整理し、自らを力づける希望と情熱を引き出しましょう。

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