しはらくは花のうへなる月夜かな

式内社 陸奥國磐井郡 儛草神社 境内 芭蕉句碑

 しばらくは花の上なる月夜かな  芭蕉

儚いから風雅も極まるのであり、このことは生生流転における「さび」の美意識に繋がっている。

https://oiwakenich.exblog.jp/30585531/ 【造化にしたがひ】より

追分にも春の気配が漂い、庭にはタンポポやスミレが咲きました。

残っていた枯れ枝と共にアレンジメントしてみます。

 毎年咲く花ですが、花を花として見るのは人間だけです。

 「造化の妙」という言葉があり、神のような人知を超えた存在が世界を形成した、その神秘と驚異を表していますが、生物には美的価値観はないわけで、当然、神も関係ありません。

 松尾芭蕉は「造化にしたがひて造化にかへれとなり」と笈の小文で述べています。

 これが意味するところは、神様のなせる業に敬服すべしということではなく、むしろ神などなくて、なにもないところからすべてが生まれてくる、その営み、つまり「自然」と一体となるよう勧めているのだと思います。注意すべきなのは生は死と一体であり、生まれるためには死ぬものがある、作るためには壊す必要がある、ということです。

 いわゆる「無常」ですべてはめぐり変化していく、という日本の文化に通底している思想です。

 西洋でも東洋でも、変化しない理想的・絶対的な世界を前提とする世界観と常なる変化のみがあるとする世界観の潮流があり、例えば西洋ではプラトン的イデア論対ヘラクレイトスの生生流転、東洋なら孔子の道徳規範対老荘の道の思想などが例として挙げられます。

 前者では、時間は直線的、不可逆的に変化していき、ときによっては最終到達地点てして完全な世界、天国やユートピア、マルクス主義社会などが終末として提示されます。一方、後者は輪廻の時間です。自然のサイクルから連想しやすい考えと言えましょう。

 年年歳歳 花あい似たり

 歳歳年年 人同じからず

 という漢詩がありますが、常に変化する世界では「神」のような超越的原理は不在であり、ここではむしろ仏教でいうところの「空」、つまり「有る」でも「無い」でもなく両者を車輪のように回していく原動力が認められます。

 これこそ「生命」の原動力であり東洋医学で「気」と呼ぶものにつながっています。

「時間」の秘密でもあります。

 時間とはなにか、それは命あるものにとっての問いなのです。


https://nezu3344.com/blog-entry-4082.html 【わび・さびとシラス国】より

「わび・さび」はうつろいゆくものに見出す価値観で、日本文化の精華であり、日本が失ってはならない高度な文化です。

けれどこのことは、我が国が「天皇のシラス国」という変わらぬ一点の不動の価値を持つからこそ、生々流転、うつろいゆく政治、うつろいゆく権力、うつりゆく自然や草木などに「わび・さび」を感じるという独特の文化となったのです。

この一点を失えば、「わび・さび」の文化も消滅します。

日本文化を語る言葉として、「侘(わ)び」「然(さ)び」などと言った言葉が使われることがあります。

では「わび、さび、幽玄」とは何か、どのようなものなのか、あるいは「わび」と「さび」の違いはなにかなどと言われると、つい答えに窮してしまうことも多いのではないかと思います。

日本大百科全書によれば、わび、さびは

◇わび【侘び】

日本人の美意識の一つで、貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識。

◇さび【然び】

美的理念。閑寂ななかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさをいう。

とあります。

しかしこの説明では、多くの人はいまいち意味や違いがわからないのではないでしょうか。

すくなくとも、私にはわかりかねます。

そこでもうすこし噛み砕いてみます。

「わび」はもともと「わびしさ」から、

「さび」は「さみしさ」から来た言葉です。

ただ、「わびしさ」や「さみしさ」が、人のその時点における感情を意味する言葉であるのに対して、「わび、さび」は、もうすこし動的な意味合いを持ちます。

すなわち、人や自然、あるいは道具類などが、経年変化し、移ろい行くさまの中にある、一定のわびしさやさみしさが「わび、さび」になるのです。

『ねずさんのひとりごとメールマガジン』

登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!

20190317 MARTH

たとえば、日本では、ビルやホテルのロビーに生花を飾りますが、それらは必ず生きた花を用います。

そもそも華道における生け花では、造花を使うという発想自体がまったくありません。

一方South Koreaでは、ビルやホテルのロビーに飾られた豪華絢爛な花は、ことごとく造花です。

いまこの瞬間が豪華絢爛であれば良いからです。

ところが日本人は、造花で演出された豪華さには、あまり反応はしません。

あくまでも生花であって、その生花の美しさを一瞬の形状にとどめたものを美しいとします。

そしてさらに豪華絢爛の対局にある、いちまつのさみしさを感じさせる生花の造形に、ためいきがでるほどの感動を覚えます。

それが「わび、さび」の世界です。

なぜ生花にこだわるのかといえば、生花は「うつろいゆくもの」だからです。

いまこの瞬間には豪華絢爛だった花が、2〜3日経つと花びらが落ち、その豪華さが失われていきます。

その失われ行く姿の中に、日本人は「わび、さび」という美しさを感じるわけです。

このとき、クシの歯が抜けたようになったものが「わび」です。

その「わび」た状態を最初から演出するものが「さび」です。

そこに経年変化を感じ取り、その変化の中に美しさを見出します。

「平氏にあらずんば人でなし」とばかり権勢を誇った平家が壇ノ浦で滅亡し、かつて平家一門が住んでいた都の屋敷跡が寂寥感ただよう廃墟となっている。

往時には、人の往来が絶えなかったその屋敷の門も、いまや通う人もなく、荒れた門前をさらしている。

それが「わび」です。

そしてそうした平家一門の栄華と滅亡を、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」と過ぎ去った昔を感じ取る心が「さび」です。

もうすこし例をひいてみましょう。

西洋美術は絵画にせよ彫刻にせよ庭園建築にせよ、瞬間の美しさをそこに留めようとします。

美しい瞬間を永遠に留めようとするのです。

経年変化ではなく、美しかった一瞬をとどめようとするのです。

これに対し日本人は、絵画でも彫刻でも庭園でも、変化そのものを楽しもうとします。

典型的なのが日本庭園で、季節ごとの美しさのみならず、庭園内のどの位置からでも、違った角度で楽しめる。

つまり、変化することを楽しむことを前提として造園されています。

そしてその変化によって失われていくものの中に、わびしさや、さびしさを感じる心を大切にしようとし、これが

「わび、さび」という美意識につながっていくわけです。

では、日本人はなぜ、そのような変化するものに美を見出そうとするのでしょうか。

実はこれには理由があります。

変化に美を見出すのは、片方に「不動のもの」があるからなのです。

千年経っても変わらない不動のものがあるから、経年変化するものを容認し、さらにその中に美を見出すのです。

もっというなら、万古不易(ばんこふえき)の不動の価値があるからこそ、うつろいゆくもの、変化するもの、失われていくものを愛(め)でようとする心が養われるのです。

このことは、逆に「不動のもの」がないときを考えるとわかりやすいかもしれません。

「不動のもの」がなければ、得ることばかりをもてはやすことになります。

たとえ造花であっても、目を奪うような豪勢なものであれば、それで良いということになるのです。

では、私達日本人にとっての「万古不易の不動のもの」とは、一体何でしょうか。

それが「天皇のシラス国」ということです。

これ以外は、すべて枝葉末節です。

幾千年の昔から、天皇によって我が国の民衆は黎元(おほみたから)とされてきました。

そして民衆が「おほみたから」であればこそ、たとえば統治者層である武士たちの合戦も、武将同士が互いに民・百姓を守るために武士たちだけで行われてきました。

つまり我が国における唯一絶対の真実というのは、

「民衆こそが神につながる天皇のおほみたからである」

という一点に尽きます。

このことを「シラス」といいます。

「わび・さび」はうつろいゆくものに見出す価値観で、日本文化の精華であり、日本が失ってはならない高度な文化です。けれどこのことは、我が国が「天皇のシラス国」という変わらぬ一点の不動の価値を持つからこそ、生々流転、うつろいゆく政治、うつろいゆく権力、うつりゆく自然や草木などに「わび・さび」を感じるという独特の文化となったのです。

この一点を失えば、「わび・さび」の文化も消滅します。

お読みいただき、ありがとうございました。

 

http://book.geocities.jp/urawa0328/basyoukuhi/itihara.html

櫟原(いちはら)神社は延喜式内社。

「延喜式神名帳」に「櫟原神社 越中国 新川郡鎮座」とある。

櫟原神社に芭蕉の句碑があった。

しはらくは花のうへなる月夜かな

安政2年(1855年)10月、建立。

しばらくは花の上なる月夜かな   卓丈□書

 しばらくの間だけ、咲き誇る花の上に月が照っている。やがて月は傾き、この美しい景色を楽しむことができなくなってしまう、という意味。

 この句は、松尾芭蕉が元禄4年(1691年)に詠んだ句である。碑の裏面には「安政二乙卯年初冬 発起 孤松庵如青・迎月亭東邱・閑時庵呉橋 時雨斉六窓・石工当初久兵衛」と刻まれており、安政2年(1855年)に如青ら4名が発起人となり建立したことが分かる。碑の文字は、金沢の俳人卓丈の筆になるものである。

 数ある芭蕉の句の中で、なぜこの1句を石碑に刻んだのかについては、明らかではないが、今もなお、大切に保存されている句碑である。

滑川市教育委員会

『蕉翁句集』(土芳編)には「貞享五辰ノとし」とある。

https://robinsday.exblog.jp/97999/

しばらくは花の上なる月夜かな

先日、尾島町を訪ねた折りに芭蕉の句碑を見てきました。下記の、芭蕉俳句全集では、『しばらくは花の上なる月夜かな』はありましたが『しばらくは花の色なる月夜かな』はありませんでした。

・群馬県尾島町【八坂神社】

 しばらくは花の色なる月夜かな

 春秋三世嶺書(町重文)

・上の写真は躑躅ヶ岡公園(場所不明 東夷注)にある、芭蕉の句碑です。

 しばらくは花の色なる月夜かな

 四世夜雪庵書

・東京亀戸天神の境内

 しばらくは花の上なる月夜かな

 四世夜雪庵書

 

・群馬県北群馬郡子持村

 しばらくは花の上なる月夜かな

 はなづか. 1816年小渕南交の建立で斉坊塔ともいう。

・東京都渋谷区内にある芭蕉句碑

 しばらくは花の上なる月夜か那

 金王八幡宮渋谷3-5-12

・秋田県能代市(願勝寺)

 しばらくは花の上なる月夜かな  芭蕉

 <建立年月>安永3年(1774)10月 

・群馬県高崎市小祝神社

 しばらくは花の上なる月夜かな

 小祝神社は片岡の鎮守として、また安産・子育守護神として崇敬篤い社である。

・群馬県藤岡市 養浩院(臨済宗)境内

 しばらくは花のうえなる月夜哉

 この芭蕉の句は、『初蝉(はつせみ)』(元禄9年刊)などに所収され、真蹟短冊では「之道万句」と題されており、門人之道(しどう)の万句興行の時期が元禄4年(1691)春と推定されるので、その頃の作だと思われます。

・『しばらくは花の上なる月夜かな』の句碑は探せば他にもあると思います。

・参考

 芭蕉俳句全集

 http://www.ese.yamanashi.ac.jp/%7Eitoyo/basho/haikusyu/index_theme.htm

 芭蕉庵ドットコム

 http://www.bashouan.com/index.htm

 おくのほそ道文学館

 http://www.bashouan.com/psBashouPt_index.htm

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/4128/zennkusakuin.html

【芭蕉全句鑑賞索引】

元禄四年 四十八歳(初蝉)

●春ー花

しばらくは花の上なる月夜かな (しばらくははなのうえなるつきよかな)

 東山魁夷の絵にこのような構図の絵があった。ただ、絵の場合、どうしても固定された美として描かれてしまうから、いかにも作り物という感じがしてしまうのだが、この句の場合「しばらくは」が利いていて、句に動きと柔らかさを与え、「花の上の月」といういわば〈絵のような〉映像に真実味を与えている。ただ、句としてのインパクトは弱い、これは「花」「月」という日本的な伝統美にもたれているだけだからか。東山魁夷の絵はくどいし、この句は弱い。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000