二行詩・三行詩

黄落に交じる黄金の言葉かな  高資

 吉祥寺大仏

 曹洞宗諏訪山吉祥寺は、太田道灌が江戸城を築く際に井戸を掘ったところ、「吉祥増上」と刻まれた金印が出てきたことに由来するそうです。このあと近くで開催された邪馬台国の会における安本美典先生のご講演でもたまたま「親魏倭王」などの金印、息津鏡や辺津鏡などの話題を中心とした天孫降臨のお話しを拝聴しました。ー 場所: 諏訪山吉祥寺


アリストテレスの三段論法、 それから展開されたは弁証法は良く知られた思考法です。

https://ameblo.jp/vrio1977/entry-10741287102.html  【弁証法の3大原則】

【「切れ (kire) 」とは、意味による切断と無意識による接合という相反を内包し、それらを超克する詩的構造のことである。従来、「取り合わせ」「転合」と言われてきたものである。】という解説から 俳句における切れの重要性を鑑みるとき この思考法は俳句を詠むときの大事な要素となるのではないでしょうか? あるいは

三段論法は 物語の構成要素【起・承・転・結】から承の要素を抜いて 読者に思考を促す暗示効果を持つ論法と言えます。

弁証法は二極一元論とも言えます。

五七五(四拍子)定型という韻律は日本語の構造に特有なものであり、外国語の俳句(HAIKU)において5-7-5シラブルを適用するのは無意味である。そもそも日本語の構文はモーラによるリズムであり、それは例えば英語におけるシラブルとは異なるものである。

 まして、HAIKUにおいて、5-7-5シラブル、しかも、5/7/5と三行で表記することもまた全く無意味である。

 従って、俳句の詩的構造である「切れ」をまずHAIKUの必要条件とすべきである。「切れ (kire) 」とは、意味による切断と無意識による接合という相反を内包し、それらを超克する詩的構造のことである。従来、「取り合わせ」「転合」と言われてきたものである。日本語の俳句では、二句一章のように「切れ」は一行に内包される。一句一章にしてもやはり句中に意味的な断絶を見いだすことが出来る。つまり、切字の直上とそれ以外の部分においてである。

 そこでこれをHAIKUに適応すると、二句を二行で表記することによって、そこにkireを示すことが容易になる。例えば、松尾芭蕉の〈古池や蛙飛び込む水の音〉では、

Old pond—

a frog jumped and made a sound of water

と二行に表記することで、二句一章における「切れ」の詩的構造が明確になる。この場合、ダッシュ「—」が切字「や」に相当する。

Old pond - frogs jumped in - sound of water.

 これは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の訳であるが、このように一行で表記すると「古池や」の「切字」の効果が全うされない。

 次に、ドナルド・キーンの訳を見てみよう。

The ancient pond

A frog leaps in

The sound of the water.

 この訳でもやはり「古池や」の「切字」の効果が弱いと言える。倒置法によるThe ancient pondの強調は見られるが、それにしても古池に蛙が飛び込んで音がしたという単なる叙景詩の域を出ないように思われる。The ancient pond—のように「—」をつければ、上五と中七以降に「切れ」が置かれて、芭蕉がこの句に込めた思いが立ち上がるだろう。しかし、その際に、中七以降を二行に分ける必要はない。もし、分けるならばそこに三段切れの嫌いが生ずることになる。もっとも、キーンの訳は、theの頭韻によって英詩としての体裁は整っており、それなりの名訳ではあるが、芭蕉がほんとうに伝えたかった詩情を全うできているとは思えない。やはり単なる叙景詩に止まっているのである。

 ところで、〈古池や〉の句について、一九九〇年刊行の麻生磯次・小高敏郎著『評釈名句辞典』には次のように記されている。

 この句は単なる写生の句でもなく、叙景の句でもない。古池にひろごる閑寂の余響を、作者は、しみじみと心に味わおうとしたのである。古池は心の田地ともいうべきものである。

 長谷川櫂氏が『古池に蛙は飛びこんだか』という一冊を以てして、〈古池や〉の句は「古池に蛙が飛びこんで水の音がした」という意味ではなく「蛙が水に飛びこむ音を聞いて心の中に古池の幻が浮かんだ」のであると喝破して久しいものがある。

 そもそも、〈古池や〉の句の成立を温ねれば、貞享三年閏三月の『蛙合』にその初出を見る。その様子については各務支考の『葛の松原』に詳しく、芭蕉は最初「蛙飛びこむ水の音」の七五を得た後、榎本其角が提案した「山吹や」の上五を採らず、結局、「古池や」を上五に定めたと記されている。さらに支考は、〈古池や蛙飛びこむ水の音〉と〈山吹や蛙飛びこむ水の音〉の二案を判じて「山吹といふ五文字は風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして実なり。実は古今の貫道なればならし」と説いている。もっとも、ここでの「実」を現実として取れば、支考の解釈と、「古池」を現実ならざるものとして措定する長谷川説と相反するように思われるが、心主詞従の説を敷衍して「華」を外形に、「実」を内実に求めるならば両者は相通じていることが分かる。

 ところが、前述したような心主詞従の説に拠る支考の解釈に対して、潁原退蔵博士は次のように異を唱えている。

 それはそれで勿論宜い。しかし、華実を単に山吹と古池との場合にして考へて見ると、もつと違つた解釈が試みられるやうである。即ち一を写象的な叙景と見、一を象徴的な観想と見るのである。さうしてこの古池の句の場合、その光景が何等かの象徴として捉へられて居ることによつて、初めて立派な俳句となつて居る。実はさういふ解釈を下したいのである。                             『俳句に於ける写生』

 潁原説では一句全体が写実的でありながら、そこに示現された「光景」に象徴的次元が重なって立ち現れるというモノフォニーから派生するポリフォニーと言うべき詩境に俳句の真価を求めている。従って、潁原説では、あくまでも、まず古池に蛙が飛び込んで水の音が聞こえるという状況を写実的な叙景として想定する。また、その一方で、古池の静を擾す音が却って静を感じさせると共に、その音が消え去って再び静に帰する古池に至る心と、そして、けだるさの中にも明るい静寂さが感じられるという晩春のアンビバレントな季節感とが共鳴すること、つまり、自己と天然とが相互滲潤(造化随順)する志向性に風雅の淵源を求め、茲に至って初めて「さび」が体得されるという詩法の確立を以て蕉風開眼と見なし、それを能く体現する一句として潁原博士は〈古池や〉の句を評釈しているのである。ところで、『名句評釈』における潁原博士の句評は実に簡明である。冒頭から「古来やかましい句である」と起筆し、支考、越人、其角などの諸説、あるいは『古池真伝』などに触れながらも、「要するにどこでもよい、青く水の淀んだ古池がある。~中略~徒らに千言万語を費す必要はないのである。箇中消息は自ら領会するものがあるだらう。」と結論している。

 ここで確認したいのは、俳句が優れた「さび」の文芸である為には、まず優れた「写実」が存することを不可欠の前提とすると同時に結局それが象徴詩たる宿命を負うべきものであるという潁原博士の主張である。

 あくまでも私個人の印象だが、〈古池や〉の句を一読すれば、やはり、古池に蛙が飛び込んで水音が響いたという「実景」がまず脳裡に浮かぶ。それはあくまでも言語の記号的情報による散文的解釈である。次には、もっと具体的に、幼い頃よく遊んだ近所の弁天池の「光景」などが想起されたりする。そして、時空の壁を「や」の切字が鑿開することによって様々な「情景」が想像される。ところが、ここに来て仄見えてくるのは、蛙ではなく芭蕉その人の姿なのである。例えば、それは、主君の死に士分を捨てて漂泊する芭蕉であったり、あるいは、貞門の旧染に泥む京師を脱して東下する芭蕉といった具合である。さらには、言語遊技に停滞する談林の陋巷を離れて深川の池州番小屋に潜居する芭蕉、そして、ついには八百屋お七の大火で海に身を投じて辛くも急火を遁れる芭蕉が思い浮かばれるのである。つまり、そのいずれにも覗えるのは、「死」に切迫するような艱難に遭遇しても「命懸けの飛躍」によって何度もよみがえる芭蕉の強かな魂胆なのである。因みに、この論攷を書くにあたり、実際にアマガエルを自宅で飼育して観察したが、アマガエルは身に危険が迫った時以外に自ら音を立てて水に入ることは一度もなかった。

 もっとも、「命懸けの飛躍」とは、芭蕉の境遇やアマガエルの生態における謂のみならず、むしろ、俳句の詩的創造における大事なのだと思う。「切れ」の本質は、常識やこれまでの自分を捨てて言葉と言葉との新しい関係性において詩的創造性を確立するということである。つまり、既存の観念や自己から超脱して初めて新しい表現世界やほんとうの自己が見えてくるのだと思う。芭蕉は通俗卑近の内にも新しい言葉の関係性を構成するという「切れ」の詩法によって俳諧に新しい美意識や芸術性をもたらしたのである。しかし、その一方で、「切れ」は言語の記号性や伝統的な美意識や古い固定観念などによって保証されてきた他者との交流にも間断を生ぜしめる危険を孕む諸刃の剣でもあった。従って、芭蕉は「平生則チ辞世なり」と唱えて、句作に臨んでは常に「一句懸命」の真剣勝負だったのだと思う。畢竟、〈古池や〉の句では、一句というモノフォニーの中から、「切れ」による「静」「動」そして再び「静」へと回帰するという通時性と、前述したような写実的次元と象徴的次元との相互浸潤による共時性とが織り成すポリフォニーがあふれ出すという極めて高度な詩的創造性が認められる。ここにこそ蕉風俳諧の核心があるのではないだろうか。

 俳句の英訳においても、この「切れ」の本質が伝わるような工夫が必要である。それは、「切字」に相当する「—」、そして、改行という修辞が重要になってくる。つまり、この「切れ」を体現しやすい二行で訳するということが基本になると考える。もっとも、一行、三行で表現した方が原句に相応しいものもあるであろう。しかし、その際もやはり「切れ」の本質が伝わるような工夫が必要であることは言うまでもない。

NHK俳壇 2018年5月号 代表的な切れ字としては【や】【かな】【けり】があり 活用語につく連用形に【けり】がよくつかわれると紹介され、覚えておくとよい句として以下の句が挙げられています。 

火のように苺並べて食べにけり   五島高資

ここで紹介されている切れの役割は 連歌の発句から生まれた俳句を、脇句に依存しない完結性を持った俳句、挨拶句を超える句を詠むための技法と言えます。

https://m.amebaownd.com/#/sites/283334/posts/editor/6728924  【俳句の楽しみ】

ご参照ください。

このタオの図は 上図3枚を1枚にまとめ感じです。天地人を象徴しています。

対立する2項を 人が受け取り 消化吸収し 表現するイメージです。 

俳句を二行詩とみる見方は 対象が 対立する2項の調和バランスとして表現されるもの あるいは一つのものを切り口を変えて表現する在り方 対象の中に2つの対立する要素が溶け込んでいるというイメージ、まさにタオのイメージです。2項をピックアップし、ただ眺めるという 客観性を大事にした表現とも言えます。そこからのシフトは読者に任せるという感じの暗示効果が期待されますね。

三行詩とみる見方は テーゼ、アンチテーゼを際立たせ 二項の統合を図る在り方と言えるのかもしれません。統合からシフトが生まれる見方、温故知新というのでしょうか、ダイナミックなトーラスイメージです。こちらは(化学)反応のイメージです。

坂村真民bot@shinminbot

天に向かって 花は咲き 地に向かって 星は光る ああ 人は何に向かって 生きるのか 朝には花に向かい 夕には星に向かい われは願いを重ねゆく

【俳句は二行詩である】との断言からは「2項をピックアップし、ただ眺めるという 客観性を大事にしたい思い」が伝わってきます。そこからのシフトは読者に任せるという感じの暗示効果が期待されますね。

ただ眺めるという 客観性を大事にした表現だからこそ 俳句は自然描写(季節の歌)が中心であるという理解も生まれると考えられます。

永田 満徳 @Jr3Qeuc7Vh2zsnz

俳句大学国際俳句学部(華文俳句)よりのお知らせ!

〜詩人洪郁芬と郭至卿の新書発表会〜

※詩人洪郁芬と郭至卿の新書発表会で、この模様は当地のニュース番組で放送される。

※この新書には永田満徳と五島高資が序文を寄せている。

画像:新書発表会の様子


https://blog.goo.ne.jp/mitunori_n/e/41ffd7c8ce3dfb8595baf80e753659c9 【国際俳句の改革に対するご質問とお答え】より

Haiku Column(俳句大学国際俳句学部投句欄)よりのご報告!

〜国際俳句の改革に対するご質問とお答え〜

多くの人にご理解とご支援頂く機会を頂きありがとうございます。

ご質問にお答えします。

●まず、現在の国際俳句から見ていただきたい。

宮地信弘氏の訳をお借りして、いくつか英語俳句を示し、現在のHAIKU(国際俳句)の状況をみておきたい(注・「英語俳句試論(Ⅰ):日本語俳句の受容と展開」(『三重大学教育学部研究紀要第59巻』二〇〇八・三・一)。

① trapped             回転ドアに

in the revolving door       閉じ込められて

autumn leaves          秋の木の葉たち

(Peter Brady:United States)

② 3 a.m.              午前3時

the alrport conveyor turnlng   空港の回るコンベアー

one battered green valise     緑の手提げかばん潰れて一つ

(Marianne Bluger:Canada)

③ child's voice―          子どもの声―

the old dog           老いた犬は

settles lowerin its box       箱の中でさらに体を低くする

(Cyril Childs:New Zealand)

④ scent of hyacinth         ヒヤシンスの匂いが

fills the empty room       何もない部屋に満ちる

mother's birthday        母の誕生日

(Doderovicy Zoran:Yogoslavia)

⑤ a leaf              一枚の

patching a hole         木の葉が繕う

in my shoe           靴の穴

(Funda Zveljko:Croatia)

ここでは内容の良し悪しは問わないこととして、論述上、俳句の型に注目してみると、①は二行目で切れて、一物仕立て、②は三段切れで、一物仕立て、③は一行目の「―」で切れを表し、二物仕立て(取合せ)、④は二行目で切れて、二物仕立て(取合せ)、⑤は切れがなく、一物仕立てである。これらの例句で問題にしたいのは、②の三段切れはむろんのこと、⑤のような切れのない句である。

三行書きにしただけの俳句は形式のみで、三行詩(散文詩)的なHAIKUが標準になっていることがあげられる。HAIKUは三行書きなりという定型意識が強い。それは俳句の型と俳句の特性に対する共通認識が形成されていないからである。

このように、世界で流通している三行書きのHAIKUは散文詩的で、俳句の型が有効に機能せず、そのために俳句の特性が活かされていない。

①国際俳句で、なぜ二行俳句なのか?

俳句の型の基本は「切れ」である。松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水のおと」を句切れなしの「古池に蛙飛び込む水のおと」にすると、平板で、幼稚で散文的な表現になる。ところが、「古池や蛙飛び込む水のおと」だと、「切れ」によって、暗示・連想の効果が働き、複雑で、韻文的な表現になる。「切れ」は散文化を防ぎ、韻文化を促すのである。

俳句の基本型は「切れ」とともに「取合せ」で、本来の俳句の特性を示すことになる。「取合せ」の例として、芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天河」を挙げると、「荒海」と「天河」という二物の「取合せ」で読みの幅が広がり、複雑で、韻文的な表現になる。芭蕉自身が「発句は畢竟取合物とおもひ侍るべし」(森川許六『俳諧問答』)と述べているように、「取合せ」は俳句の本質に関わる問題である。

そこで、俳句の本質であり、かつ型である「切れ」と「取合せ」を取り入れた「二行俳句」を提唱したい。

「切れ」のある「取合せ」の二行俳句の一例を「Haiku Column」から挙げてみる。〔永田満徳評〕〔向瀬美音訳〕

Castronovo Maria カストロノバ マリア(イタリア)

Aurora boreale ―            北のオーロラ

La coda di una balena tra cielo e mare  空と海の間の鯨の尾

掲句は天上のオーロラと海面の鯨との「取合せ」によって、天体ショーを繰り広げるオーロラのもと、鯨が尾を揚げて沈む北極圏の広大な情景が描き出されている。(月刊誌『くまがわ春秋』八月号、二〇一八)

Sarra Masmoudi サラ マスモウディ(チェニジア)

palabres électorales~         政治の論争~

le chat remue l'oreille en dormant    猫は寝ながら耳を動かす

狸寝入りしながら、ご主人たちの政談を盗み聞きしている猫を描いているのである。夏目漱石の「吾輩は猫である」さながらの情景であるところがおもしろい。(『俳句界』十二月号、二〇一九)

日本の俳句の翻訳の場合であるが、はやくも俳句の構造上による「二行書き」の問題を取り上げていたのは角川源義である。角川源義は『俳句年鑑昭和四十九年版』(昭和四十八年十二月)において、「俳句の翻訳はほとんど三行詩として行われている。これは俳句の約束や構造に大変反している」として、「私は二行詩として訳することを提案する」と述べ、「俳句の構造上、必ずと云ってよいほど句切れがある。切字がある。これを尊重して二行詩に訳してもらいたい」とまで言って、俳句の本質の面から二行書きを推奨している。「切字の表現は二行詩にすることで解決する」と結論付けることによって、「切れ」(切字)による二行書き(二行詩)を提言していることは無視できない。

とどのつまり、「切れ」と「取合せ」は、二行書きにして初めて明確に表現できるのである。

②国際俳句において、なぜ、KIGO(季語)を提唱するのか?

季語は日本独特なもので、季節のない国の人々が、季語のあるHAIKUを創ることは困難だという常識である。現代の世界俳句では、無季(自由季)が優勢で、季節が六つある国、二つの国、ない国など様々だから、日本語の季語の本意で外国語俳句を分類するのは無理がある。例えば、フランス南東部の「春風」は寒冷で乾燥した北風であり、同国の「月」は秋ではないし、語源は狂気・不安と通じるという考えである。

これに対しては、そういうことが分かった上で、国際俳句においても「KIGO(季語)」を取り入れることを提案したい。

Mohammad Azim Khan(モハメッド アジム カン)      

 〔Pakistan〕      〔パキスタン〕

sunny spot (of winter) (冬の)陽だまり

the push of a wheelchair     車椅子の一押し

                         向瀬美音訳

sunny spotに(of winter)を補ってみたらどうだろう。身障者の「車椅子」を「陽だまり」の中に押し出し、少しでも温まってほしいという気持ちは「冬」の季節でなければ伝わらない。それほどKIGOの喚起力は強いのである。

季語を使った「魔法の取合せ」として、次のような二通りの作り方を提示している。この型は「切れ」と「取合せ」がはっきりし、二行俳句が作りやすいという利点があることを強調しておきたい。

① 一行目は季語

   二行目は季語とは関係のない言葉

② 一行目は季語とは関係のない言葉

   二行目は季語

 

毛布 もうふ moufu / blancket / couverture

 

Zamzami Ismail  ザザミ イスマイル

[Indnesia] [インドネシア]

blancket

the warmth of a baby sleeping soundly in its cocoon

ぐつすりと眠る赤子や毛布掛く

 

Veronika Zora   ヴェロニック ゾラ

〔Canada〕    〔カナダ〕

blankets and chairs

a castle of children's laughter

子の笑ひ毛布と椅子を占領す

 向瀬美音訳

現在、国籍もフランス、イタリア、イギリス、ルーマニア、ハンガリー、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、アメリア、インドネシア、中国、台湾と多様である。季節のない国からもKIGOのあるHAIKUが多く投句されてきており、俳句は「KIGOの詩」という認識が世界で広まっている。

③曖昧だった国際俳句に基準を設けたことも大きく前進した要因である。

これは、日本を含めた世界共通の基準でもある。

二〇一七年四月に「俳句ユネスコ無形文化遺産協議会」が設立された。このこと自体に異議を差しはさむことはない。この運動によって、俳句が広く認知されていくことは俳句の国際化にとってよいことである。しかし、この運動を推進するに当たって、「何をもって、『俳句』とするか、そのコンセプトの共有に危惧を抱く」(西村和子『角川俳句年鑑』巻頭提言・二〇一八年版)という意見は重要である。

そこで、世界に通用する「HAIKUとは何か」を明確にするために、「Haiku Column」において、「切れ」と「取合せ」を基本とした「7つの俳句の規則」〔7rules of Haiku〕を例句とともに提示した。〔向瀬美音訳〕

1.【取り合わせ】       【TORIAWASE】

〔例句〕永田満徳      〔Example〕Mitsunori Nagata

春近し            near spring

HAIKU講座は二ヵ国語    lecture of HAIKU in two linguages

2.【切れ】         【only one cut】

〔例句〕永田満徳       〔Example〕Mitsunori Nagata

オートバイ          motorbyke on an autumnal path

落葉の道を広げたる      whirlwind of dead leaves

3.【季語】          【season word(KIGO)】

〔例句〕永田満徳       〔Example〕Mitsunori Nagata

百夜より一夜尊し       one night more precious than hundred nighat

クリスマス          christmas

4.【今を読む・瞬間を切り取る】【catch the monent, tell now】

〔例句〕永田満徳       〔Example〕Mitsunori Nagata

春の雷             spring thunder

小言のやうに鳴り始む      beginning like scording

5.【具体的な物に託す】    【use the concrete object】

〔例句〕永田満徳       〔Example〕Mitsunori Nagata

肌よりも髪に付く雨      the rain dropping on hair not on skin

アマリリス          amaryllis

6.【省略】          【omissions】

〔例句〕永田満徳       〔Example〕Mitsunori Nagata

良夜なり           relaxed night

音を立てざる砂時計      sandglass without sound

7.【用言は少なく】      【avoid verbs,adjevtives, adjective verbs as much as possible】

〔例句〕永田満徳       〔Example〕Mitsunori Nagata

春昼や            spring afternoon

エンドレスなるオルゴール   endless music box

Haiku Columnでは、最初、説明的で観念的な句が多かったが、「7つの規則」を提示して以来、形容詞、動詞などが減り、具体的なものに託した表現を基調とし、省略された俳句が多くなっている。

例えば、二〇一九年一月十日の「Haiku Column」において、わずか一日だけの投句であるが、どれも捨てがたい句が揃うようになった。「Haiku Column」を立ち上げて三年目の成果であると思っている。

Agnes Kinasih

first light              

mother whispers a prayer of salvation 

初明り

母は救済の祈りを囁く

中野千秋訳

Claire Gardien

premier amour               

les lettres de fiançailles de son père à sa mère 

初恋

パパからママへの婚約の手紙

向向瀬美音訳

Salvatore Cutrupi

palle di neve-             

l'inizio di un racconto nato per gioco   

雪団子

物語の始まりはおもちゃのように生まれた

向向瀬美音訳

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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