『江戸のエコロジスト一茶』⑤

 https://showahaiku.exblog.jp/27980689/  【『江戸のエコロジスト一茶』】より

一茶のように、自己の金銭的な貧しさを恥ずかしがらず、むしろそれを自慢に思うという発想は、今日の経済危機を乗り越えるための示唆を与えてくれるともいえます。二〇〇八、九年の大不況は、ある意味でわれわれにそんな価値観の変化の必要性を教えてくれたような気がします。たとえば僕の場合、務めていたラジオ番組のコーナーが打ち切られ、地方テレビのコメンテーターの仕事もなくなり、以前から教えていた大学では講義の一コマがカットされました。一方、そのお陰で娘の育児に深く関わることができます。固定勤務は週に一日だけの大学授業となり、妻が毎日働いていても、保育園に頼る必要がほとんどなくなりました。ほぼ毎日、朝から晩まで僕が娘の面倒をみることができます。たしかに家族の収入は減りましたが、保育園の費用も少なくなりました。その二つの減額によって日本のGNPが減ったことになるでしょうが、娘と僕の“幸せが減った”とは思えません。ねがわくは、僕の育児参加が娘の心を豊かにし、いつか日本社会全体の“人間的財産”になるといいですね。日本のGNPに対する貢献でいえば、僕らの家族は貧乏になりました。しかしこの場合、貧乏だから幸せといえるのではないでしょうか。

やけ土のほかり〳〵や蚤さはぐ

 文政十年閏六月十五日(一八二七年八月七日)の作(上高井郡高山村紫の門人・久保田春耕に宛てた書簡より)。

 この吟のちょうど二週間前、柏原に大火が起こり、一茶の住居を含む八十三戸が焼失します。妻のヤヲと連れ子の善吉と共に、老俳人は焼け残った庭の土蔵に移ることにし、そこで仮住まいを始めます。今も現存するこの土蔵は、一見に値します。十畳ほどのひと間、囲炉裏の向かいには掌ほどの小さな窓一つしかありません。最近、三人家族が座っていたはずの土の床を掘ってみたところ、魚の骨など、食べ物の跡が出て来たといいます。その囲炉裏に座っていると、開けっ放しの玄関が目前にあり、焼け跡を一望することができます。焼け土は不気味なものです。いつまでも火花が甦りそうな匂いと温かさが残り、夏の昼の土いきれが加わると、まるで地獄を予感したような気持にもなります。それでも、人間の不幸を気にせず、蚤たちは暑さを楽しんで繁殖し続けます。小さな命こそ、不滅であります。一茶は、人間の不幸に“慣れ過ぎていた”のか、この瞬間、落胆も個人的な希望も忘れ、ただ逞しく生き続ける蚤たちを眺め、その生命力を嬉しく思ったのです。加藤楸邨(『一茶秀句』、三六一頁)が述べたように、

半生の漂泊の果てに肉身との血の滲むような相剋を経て、ようやくにして手に入れた「終の栖」が、一日にして烏有に帰したのであるから、落胆は決して小さくなかったと想像するのが自然だ。ところが、この「ほかりほかりや」は、奇妙に明るいものを漂わせている。どうかすると、この境涯をたのしんでいるのではないかと感ぜられるほどである。これは、一茶の心に生まれていた、「あなたまかせ」の諦念の上にほのぼのとひらけてきた静かな光だったのではないかと思う。

 所詮、土地を持つのも、家を持つのも、自惚れた人間の空想でしかありません。災害に遭えば、人間は一瞬にして全てを自然に返すことになります。最終的には、所有権など人間にはなく、自然にしかありません。一茶はかつて、愛娘の死後、「ともかくもあなた任せのとしの暮」という句を書き記し、「あなた」、すなわち自分を含む大自然の摂理に向かって祈りを捧げました。今は、その祈りをさらに超えて、ただ一日一日自然に身を任せ、蚤のように明るく謙虚に生きるしかないと悟ったのです。

29最後の最後まで諦めない

勿体なや昼寝して聞田植唄

 文政十年初夏(一八二七年夏)の作か(『文政九・十年句帖写』)。

 一茶が三十歳代のころ俳諧行脚で関西、四国などを訪れていた時の句日記に『西国紀行』という俳文集があり、その余白の書き込みに同じ句が記載されています。なぜか、文政十年の夏、すなわち三十年後一茶はこの句を思い出し、最後の句日記に再録したのです。彼はこう思ったのではないでしょうか。「これはいい辞世になるな。俺なんか、風雅を売り物にして一生を送ってきたけど、もう少し百姓の生活に、その苦労に目を向け、耳を傾ければよかった……。この体たらくで昼寝を楽しんでいる俺は、結局早乙女の歌声ほど美しい歌を詠んだことはない。ああ、俺の人生は勿体無かったな」と。フランスのヴェルレーヌの獄中吟に、よく似たような哀吟があります。

空青し 空静かなり 屋根の向かう

 屋根の向かうの 木は葉をゆすり…

空が見え 鐘がかすかに 聞こえゐる…

 あそこ、木が見え 木に鳥の悲鳴!

ああ、神よ、 みな生きてゐる あそこでは…

 あそこ、しづかな 町のをとかな

こんな僕、 泣いてばかりの 青春か?

 こんな僕、どう したといふのか?

(PaulVerlaine, Le ciel est, par-dessus le toit.マブソン訳)

 ただし、一茶の句には、日本語特有の表現「勿体無い」が深い意味を与え、今の時代にとって大切なメッセージが含まれているような気がします……。

        *     *

 ケニア出身の女性環境保護活動家ワンガリ・マータイ氏は、二〇〇四年に環境分野の活動で史上初めてノーベル平和賞を受賞し、その後京都議定書関連事業で来日した際、「もったいない」という日本語の単語を知って感銘を受けたといいます。つまり、「もったいない」の意味には、英語でいうIt,sawasteのみならず、「神仏・貴人などに対して不都合である。不届きである」(『広辞苑』)というニュアンスも含まれています。言い換えれば、物を無駄にするのは神様に対しても不敬となる、という深意がこの日本語にあるわけです。マータイ氏はこの単語との出会い以降、国連などを舞台にしていわゆる「MOTTAINAI CAMPAIGN」を展開し続けています。その心は、従来の3R(Reduce,Recycle,Reuse)に加えて、Respect(人間と自然に対する敬愛)を重視するような“ヒューマニスト・エコロジー”活動といえます。そして彼女の精神の源はそもそも、農民であった両親から受け継いだものといいます。いつかは、この一茶伝を英訳、または仏訳してマータイ氏へお送りしたいものですね。

花の影寝まじ未来が恐しき

 文政十年初夏(一八二七年夏)の作か(『文政九・十年句帖写』)。

 これぞ一茶の辞世の句といわれてきた作品です。たしかに、西行の辞世といわれている名歌「ねがはくは花のしたにて春死なむ……」を踏まえているので、自己の死を予感した瞬間に詠まれたと思われます。そうはいえ、西行のように花の下にて穏やかな心地で息を引き取る余裕はないと自白したところが一茶らしい。前書に「耕ずして喰ひ、織ずして着る体たらく、今まで罰のあたらぬもふしぎ也」とあり、さきほどの「勿体なや」の句とほぼ同じ心境で詠まれたことが分かります。「自耕自織」のできる百姓に対する敬愛の気持、ゆえに風流人としての罪悪感、その二つの念が一茶の生涯を締め括ったといえるかもしれません。

 ところで、本連載初回で取り上げた俳諧歌を思い出しましょう。「ねがはくば松に生てぬく〳〵とかぶつて寝たき峰の白雲」(文化九年十一月十九日の句日記)。その作品においても一茶は西行の辞世を踏まえていました。人間ではなく木に生まれたかったのだ、という奇想が印象的です。その時、五十歳の一茶は信州へ帰郷する道中でした。そして十五年後、老俳人は再び西行の辞世を踏まえて一句を遺し、同じ十一月十九日に故郷で他界します……。

 その十五年間、色々ありました。三度の結婚、子供四人の死。一茶こと小林弥太郎という名の老木は無数の花を咲かせ、四回も実を結びましたが、みな熟れずして落果してしまいました。二歳になる養子・善吉君だけを後世に残せるのかと、翁は人生の虚しさを痛感した瞬間でしょう。

 本連載第二回で書いたように、僕からみれば、一茶の二万句はいわゆる“精子のようなもの”でした。彼は、湧き出る句々をもって命を伝えようとしました。が、最終的には言の葉が風と共に去りゆき、俳諧は「命を残す」という本能を満たしてくれたわけではありません。最後は、俳人を忘れ普通の男に戻り、焼け跡の桜の下でこう呟いたのではないでしょうか。「仏がさとを返してくれたら、焼け残った発句も書物も持ち物もすべてを炎に投げてもいい。俺も死んでもいい。だけど、このままでは死に切れない」と。「命を残す」という本能は、一茶のような“荒凡夫”にも、皇室の姫にも、野良猫にも、どんな過去を負う生き物にも同じ様にあります。理屈では言い表せないこの本能との最後の葛藤を、一茶は掲出句で描き切りました。命を残したいという本能と、死を恐れるという本能、その二つの他、深遠な文学的題材はあるでしょうか。

かまふなよやれかまふなよ子もち蚤

 文政十年初夏(一八二七年夏)の作か(『文政九・十年句帖写』)。

 火事の後、蚤が気持良さそうに騒ぎ、繁殖し続けます。ところで、「子もち蚤」を見分けるなんて、小さな命に対する眼差がよほど鋭くないとこんな句は生まれませんね。実はこの句、一茶の妻・ヤヲに向けた応援歌でもあると思われます。そう、ヤヲはこの夏、ついに一茶の子を宿したのです。現代医学の計算法によれば、排卵日が旧暦で七月十五日ごろと推定されます。大火の一か月半後、いわゆる「死の恐怖」がまだ鮮烈に心に焼き付いていたころ、二人は愛し合いました。小説『一茶』の最後の一ページで、藤沢周平は次のように「最後の情事」を描いています。

 一茶は寝返りを打って、やをに身体を寄せると、それまで静かに寝息を立てていたやをが、眼をさましたらしく「寒いかね、じいちゃん」と言った。そしてかき抱くように一茶の背に手をまわすと、子供にするように、ひたひた背を叩いた。そのまま、やをはまた眠りに落ちて行くようだった。

 あたたかい肌だった。一茶はやをの腿の間に、いつも冷えている不自由なほうの足を突っこんだ。やをは拒まなかった。そうしているうちに、久しぶりに一茶は股間になつかしい力がみなぎってくるのを感じた。

 「じいちゃんな、身体にさわるわさ」

 一茶の動きに気づいたやをが、今度ははっきり目ざめた声でそう言ったが、やがてやをの口から呻き声が洩れた。前のようにすれば、身体にはさわらない、と一茶はせきたてた。やをは黙って身体を起こすと、一茶の上に身体を重ねた。無言のときが流れて、闇の中で一茶が、極楽じゃと呟いた声が聞こえた。

 「やを。わしの子を生め」

 一茶は回らない舌でそう言った。そして最後の命をしぼりこむように、小さく身ぶるいした。

 次の冬、ヤヲが妊娠十九週目に入るころ、仮住まいの土蔵で一茶はまた中風の発作に襲われ、凍えながら他界します。しかし彼の心は、これから生まれるべき吾子への愛情で燃えていたに違いありません。

 文政十年十一月十九日、西暦一八二八年一月五日永眠、享年六十五。様々な歴史の本で調べても、この日は世界のどの国も特別な出来事が起きていないようです。一茶こと小林弥太郎という、世界史上最大の“百姓詩人”の死以外は、何も起きていません。

 歴史より大事なことがあります。次の四月に、女の子が生まれたということ。命名は「さと」ならぬ「やた」とされました。もちろんヤヲが「弥太郎」に因んで選んだのでしょう。そしてそのやたこそが生き残りました。一茶の死後、ヤヲは私生児・倉吉を本陣に返し、その後十三年間、懸命に一茶の娘を一人で育てました(小林計一郎『一茶――その生涯と文学』、信濃毎日新聞社、平成十四年、一七三頁参照)。遺児・やたは四十六歳(明治六年)まで生き、四人の子供に恵まれました。

 今も、長野県信濃町を訪れると、一茶の子孫といわれる方々に時々出会えます。多くの方は、優しそうな垂れ目をして、ぽっちゃりとした顔立ちです。一茶のように。

 一茶さん、最後の最後まで諦めないで良かったですね。

30一本の木となって

降る雪を払ふ気もなきかゝし哉

 文政十年冬(一八二七~一八二八年冬)の作(『文政九・十年句帖写』)。

 僕にとって、これが一茶の真の辞世句です。この「かゝし」は、秋が過ぎて、冬のさなかで役に立たなくなった人形のように、永遠に残る一茶の姿なのです。彼の最後の句日記『文政九・十年句帖』の最後の頁にあり、しかしなぜか忘れられたままのこの句。僕はフランスから信州まで来て、一茶没後百八十年にこの評伝を執筆し、たまたまこの句と出会い、この句を忘却から救うことができました。掲出句のように、今後新たな一茶が再発見されてゆくでしょう。僕はそう信じています。

 仮住まいの土蔵に籠り、小さな窓から吹雪を仰ぎながら、老俳人はおそらく十五年前の吹雪を思い出しました。その冬、永住帰郷を決意し、江戸から北信濃まで歩き、ついに実家に辿り着いたころ、真夜中の吹雪でした。突然戸を叩いても義母と義弟に歓迎されないことを予感し、そのままもう少し先にある村、亡き母の親戚の家まで歩き続けました。相続交渉で定められた通り、いずれはこの実家の間取りを半分に分けて、自分もここで初めて我が家を構えることができるのだと、胸を張る気持もあったのでしょう。その晩の吟、「これがまあ死所かよ雪五尺」を手紙に書き留め、さっそく江戸の俳友・夏目成美へ送ってみました。すると成美の返事では「これがまあつひの栖か雪五尺」の方が佳いという文が返って来ました。文末には成美の「わる口」が一言ありました。十五年後の今も、一茶が忘れられないような言葉です。「雪の中でお念仏でもいつてゐるがいい」という嫌味。いったい、この雪国での生活の大変さを分かってくれない高名な俳人は、本当に友人だったのか、と疑いました。成美殿、今やまさに雪の中で念仏を唱えながら季節外れの案山子となって死を待っております……あの世でまだこの一茶を見下していますか?

 それから一年後の冬、別の雪の吟「むまさうな雪がふうはりふはり哉」という奇句を送ってみて、成美評を仰ぎました。今度はそれほど激しい情を吐露したものではなく、おそらく都会人好みの優雅な雪景色と思いましたが。回答は厳しかった。「惟然坊が洒落におち入らんことおそるゝ也」、すなわち若干安易な言葉遣いで知られた芭蕉の弟子・広瀬惟然のように、「ふうはりふはり」と言葉で遊ぶな、という苦言でした。たしかに一茶は惟然の軽やかな口語調を好んでいました。そういえば掲出の「かゝし」の句は、惟然の名句、そして惟然について伝えられているエピソードをさりげなく踏まえていたのです。堀切実氏(『芭蕉の門人』、岩波新書、一九九一)が述べたように、

惟然にはいろいろと奇矯の振舞いがあったようだ。これは『近世畸人伝』や『惟然坊句集』に伝えられる逸話で、根拠のあるものではないが、あるとき名古屋の街で、惟然は偶然成人した自分の娘に出会ったが、乞食姿の父を見て驚く娘に「両袖にたゞ何となく時雨かな」と言い捨ててそのまま立ち去ってしまったという。その後また、娘は父の居所をつきとめて京まで会いに来たが、惟然は自分の旅姿を画いた上に「おもたさの雪はらへどもはらへども」と書き添えて与えただけで追い返してしまったという。

 一茶は、そんな雪のおもたさを、つまり人間の煩悩を払おうとはしません。むしろ案山子となって雪と一つになる。惟然の句を踏まえながら、彼はこう思ったに違いありません。俺だったら、娘さとと再会ができるなら、どんな吹雪に耐えてもよい、と。実際この直後、一茶は吹雪に埋もれて他界します。純白の案山子となって、浄土で娘と再会します。ちょうど十五年前の同じ十一月十九日、道中で詠んだ俳諧歌(本連載第一回目を参照)が予言のごとく現実となりました。「ねがはくば松に生てぬく〳〵とかぶつて寝たき峰の白雲」。その通り、小林一茶は一本の木と化しました。吹雪で五体を失った案山子。田圃に根差し、雪雲を被った一本の木。

 先日、かつて六歳の息子を失った兄が来日しました。一茶の墓前で彼から聞きました。「我が子に先立たれるという苦しみを敢えて言葉で表すのであれば、こういうことでしょう。常に、片腕を捥ぎ取られた後の痛みを覚えているようだ」と。四人の子に先立たれた一茶は、両腕両脚を捥ぎ取られていたということになります。そんな裸木のような案山子に化したからこそ、一茶の最後の姿はいつまでも僕らに向かって大切なことを語り続けているのです。それは、人間が苦しみで案山子に化したとしても、いつかは他人と言葉を交わすことによって再び人間になり、人の心のなかで甦ることができる、というメッセージ。アウシュヴィッツで両親を亡くしたフランスの精神科医B・シリュルニック氏が近著『案山子の自伝』(私訳)で述べています(BorisCyrulnik, Autobiographie d’un épouvantail, Odile Jacob, 2008,p.120)。

〝案山子になった人間〟がいる。彼らはもとよりものごとを深く考えないようにしている。悲惨な過去に満ちた内心を再構築するのは、辛酸すぎるからである。どうせなら木でできた胸板と藁いっぱいの頭の方が痛まない。しかしある日、その案山子は久しぶりに人間と出会う。その人間から魂を吹き込まれ、再び人間になろうかと思う。もう一度、人生の苦しみに挑んでみようかと考えるようになるのだ。

 読者よ、人生の難所を通った時、一茶という名の案山子を思い出してください。親戚を失った時、四歳で母親を亡くした一茶を思い出して。我が家から追い出されるようなことがあったら、十四歳で奉公に出された一茶のことを思い浮かべてください。金銭のことで困った時、「米くれ」と成美の家で哀願する一茶を思えば、少しばかり気が楽になるでしょう。大切な人が難病を告知された時、赤ちゃんを残して腎不全で他界した一茶の妻・菊に思いを寄せてください。そしてもしも子供を亡くした場合、諦めないでください。子供四人に先立たれたにもかかわらず、三人目の妻から元気な嬰児を授かった一茶の粘り強さを励みにしてください。人間は他の人間がいる限り、どこまでも頑張れる、そんな不思議な力をもった生き物です。そうはいえ、時には土となり、頑張らないでいることも必要でしょう。ラテン語では「人間的」(HUMANUS)が「腐葉土、土」(HUMUS)と同じ語源であると、以前に述べました。中国語による「人間」という単語の字面も美しいですね。ヒトは「人の間」だからこそ人間なのです。一緒になれば人間は良い意味でも、悪い意味でも地球で最も強い生き物になれます。人間はお互いに調和が取れれば、何だってできる、歴史がそれを証明してくれました。たとえば一九四一年には、ナチがいずれ崩壊するとは誰も思っていませんでした。今は、人間が環境問題を乗り越えるに違いないと誓える人はどこにもいません。しかし、人類が一つになれば、すなわち「人」が「人間」になれば、何だって可能です。

 本連載では、一茶の評伝を通じて、いわゆる「文系的なエコロジー」を提唱してみました。科学的な思考、発明、人々を脅かすデータだけでは環境問題の解決に追い付かないという気がして、一茶晩年の生き方に「心のエコロジー」を求めてみました。三年間の連載を経て、この結論に至りました。人と人の調和が取れて初めて、人と自然の調和が可能になる、という単純な結論。毎日、生活の中で人間らしく振舞っていれば、おのずと自然との調和を望む人間になってゆくのでしょう。真の「エコロジー」は「人間愛」から始まります。一茶さん、二世紀も前に「ヒューマニスト・エコロジー」の精神を示して頂いたことに、心から感謝しております。

 よく耳にする極まり文句があります。「子供たちにどんな地球を残すかが心配だ」と。たしかに、四十億年前から奇跡のように地球に芽生えた生命を、たった二十万年前に現れた「人間」が滅びさせるようなことがあれば、この上なく勿体無くて悔しい結末です。化石燃料の使用が激化して五十年、この短い期間で、四十億年の進化の到達点の一つである「人間」がすべてを台無しにするかもしれません。皮肉の極まりです。一方、もっと〝文系的〟な思考でこの問題を捉えるなら、逆に「地球にどんな子供を残すかが課題だ」ともいえるでしょう。今まで、〝理系的なエコロジー”は、地球の様々な病の治療を考えてきたような気がします。それに加えて、今度は〝文系的なエコロジー”をもって、治療ではなく予防を考える時期がきたのでしょう。そもそもなぜ人間は地球と仲が悪くなったのか

? 自分に何ができるのか?

 僕の場合、今のところ、なるべく無意味な仕事を減らし、娘の育児のための時間を作り、彼女に様々な動植物や人間を見せたりして、地球、そして人生が好きになるようにしてあげることが、「自分にできること」の一つなのです。生命礼賛の句を作ることが、その次に大切な仕事でしょう。俳人の皆さん、俳句こそ「文系的なエコロジー精神」を示すことができる筈です。これから、共に歩みましょう!

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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