https://note.com/way_finding/n/n86748d89b6a8【言葉は区別をする ―丸山圭三郎『言葉とは何か』より】より
言葉とは何か。率直にそれがタイトルになっている本がある。
言語学者 丸山圭三郎氏の『言葉とは何か』である。
率直なタイトルの通り「言葉とはなんだろうか?」という疑問に答えるための言葉を与えてくれる。
言葉とは何か?
言葉について考えるために、最初に知っておくべきことは次の通りである。
私たちの生活している世界は、言葉を知る以前からきちんと区分され、分類化されているのではありません。(丸山圭三郎『言葉とは何か』)
この考えは、素朴な感じとは相容れないものかもしれない。
素朴な感じからすると、世界は犬と猫、山と川、右と左、上と下、朝と夜、上げればきりがないほどの「区別」たちで、それはそれはしっかりと、きちんと、区別されているではないか?
その区別は仮に言葉などなくても、それ自体として区別されるのではないか
というように思いたくなってしまうところであるけれど、それはちがうのであるという。
※
そういう私たちが日常当たり前のように、それ自体として(言葉とは無関係に最初から)区別されていると思っている「区別」は、実は言葉によって初めて区別されたものであり、言葉を知る「以前」には、きちんと区別されていない、というのである。
丸山氏の論は更につづく。
単語のもつ音の価値も、その言語の体系のなかだけで決定されるのであり、言葉が、あらかじめ区切られた独立の存在である物や概念の名前ではないということは、多くの実例が証明しています。
言葉は、「あらかじめ区切られた」「独立の存在」である「物や概念の名前ではない」という。
世界は確かに、他とは異なる様々なものであふれているように見えるが、その異なり方、違いが、そのまま言葉に写し取られているわけではない。
のちにもくわしく見るように、言語を構成する諸要素は、その共存それ自体によって、互いに価値を決定しあっているのです。概念は言葉とともに誕生し、それぞれの単語は全体の体系のなかにおかれてはじめて意味をもち、その大きさ、意味範囲はその単語を取り巻く他の単語によってしか決められません。(丸山圭三郎『言葉とは何か』pp.10-11)
言葉の構成要素は、他の構成要素との関係で価値をもつ。それは言葉が表すとされる外界の事物がどうなっているかとは、とりあえず関係がない。
特に「概念」の場合、例えば、大きくて毛むくじゃらのあの動物と、小さくて短毛のこの動物を、どちらも「犬」と呼ぶ場合の「犬」であるとか、権力者に従順でなんでも言うことを聞いてしまう人を呼ぶときの「犬」。
こういった概念は、言葉の中で、言葉を構成する要素の関係の中で、はじめてその意味を持つものである。これを丸山氏は「意味範囲はその単語を取り巻く他の単語によってしか決められません」というのである。
関連note
ドーナツの穴が「ある」のは、リングの部分との関係においてのみ
「ドーナツの穴」と言われれば、多くの人は「ああ、あれね」と脳裏にあれが浮かぶことだろう。
ドーナツの穴は、私たちの頭の中に、確実に存在する。
ドーナツの穴はある。存在する。見れば分かる。名前もある。
それでは、ドーナツの穴の「実在」とはなにか?
そこには砂糖もかかっていなければ、練り上げた生地を揚げたものもない。周囲の空気と同じ空気が通過しているだけではないか。物質としてのドーナツの穴、それは周囲の空気と同じ空気そのものであり、空気でしかない。
あるいはドーナツを宇宙空間に持っていったとしよう。そうなると穴はもう空気でさえなくなる。
しかし、空気だろうと空気で無かろうと、それはドーナツの穴である。
ではなぜ空気や空気でない、その空隙が「ドーナツの穴」なのか。それは、周囲をあの生地を揚げたものが囲んでいるからである。
ドーナツの輪は空間を、ドーナツに囲まれた部分とそれ以外の部分に区別する。
私たちが言葉を喋り、聞くということは、ドーナツを揚げるようなものである。はじめにドーナツありき。
そうして実は、ドーナツの穴に限らず、ドーナツ本体の揚げ物の方も、そして「わたしにとっての」それ以外のすべてのモノも、「わたし」までもが、ドーナツの穴のようなものなのである。こういう思想を関係論という。
そしてなにより大事なこと。
ドーナツもまた、ドーナツの穴があるから、ドーナツなのである。
※
ちなみに丸山圭三郎氏の著書で私個人が最も衝撃を受けたのは『ホモ・モルタリス』である。著作集第Ⅳ巻に収録されている。
どのようなお話か?煎じ詰めればドーナツを揚げる話である。などと言うと怒られるだろうか。また機会を見て読み直してみたい。
0コメント