連歌

https://840.gnpp.jp/renga/  【連歌 発祥之地】 より

筑波山の中腹にある「筑波山神社」の 800mほど西に 「筑波山梅林」と「がま公園」がある。梅林観光客のための駐車場脇に「連歌発祥之地」と書かれた歌碑と その説明板が並んで建っている。

連歌れんがは, 2人以上の人間が 和歌の上の句と下の句をつないでいく 詩の一種で, 「筑波の道」とも呼ばれる。説明立札にもあるように, 『古事記』に記された 倭建命やまとたけるのみことと 御火焼翁みひたきのおきなとの問答が 連歌の最初とされる。この連歌は 甲斐の酒折宮で作られたため, 山梨県(酒折宮旧跡)にも「連歌発祥の地」の碑が 建っている。


Facebook・いと きょうさん投稿記事  二条良基の連歌(つずうた)

 連歌は「つずうた」と読みます。連歌の研究者に二条良基(1320-1388)という人がいました。

彼の『筑波問答』(注1)には「楽にも序・破・急のあるにや。連歌(つずうた)も一の懐紙は序、二の懐紙は破、三・四の懐紙は急にてあるべし」とあります。

つまり音楽(雅楽)には「序破急(注2)」があるように、連歌にも「序・破・急」があると述べ、ついで連歌の懐紙について説明しています。

百韻(=句)の連歌では懐紙を横二つに折り、折り目を下にして、その表(面とも表記します)と裏とに句を記しました。具体的には、序はしとやかな連歌、破はうきうきとしたにぎやかな連歌、急はことに逸興(いっきょう=特別に興味深いこと)ある連歌にすることが語られています。

(注1) 連歌書。連歌の沿革・作法などが、翁との問答形式で書かれている。

(注2) 雅楽で、楽曲を構成する三つの楽章。初部の「序」は緩徐(ゆっくり)で拍子(ひょうし)に合わず、中間部の「破」は緩徐で拍子に合い、終部の「急」は急速で拍子に合う。

ホツマに見るつづ歌

 ホツマツタヱに最初に載るつづ歌は27アヤ-65にあります。

 これヲシテ トよへる幡(機)の つづねにぞなせ

 これは神武天皇の父ウガヤフキアワセズが、皇子(神武天皇)に勅(みことのり)した時の歌です。その意味は「このヲシテ(古代文字の文献)は、トの教えの代を送る幡のつづね(続いていく根)にするが良いであろう」という歌です。

 さてホツマツタヱ39アヤに、つず歌(=連歌)のことが詳しく書かれています。

この39アヤでは、ヤマトタケ(日本武尊)の東征のことが描かれていますが、その東征の最中に、歌についての問答があるのです。

 例えば、二条良基の筑波問答では、日本武尊(やまとたけ)の歌として

 「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」をあげ、次に

 御火焼翁の歌として

 「日々かがなべて夜には九夜日には十日を」を載せています。

 以上二首に該当する歌として、ホツマツタヱには次の歌があります。

 まずヤマトタケ(=日本武尊)の歌として

 「新治つ 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」

 これに応える歌が、次のヒトボシ・ヨスナ(=御火焼翁)の歌です。ちなみにヒトボシとは、火を灯す人という意味です。ヨスナはソロリ(徐)・ヨスナとも言い、秦の時代の人、除福の子孫のようです。

 「かがなえて 夜(よ)には九(ここ)の夜 日には十日(とをか)を」

 いずれの歌も十九音の歌で、この十九音の歌を「つず歌」と言います。

 このホツマツタヱの歌をカタカナ二段で表記しますと、

 ヤマトタケの歌は、

    ニヰハリツツクバヲ (九音)

    スギテイクヨカネツル(十音)となります。

 これに対しヒトボシヨスナの歌は、九・十ではなく十・九の音と逆になっています。

    カガナエテヨニハコヽ(十音)

    ノヨヒニハトヲカオ (九音)

 音数をわざわざ九・十から十・九と反対にしているのは、逆から読む中に、ある意味が隠されているというサインであると見る向きもあります。

 この場合では、ト、ヨ、ヨ、ツがそれに該当すると考えられます。

(解説)トヨヨツとは、トヨは十代(=十代アマカミ、ニニキネのこと)を表し、ヨツはヨ(ニニキネの代)がツ(続く)の意味、もしくは、トヨは十四代の意味で、ニニキネから見て十四代後の天皇=ヲシロワケ天皇を表し、ヨツはニニキネから見て四代前のアマカミ(天皇)イサナミ・イサナギを意味する、という二つの解釈があります。

 そもそも新治という地名は、ニニキネが最初に水田開発に成功した地で、ここにはニハリ宮がありました。筑波山の近く、現新治駅(茨城県)周辺かと思われます。

 このホツマツタヱにある二首が、筑波問答にある歌の大元と考えて良いでしょう。これを見る限り漢字の表記では、そこに隠された音の意味が分からないとも言えます。

 後にイロハ歌が生まれますが、この技法が取り入れられています。

 いろはにほへと     

ちりぬるをわか

 よたれそつねな

 らむうゐのおく

やまけふこえて

あさきゆめみし

ゑひもせす

 イロハ歌には,とかなくてしす=罪(とが)なくて死す、の意味が込められていると言われています。(各行の最後の音を読んでいくと、とかなくてしす、となる)

菟玖波集

短連歌 長句五・七・五と短句七・七で構成 平安初中期

長連歌 短連歌を反復する鎖連歌 平安末期

有心連歌(優雅)&無心連歌(諧謔)鎌倉

菟玖波集 一三五六年

連歌式目「応安新式一三七二年」南北朝

新撰莵玖波集一四九五年(正風連歌)室町

水無瀬三吟百韻 室町

吾妻問答一四六七年(純正連歌)室町

俳諧連歌(「付句」と「発句」で構成 「付句」は四季。「発句」は四季・恋・雑で構成。「新撰犬筑波集一五二四年山崎宗鑑撰」)室町後期

俳諧 詞付の「貞門派」。心付の「談林派」。匂付の「蕉風」。

俳諧連句撰集「俳諧七部集(芭蕉七部集・蕉門の撰集七部十二冊)一七三二年」江戸

 主要連歌師

時代順:善阿・救済・周阿・二条良基・朝山梵灯庵・能阿弥・高山宗砌・心敬・専順・蜷川智蘊・飯尾宗祇・ 牡丹花肖柏・ 宗長・猪苗代兼載・三条西実隆・宗碩・谷宗牧・谷宗養・山崎宗鑑・荒木田守武・里村紹巴・松永貞徳・西山宗因・ 北村季吟

片歌問答歌

 倭建命やまとたけるのみことと御火焼翁みひたきのおきなとの唱和問答歌

 日本武尊

新治筑波にいばりつくばを過ぎて幾夜か寝つる

 御火焼翁

日々かがなべて夜には九夜日には十日を

  最古連歌(万葉集巻八-一六三五)

 尼が頭句もとのつがひことばをよみ、また大伴宿禰家持が尼に誂あつらへて末句すゑのつがひことばを続ぎて和ふる歌一首

佐保川の水を塞せき上げて植ゑし田を  尼作ム

刈る早飯わさいひは独りなむべし  家持続グ

  菟玖波集 二条良基撰集

 それ和歌は、兩儀剖判ののち、萬物未だ成らざる以來、神世より傳へて人代に逮び、既に章句を聯ね、漸く文字を整へ、風賦比興雅頌の六義を分かち、長短・旋頭・混本の諸體をあらはす。ここを以て詞林ますます華麗の艶をあらはし、思泉いよいよ芳潤の流れを添ふ。然れども連歌はその言約にしてその旨遠く、義は周詩に歸し、體は倭歌に合するなり。蓋し日本武尊蝦夷を平げ、菟玖波の艱難を嘆きたまひ、中納言家持は言を棹川の水に寄せ、業平の朝臣は情を逢阪の關に停め、天暦の御門は叡旨を滋野内侍に遺し、北野天神は天の御戸漸く舊りぬるを告ぐ。みなこれ理は幽玄に入り、事は神明に通ずるものなり。中葉爾降雅詠いよいよ暢び、[一]什相聯なり、四時の景象形容せざるなく、萬慮の情性吟詠せざるなし。啻に日域の風俗を述ぶるのみにあらず、剩さへ漢家の故事を採れり。然れば則ち代代の聖主これを撰集に加へ、家家の前修執範を作ることをなす。或は花下に詠じ、或は月前に嘯くの輩、美譽後世に埀るといへども、佳句遺音を傳へず。嗟呼惜しいかな。而していま華闕風融らぎ、京洛陽和の仁に依り、柳營露遍く、邊藩も天均の惠みを被る。民は教化を美め、人は孝敬を成す。ここに幽情を舒べ、常に微詞を綴りて、或は諷詠の媒となし、或は教誡の端となす。賢愚誠を致し、尊卑以て思ひを陳べ、心に盡くさざるなく、詞に通ぜざるはなし。ここを以て旦に讀み、夕に見るの暇、片文集字の志に感じ、述べて作らず、名づけて菟玖波集と曰ふ。古今の作を分かたず、上下の句を擇ばず、その數二千有餘、鄙俚の詞は來哲の嘲を貽すといへども、手を?林を擧げ、纔かに一枝を攀ぢ、目を崑山に寓し、たまたま片玉を拾ふは、譬へば猶天を窺ふに管を以てし、海を測るに蠡を以てするがごとし。方に庶幾は將來に傳へ、能者を待たん。時に文和五年三月二十五日、編緝已に畢んぬ。菟玖波の道を尋ね、佐保川の流れを受くと云ふこと爾り。

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 倭言の葉は天地開けしより起りて、千早振神代に傳はれりと云へども、人のしわざとなりてぞ、句をととのへ、文字の數定まれりける。風賦比興雅頌の六くさを分ち、長短・旋頭・混本のさまざまの姿を定めしより、言の葉の花色を爭ひ、思の露光を添へずといふことなし。

 然あるに、連歌は言つづまやかに、旨ひろくして、文の意にわたり、歌の樣にかなへり。日本武尊は夷の亂れを和らげて、筑波峯のこと繋きわざをあらはし、中納言家持は佐保川の水に淺からぬ心を述べ、業平の朝臣は逢阪の關になさけをとどめ、天暦の御門は滋野の内侍に勅を殘し、北野天神は天の御戸ふり行くことを附け給ひき。

 中頃よりこのかた、雁の玉章かきつらね、芦の下根長くつづくることになりにければ、花を弄び、子規を待ち、月をめで、雪を詠めても、心四つの季に動き、言葉あまたの句にあらはる。或は戀路に迷ひ、或は身を恨み、君を祝ひ、神を敬ひ、佛を仰ぐのみにあらず、大和唐土の人づての世がたりまでも、すべてその心ばえにあらずといふことなん無かりける。

 斯かりければ、世々の聖りの御門も撰集に加へ、家家の道を得たる人も式目を作りて、久しく雲の上のもてあそび、花の下の戲れとなれり。月にうそぶき、風にあざける輩、その名聞えたるたぐひ、呉竹のよよに絶えずといへども、伊勢の渚の玉を拾ひ集めたるためし少く、和歌の浦の藻汐草かきおけ跡稀になん有りける。

 然かあるを、今、花闕風をさまり、柳營露あまねくして、天が下の草木よもの惠にあへるたぐひは、折に觸れ、事に臨みてはかなき情をかはし、あだなる言葉をのみぞ連ねける。文を助け、武をやはらげ、民を教ふる媒として、賢き愚かなるを捨てず、高き卑しきを分かず、思をのぶる事になれりければ、風の情及ばざる山陰もなく、露の言葉かからざる木隱れも無かりけらし。

 ここに旦によみ、夕にまみゆるあまり、暇少しといへども、道に耽ける志にたへず。終に集めて菟玖波集とへり。古へ今を分かず、上下の句を定めず、撰べる數二千々にあまれり。言のおろそかなるを顧み、後の嘲を愧づといへども、もとめえたるを纔に記せり。

 凡楢の葉のふるごとはちりぢりになりて、風の傳少なく、難波のよしあしは止めたるふしも多からずして、波の紛れに朽ちにしかば、今拾ひ集めたる言の葉その數少く、まことに管をもて天つ空を窺ひ、蠡をもてわだつみを測らんが如し。然あれども、この事を長く末の世に殘しとどめんとなり。かつは塵ひぢのいやしきことわざ天つ空まで聞えあげて、忝く愚かなる心ばせを見そなはし、あまつさへ畏き勅になずらへらる。是すなはち君も臣も體を合せ、あひにあへる秋をえたりと云ふべし。于時文和五年三月二十五日になん記し畢りぬる。遠きを尊び、近きをば卑しくする習ひ、古を思ひ、今を恥づといへども菟玖波の道を尋ね、佐保川の源を知りて流をうけよといふことしかり。


Facebook・俳句の雑学小辞典 投稿記事 「筑波の道」とは

連歌は別名「筑波の道」と呼ばれている。

その由来は、「古事記中巻」に載っている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が甲斐の酒折の宮で、火焼守(ひたきもり)の翁とかわした問答歌に基づく。

日本武尊が父親の景行天皇より東国鎮圧を命じられ、東国遠征に趣き、無事平定し終わった後、帰りに甲斐の国の酒折(さけおり)の宮に休みになった折、歌をもっておつきの人に尋ねました。

  にひばり筑波をすぎて幾夜か寝つる   尊

「新治・筑波(常陸の地名)を出発してから幾夜めか」

しかし、周りの人は答えるものがいません。

ここにその火焼の老人、すなわち灯火を付けて廻る役の人が御歌を続ぎて

  日々並(かがな)べて夜には九夜日には十日を  翁

「日数を重ねて9泊10日になりました」と答え、尊は大変お褒めになったとのことです。

この唱歌に基づき、連歌のことを別名「筑波の道」と言われるようになる。またこの故事によって連歌の式目を定めた二条良基の連歌集を「菟玖波集」と名づけられた。それが俳諧にも受け継がれ、宗鑑の俳諧集は通称「犬筑波集」と呼びならされている。

正確に言えば、五七七の片歌と、五七七の片歌の旋頭歌(せとうか)で、連歌の形式とは違うが、対話形式の上句と下句の唱和の形をもっているので連歌の最初とされている。

ちなみにこの翁、日本武尊に気に入られ東国造(あずまのくにのみやつこ)に任命されたという。

参考  中山義秀著「芭蕉庵桃青」新潮社

田中俊一著「俳諧本質論」清水弘文堂書房

有吉有吉保編「中世日本文学史」有斐閣双書


Facebook・俳句の雑学小辞典 投稿記事  芭蕉庵の最初の名前は?

芭蕉が江戸に上京した最初の頃は、まだ貞門、談林の俳風をメインに、雅俗のギャップやパロディなどを題材にした俳諧が主流であった。それは自分自身は常に批評家のように第三者として作品の外にいて、自身の言葉やそこから発生する笑いによって自らが傷つく心配がなかった。宗匠としての行為も、生活の手段であって、自身の人生とは深刻なかかわりを持たなかった。ところが、そこそこ俳諧師としての知名度があがっていた芭蕉が、今までの築き上げた地位を棄てるように深川へ転居してしまった。当時としては深川は江戸から見ればだいぶ田舎であり、宗匠として生活していくには不便な所であった。しかし、深川への転居によって芭蕉の俳風は一変する。詠句の視点は、外界、他者よりも自らの内面に注がれるようになる。外界を描いたように見える場面でも一読してそれが芭蕉の心象風景とわかる句ばかりとなる。深川転居は生活の安定を放棄し、遊戯的な俳諧を真の「人生詩」と変革した。

ちなみに芭蕉の草庵は「芭蕉庵」と呼ばれているが、最初は「泊船堂」と名づけられていた。この草庵はもと幕府の御用達で芭蕉の弟子である鯉屋杉風の生簀の番小屋であった。「泊船堂」とは不如意な草庵生活を杜甫の貧窮生活に重ね合わせ、杜甫の詩「窓は含む西嶺千年の雪、門は泊す東呉万里の船」に因んで名づけられたと言う。

参考    勉誠社「元禄文学の開花・芭蕉と元禄俳諧」


Facebook・俳句の雑学小辞典 投稿記事 「芭蕉の精神上の旅」

島崎藤村さんは芭蕉さんを称して

「芭蕉は精神上の旅人でもあった。西行へも旅し、定家へも旅し、万葉の諸旅人へも旅し、李白へも旅し、杜子美へも旅し、寒山へも旅した。」

とある。

そのことについては芭蕉さんの「虚栗跋」における

「李杜が心酒を嘗めて、寒山が法粥を啜る」

「侘と風雅のその生にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕栗也」

また元禄5年の弟子、曲翠宛ての手紙には

「はるかに定家の骨をさぐり、西行の筋をたどり、楽天が腸をあらひ、杜子が方寸に入る」

とある。

ここで言う「李杜」とは「李白」と「杜甫」。「寒山」とは「寒山・拾得」と並び称されている中国の風変わりな禅僧、「西行」「定家」は説明するまでもなく、「楽天」とは「白楽天」のこと。決して「楽天イーグルス」のことではない。

参考  久保田晴次著「脱出の文学」桜楓社

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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