俳句は音楽

http://aafc.jp/Essay/2014/2014Ima-/20141231Ima-22_Takahashi.html 【「俳句と西洋音楽」】より

 俳句という最も短型にして且つ純日本的な文学形態と西洋音楽。凡そ接点など全くなさそうな東西を代表する芸術様式ではあるが、いろいろ調べてみると 意外にこの両者 関連がなくもない。

  先ず俳句をテーマにした西洋音楽といえば 筆者が真先に思い出すのは 20世紀を代表するフランスの作曲家オリヴェ・メシアン(1908 - 92)の作品「七つの俳諧」であろうか。1961年来日の際、各地を旅行したときの印象をもとに作曲されたが、「導入部」以下「奈良公園と石灯籠」「山中湖」「雅楽」「宮島と海中鳥居」「軽井沢の鳥たち」「コーダ」の七部構成で、楽器編成はピアノ、13の管楽器、木琴、マリンバ、打楽器と弦によって演奏される。但し作曲家自身の説明によれば ”俳諧”そのものとは直接の繋がりはなさそうで、敢て関係付ければ、俳諧のごとき小品から成る音によるスケッチ集「日本の印象記」といった意味合いのようである。

  メシアンの弟子、ルノー・ギャヌには「一茶の俳句による6つのピアノ曲」、ハンス・ツエンダーに「フルートと弦楽器のための5つの俳句」があるが、何れも翻訳された俳句からのインスピレーションを音で表現した作品。更に 日本の作曲家、坪能克裕(つぼのうかつひろ)には 俳句独特のリズム感覚を生かして曲付けされた作品「一茶の俳句による5つの合唱曲」があるし、俳句ではないが啄木の著名な和歌には越谷辰之助が作曲した歌曲「初恋」がよく知られており、この曲は日本が生んだ夭折の名テナー、山路芳久により死の直前の1988年11月、札幌で吹き込まれた絶唱が遺されている。(音楽之友社CD OCD 0502)

  変ったところでは作曲家兼俳人という二足の草鞋組で、中でもパリ音楽院出身の池内友次郎(1906-91)は俳人・高浜虚子の次男であり 自身も「ホトトギス」同人。また彼の芸大教授時代の愛弟子で、オペラ「沈黙」(原作は遠藤周作)の作者として著名な松村禎三(1929 - 2007)も俳句をよくし山口誓子の主催する「天狼」同人だった。池内に俳句関連の作曲はなかったと記憶するが、松村には「ヴィブラフォンのために -三橋鷹女の俳句によせて」(2002)という作品がある。日本の代表的打楽器奏者、吉原すみれの委嘱によるもので、鷹女の烈しい俳句同様、峻烈な響きの曲だった。

  しかし 筆者にとって 簡潔、省略、間(ま)、感情の抑制、時空、静寂、日本的四季、宇宙、自然といったいわゆる俳諧的ムードを強く感じさせる曲は、先のメシアンの影響を強く受けた日本の代表的作曲家、武満徹(1930 - 96)の諸作品、中でも中期頃までの前衛期に属するものであろう。例えば、ニューヨーク・フィルからの委嘱作品で、彼の代表作でもある「ノヴェンバー・ステップス」(1967)。自身によれば、この作曲にあたって彼は漠然とした最初のイメージを幾つかの短い言葉にまとめながら最後に表題を決める。その過程で楽想が自然に喚起されたと述べているが、事ほど左様に武満作品にとって言葉は常に最重要な役割を担っていた。

  こうしたプロセスは作句にも通ずるものではなかろうか。因みに彼の作品群から幾つか作品の表題のみを列記してみたい。

「~樹の曲」(1961),「環礁」(62),「地平線のドーリア」(64),「風の馬](66), 「グリーン](67),「四季」(70),「カシオペア」((71),,「旅」(73),「秋庭歌」(73),「波」(76),「海へ」(81),「雨の樹」(81),「11月の霧と菊の彼方から」(82),「雨の呪文」(82)「夢見る雨」(86),「径」(94),「精霊の庭」(94) ・・・。

  生前の武満と俳句の接点については生憎不明だが、「翼(つばさ)」や「小さな空」などの優れた詩人でもあった武満が「私は一切の余分を削って確かな一つの音に至りたい」という境地、この”音”を”言葉”に言い換えれば 此れもまた作句の理想でもあろう。

 ご存知の通り、19世紀までの西洋クラシック音楽には、俳句における五七五の定型とか、季語の挿入の如く、ソナタ形式などの形式とか調性が約束事のように存在していた。20世紀に入ると 様々なヴァリエーションが生まれて こうした形式や調性は崩れていったが、もし武満が句作をしていたら 恐らくは短詩にも似た自由律だったのではなかろうか。ともかくメシアンや松村のように武満にも何らかの形で(できれば自作句に基づいて)俳句に関わる彼独特の美しい叙情的な音楽作品を遺してもらいたかった。

  前世期初め、晩年のグスタフ・マーラーが、ドイツ語に訳された漢詩に感動して名作「大地の歌」を作曲し、期せずして漢詩の素晴らしさを世界中に知らしめたように・・。

  武満亡き後の21世紀においても、この漢詩にも匹敵するような俳句文化を有する我々日本人にとって その響きとかトーンとともに俳句をベースにした優れた音楽作品の出現によって世界の人たちを魅了すると同時に俳句そのものの奥深さを理解してもらえるようなことがあれば何と素晴らしいことか。

 今や時候は冬、師走から迎年への時節であるが、最後に筆者が昔捻った極めて拙いながらも 自称”音楽俳句”なるものを幾つかご笑覧に供して本稿を締め括りたい。

五番街 ミサの漏れくる白聖夜 -  クリスマスの夜、雪のニューヨークで(白聖夜=ホワイト・クリスマス)

暮れの街 第九に酔いて路地裏へ -  新宿オペラシティにて「第九」に感激して・・・ 

初春や ウインナ・ワルツで茶の間酒 -  ウィーンに想いを馳せながら 日本酒で乾杯!

                                            

http://t42sugar240cake.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html 【俳句は音楽だ! (JAZZは俳句からも学べ)】より

俳句をやりたくなった。

文学として、また、すこぶる音楽的でもあり…、

「五・七・五」のリズムは、3小節に収められる。

|♪♪♪♪♪×××|×♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪×××|

|ふるいけや××× |×かわずとびこむ |みずのおと×××|

 (×は八分休符と見て下さい)

(良い意味で)限られたスペースや季語等の制約の中で、雄弁に、色あざやかに表現しつつ、余韻をも残す。う~ん。JAZZに通ずる…。

2小節目は、「休符」から始まる「シンコペーション」効果で、リズミックな躍動感を出している。

ところで、「五・七・五・七・七」の短歌は、5小節で表記できる。所謂「下の句」に当たる4・5小節目の音韻は、2小節目と同じくシンコペーション。こちらは、しっかりと歌いきる「完結感」がある。

|♪♪♪♪♪×××|×♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪×××|| (上の句)

|×♪♪♪♪♪♪♪|×♪♪♪♪♪♪♪|| (下の句)

冒頭に、俳句は3小節と書いたが、実際には、「全休符」の小節を、もう2小節(あるいはそれ以上)持っており、そこでは、単なる無音ではなく、ある意味、音が鳴る以上の「語りかけ」が進んでいる(敢えて例えれば、ご飯の「蒸らし」か?)。

|♪♪♪♪♪×××|×♪♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪×××| ■ | ■ |……

どうぞ誤解なきよう! 短歌より俳句が優れているなどと言いたいのではなく、自分としては「休符で語れる」ミュージシャンになりたい、ということです。

いきなり俳句が作れるわけでもなく、まずは次稿の冒頭を「五・七・五」で始めてみようかな。

(季語は無いので川柳との位置づけになりましょうが)

https://www.yuichihirayama.jp/2017/08/11/286/ 【【俳句四季】特集「音楽」〈付き過ぎない言葉〉】より

僕は音楽評論家という仕事柄、J-POPやJ-ROCKの歌詞を扱うことが多い。歌の詞というのは俳句にとても似ていて、通常の言葉の論理では成り立っていない。それは歌にはメロディとリズムがあるからで、論理的には無理のある歌詞でも、すんなり納得できることが多々ある。俳句もまた韻文であるので、同様の論理の飛躍がしばしば起こる。

たとえば井上陽水の作品「青空、ひとりきり」の♪仲良しこよしは 何だかあやしい 夕焼け小焼けは それより淋しい♪というフレーズは、完全に論理を逸脱している。だが歌として聴くと、するりと腑に落ちてしまう。

音楽を聴いていて、次の歌詞が容易に想像がついてしまうのは、あまり上等な歌とは言えない。俳句でも上五、中七と読んでいって下五が陳腐なものは、興を削がれてしまうのと同じことだ。つまり俳句も歌詞も、単なる説明ではなく、論理に飛躍があるものや非論理で成立するものなのだ。そのことを俳句では、“付く”とか“付かない”と言うのである。ありきたりの論理の所産である“付き過ぎの句”には心が騒がない。

ちなみに陽水は「青空、ひとりきり」のラストで♪涙の言葉で 濡れたくはない♪とも歌っている。ベタベタした叙情を拒否する陽水は、ある意味で、俳句に非常に近い感覚を持っている作家だ。

そしてJ-POP、J-ROCKシーンで最も俳句に近い歌詞を書いているのは、奥田民生だろう。彼はラブソング全盛の日本の音楽界にあって、ラブソング以外の歌詞に挑戦し続けている珍しい存在だ。彼の在籍するバンド“ユニコーン”を一躍有名にした曲「大迷惑」では、なんと単身赴任を題材にしている。また代表曲の「イージュー★ライダー」で、奥田は青春をたとえるのに、“気持ちのよい汗”、“枯れない涙”、“くだらないアイデア”、“やり抜く賢さ”、“眠らない身体”という意味深な言葉を羅列する。これらは俳句で言うなら、“付き過ぎない言葉”の群れだ。言葉同士の絶妙な間合いは、名句の呼吸に似ている。それこそリスナーはこの歌を聴いていて、次の歌詞の予想がつかない。そこに「イージュー★ライダー」の歌としての魅力がある。まさに前代未聞の作詞家だ。

民生も陽水も、乾いた叙情をもって“言葉の匠”となった。その奥底に俳句に通ずるものが流れているのは、非常に興味深い。そこに新しいメロディやリズムがつけられて現代的な作品となっている。

俳句界でも、そうした新しい韻律や論理を意識している作家たちがいる。

「滝壺を持たない滝や自爆テロ」

「ミニスカでボート漕ぐ人ありがたう」

これらは北大路翼の句だ。「滝壺」から「自爆テロ」にジャンプする飛距離が凄い。「ミニスカ」の句は「ありがたう」が効いていて、爆笑を誘う。

「あさがほのかたちで空を支へあふ」

「うららかを捧げもつ手の手ぶらかな」

これらは小津夜景の句。「あさがほ」の持つメロディ、「うららか」に内在するリズムが、とても新鮮だ。

音楽的俳句と俳句的音楽。素直な気持ちで触れれば、きっとどちらも人生を豊かにしてくれることだろう。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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