エイゼンシュテインの映画の弁証法

https://kotento.com/2020/06/13/eisenstein1/ 【エイゼンシュテインの映画の弁証法】より

映画理論において最も重要なものとして、エイゼンシュテインのモンタージュ論というものがあります。

それは弁証法という哲学独自の概念を基礎にして、映画(あるいは広義に芸術)を作ることです。

弁証法とは何か

(分かる人は読み飛ばして構いません)

弁証法とは、古代ギリシャをはじまりとする西洋思想の根幹にある哲学的概念、あるいは方法です。

同じ弁証法といっても思想家によって定義が全く異なりますが、特にヘーゲルにおいて万物に通底する根本原理として定式化され直した「弁証法」が、最も一般に普及しているものです。

ざっくり言うと、「A(テーゼ)」というものに対し、それを否定する「非A(アンチテーゼ)」というものをぶつけ、それらふたつを統合し、あらたな「B(ジンテーゼ)」というものを導出します。

さらにこの「B」をテーゼとするアンチテーゼ「非B」をぶつけ、新たな「C」を導出する、というこの繰り返しによって、物事は運動、成長、発展するということです。

例1、科学の発展は弁証法の運動の典型です。

具体的な事例で言えば、ニュートンの絶対時間絶対空間というテーゼに、それを反証(アンチ)するテーゼ「光速度不変の原理」をぶつけることによって、アインシュタインの特殊相対性理論というジンテーゼが生じます。

例2、少年の成長物語でよくありますが、ある夏休み、ひょんなことから校内一のガリ勉と不良が友人になります。

自己(テーゼ)の生き方を否定する友人(アンチテーゼ)との関りの中で、ガリ勉は外に向かって生きることを学び、不良は内を反省する生き方を学び、夏休みが終わるころには、互いが対立するものの力を統合し、以前より成長した新たな自分(ジンテーゼ)になっています。

モンタージュとは何か

(分かる人は読み飛ばして構いません)

モンタージュをひと言でいえば「編集」です。

昔の刑事ドラマによくありますが、異なる顔写真のパーツを切り貼りして組み立てた犯人の顔のように、部分を再構築して新たな全体をつくる作業です。

映画のモンタージュ理論において、エイゼンシュテイン以外で有名なものとして、グリフィスとクレショフのものがあります。

グリフィスは、私たちがホームビデオを撮る時のようなシーン数=ショット数の古い方法(例、子供がプリンを食べるシーンで、始めから終わりまでただ撮り続けるだけ)を打ち壊し、ワンシーンを複数のショットで組み立て構成する編集(モンタージュ)をはじめます。

プリンのアップ画-子供の輝く目の画-スプーンを取る手の画-口に運ばれる一片のプリンの画-満足そうな子供の笑みの画-…、というように、複数のショットでひとつのシーンを構成することによって、ドラマティックな効果をあげることができます。

またグリフィスは、シーンだけでなく、物語全体の編集(モンタージュ)である、いわゆるクロスカッティングの創始者でもあります。

異なる時代や場所の物語を分割し、交互につなげ交差させ、物語を全体的に演出するような方法です。

例えば、ボクサーAとボクサーBがリングで出会うまでの過程(ドラマ)を交互に写し、つなげ、クライマックスでついに闘う、みたいな演出です。

クレショフは編集(モンタージュ)によっていかに物事の意味が発信者の恣意によって作り出されるか(受信者に受け取られるか)を、心理学的な実験によって明らかにした人です。

例えば、Aの画像(男性の真顔)の後に、B(テーブルの上の食べ物)、C(棺桶の遺体)、D(ベッドの上の女性)の三つの画像いずれかをつなげる編集をします。

すると被験者(鑑賞者)はA-Bでは男性は空腹な顔をしていたと言い、A-Cでは悲しそうな顔をしていたと言い、A-Dではスケベな顔をしていたと言います。

たとえ同じ素材を使っても、編集による前後の入れ替えなどによって、意味を真逆にすることは容易です。

以上を踏まえた上で、エイゼンシュテインの言う映画の弁証法というものの理想がどういうものであるかを、比較を通して簡単に解説します。

エイゼンシュテインの弁証法

まず、エイゼンシュテインの弁証法というものは、あくまでも表現として新しい可能性(新しい次元の世界)を開くためのものであり、運動、成長、発展といった構築的な概念ではありません。

日本文化に造詣の深いエイゼンシュテインは、それを日本の漢字や俳句によって説明します。

もともと漢字は象形文字(絵文字)だったわけですが、その単純な絵文字が組み合わされる(モンタージュされる)ことによって、まったくあたらしい意味が生じます。

例えば、「日」という漢字は太陽を模写的に表し、「月」という漢字はお月様を模写的に表す絵文字です。

しかし、これらが組み合わされると、違う次元の意味、観念的な意味としての「明(メイ・あかり)」へと飛躍的に変化します。

重要なことはこの際、元のものとは根本的に異なる次元のものへと変化していることです。

単なる足し算ではない異次元への変化(ここでは具体から抽象概念へ)、質的に飛躍する弁証法です。

俳句(詩)における効果というものもこれと同様の変化によって生じています。

有名な芭蕉の「古池や 蛙とび込む 水の音」の句の場合、私たちが感じているのは単に「古池」と「カエルのダイブ」と「水音」という模写像の足し算としての場面描写を、言語を通して認知しているのではなく、その組み合わせ(モンタージュ)の妙によって、何か特殊なものを感得しています。

散文的な場面描写の単なる説明とは違う、異質の次元(心理的、情緒的、美的なもの)へと飛躍し、感じ入っているのです。

エイゼンシュテインのモンタージュ

グリフィスの場合もクレショフの場合も、そのモンタージュにおいて、部分はあくまでも全体のための部分です。

精巧な機械時計の部品や建築物のレンガのように、あらかじめ計算された全体にそってはめこまれた部分です。

その効果というものは、設計図の段階で予測可能なものです。

それはロシア皇帝という支配者の思惑(設計図)のために民(部分)が存在するようなヒエラルキー構造に似ており、便宜的にこれを「君主制モデル」と名付けておきます。

君主制モデルにおいて部分は、階層秩序に従う区別による価値づけによって機能する要素となります。

それに対し、エイゼンシュテインのモンタージュの効果(質的な飛躍)というものは、設計図の段階では把握できず、実際にその組み合わせが現れるまでは感得不能だということです。

例えば、ひとつのメロディーが鳴るだけ(あるいは交代で鳴るだけ)であれば、その効果は私でも事前に把握できますが、複数の異なるメロディーが同時に鳴る際に生じる弁証法的な効果を、一般人が予測することはまず不可能です。

昇り階段と下り階段が同時に総合されたエッシャーの絵の眩暈は、実際にそれを見るまでは決して生じえないように。

それは民(部分)が主役であり、部分の共演によって真の全体が開示される、帝政ロシアとは質的に異なる共同体の世界であり、これを「民主制モデル」と名付けておきます。

民主制モデルにおいては、あくまでもそれぞれの部分が平等な重要さをもつ要素として機能します。

ロミオの独白も、群衆のざわめきも、等価であり、共演的に、決して切り離せないあるひとつの表現の要素として、それぞれが機能しているのです。

歌舞伎における弁証法

このエイゼンシュテインの弁証法の発想の原泉となったものとして、歌舞伎(忠臣蔵)のある場面が挙げられます。

以下、少し長いですが引用します。

忠臣蔵

一例。由良之助が開け渡した城を去る。そして舞台の奥から前景の一番前まで歩いてくる。すると、突然、城門を実物の大きさ(クローズ・アップ)に描いてある背景の幕が折りたたまれ、これにかわって、城門をちいさく描いた(ロング・ショット) 第二の背景が現われる。これは、由良之助がさらに遠く歩いてきたことを意味する。由良之助が歩きつづける。背景に茶と緑と黒の幕が引かれるが、これは城がもう由良之助の視界から隠れていることを示すものである。さらに、歩きつづける。由良之助はこんどは舞台を歩ききって「花道」にさしかかる。ここの道行きは、三味線によって、すなわち音によって、強調される。

第一の移動…歩行、すなわち俳優自身による空間的移動。

第二の移動…平面的な絵画、すなわち背景の変化による移動。

第三の移動…知的に説明される指示、すなわち、その幕がわれわれの眼に訴えるものを「消し去っている」。

第四の移動は…音で!

(佐々木能理男訳編『エイゼンシュテイン 映画の弁証法』角川書店より)

ここでは、同じひとつの動作が視覚と概念と聴覚において表現されています。

これは、どういうことでしょうか。

具体的に考察してみます。

私たちは一般的に知覚や感覚を、それぞれの感覚器官から上納されるデータを、脳という中枢によって支配的に管理する君主制モデルで捉えています。

しかし、これは理性によって構築したひとつのモデルに過ぎず、実際の感覚というものは五感それぞれが混然一体となったものでしかありません。

幼子の時には未分化であった感覚(目で聴き、耳で見るような)を、ただ勝手に君主制モデルで弁別し構成しなおし、目は見るもの、耳は聞くもの、と限定しているだけです。

例えば、私は目の前のコップを撫でツルツルした触感、綿のTシャツを撫でザラザラした触感と知覚しますが、実際ここで機能しているのは大半が聴覚です。

コップを撫でてもほとんど音は鳴らず強めに撫でるとキュッと鳴り、シャツを撫でるとサラサラと鳴る、その音によって触感(質感)を判断しています。

触覚の表現に音(ツルツル、ザラザラ)が使われるのはその所以です。

音声や視覚の情報のない純粋な触覚のみで、物の質感を区別することは極めて困難です。

味の場合は、はほとんど視覚と嗅覚が決定しており、舌ではありません。

目隠しして鼻腔を閉じた被験者にリンゴと生のジャガイモと玉ねぎを食べさせても、その違いが分からないという実験があります。

テレビで目隠しをした芸能人が、豚肉と牛肉と鶏肉の味の違いを判断できないのは、舌というよりは嗅覚の良し悪しの問題です。

例えば、風味というものは、風と味、いわば嗅覚と味覚が混然一体となって働くことによって感じられるものです。

人間は空間把握の多くを視覚だけではなく聴覚に頼っており、音の反射や響きや動きから、かなり正確に空間を把握しています。

聴覚も単にある周波数成分を聞くだけで音を判断しているのではなく、主に視覚に頼っています(“何の音か”という知覚が聴覚情報の内容を決定します)。

また、音というものは空気の振動であり、それは鼓膜だけに限らず肌(触覚)でも感じうるものです。

ライブに行くと“身体全体で聴いている”ように感覚されるのは、比喩表現ではなく、現に身体の触覚が音の振動を感じて(聴いて)いるからです。

歌舞伎が複数の感覚の共演、弁証法によって飛躍的に開示しようとする異次元の表現とは、私たちが分別ある大人になる際に失ってしまった、五感が一体となっていた時の“感覚の完全性”です。

これを先の例でいえば、部分の共演によって全体が生じる民主制モデルです。

別の例として、市川猿之助が切腹する場面では、両手の動き(視覚)と、周囲のすすり泣き(聴覚)のトーンの変化が、いわば視覚と聴覚が等価物として共演的に一体となり、泣き声(悲しみ)は手の動きによって表現され、手の動き(絶命)は泣き声によって表現され、えも言われぬ感動を生じさせるのです。

日本文化の未分化性(完全性)

この相容れないはずの対立物が一元的に結びつく完全性(あるいは未分化性)は、日本文化の特色です。

日本人は、ひらがな(日本)と漢字(中国)とカタカナ(西洋-音声化したアルファベット-)が入り乱れ、表意文字と表音文字が共演的に意味を表現する特異な言語を巧みにあやつります。

日本人は、写実的三次元と平面的二次元を同等のものとして知覚、あるいは表現します(例えば浮世絵)。

歌舞伎のある場面、紐で引っ張られくねくね泳ぐ鯉の模造が、抽象的な垂直線の滝をのぼる姿は、二次元と三次元を同時にひとつの知覚として見事に成立させています。

この日本人の知覚の未分化性(完全性の萌芽)は、西洋的な理性による分化作用や資本主義への移行による経済的分化体制によって破られていきます。

そんな中、日本映画は、そういう自文化の優れた遺産から何も学ばず捨て去り、欧米のくだらない手本を模倣することに躍起になり、悲惨な状況に陥っています。

この未分化性は、決して分化によって亡き者とされるのではなく、むしろモンタージュという方法論によって、弁証法的に完全な形で復興されうるのです。

リアルはリアルではない

私たち現代(文明)人は、あまりにも君主制モデルによって物事を知覚することに慣れすぎているため、例えば、消失点を頂点(君主)とするピラミッドの内に事物が配置された、石のような統制と秩序あるパース(遠近法)の正確な絵をリアルだと思い込んでいます。

しかし、実際の知覚ははるかに複雑で、もっと豊かな表現として世界は現前しているはずであるのに、抽象的な釣り合い(秩序)を無視するそれら元来の知覚や表現の可能性は、君主によって抹殺されます。

結局、私たちの言うリアル、リアリズムとは、ある社会文化的なひとつの形式、ひとつのイデオロギーに外ならず、アカデミックな形式、論理に従う秩序への服従によってのみ成立するような部類のリアルでしかないのです。

[分かりにくい箇所なので、線の知覚を具体例として挙げてみます。

例えば、私たち大人が子供にまじって学校の校舎を写生をするとしたら、普通にまっすぐな直線の箱としてその建物を描きます。

しかし、実際に校舎(ビル)が真直ぐな線の箱として私の目に知覚されることは、校庭という近距離にいる限りほぼありません。

むしろ子供がよく描く“膨らんだ牛乳パック”のような曲線のビルの絵の方が知覚としては正確であり、大人は抽象的な図形による空間把握によってその元来の知覚を補正し、直線で構成されたビルを描いているのです。

要は目ではなく頭で描いているわけです(部分的な直線の知覚を幾何学空間に配置し、頭の中で統一的にまとめることによって直線のビルは成立します)。

勿論、その大人は、見えたままリアルに描いていると本気で思っています。

古代ギリシャの建築家たちがあえて建物を湾曲させて造ったのは、この事実を知っており、元来のリアルな知覚を、抽象的な本質(直線らしさ)に合わせるための作業をしたわけです。

しかし、現代人は無意識に頭の中で行っているこの作業の存在を完全に忘却してしまっているため、本当(元来)のリアルな知覚というものの存在をも同時に失ってしまっているのです。]

芸術とは弁証法的衝突

君主制モデルのように隷属的な部分による摩擦のないスムーズな稼働は技術に属するものであり、芸術ではありません。

芸術の本質は、それぞれ自立した活きた部分が衝突することによって生じる弁証法的な飛躍によって成り立っています。

その衝突は、その芸術を構成する要素間すべてにおいて存在し、例えば映画であれば、ショット内における各構成要素(形態、量、照明、速度、素材、等)の衝突、ショット間の衝突、シーン間の衝突、映像と音声の衝突、主題と美術の衝突、役と演技の衝突など、無数に挙げられます。

ひとつのメロディーを知覚(理解)することはできても、二つのメロディーが同時に鳴る時、それは知覚(理解)できず、ただ“感じる”ことしかできません。

この技術以上の何かへの飛躍が芸術を芸術たらしめるものであり、理解するレベルから、感じることしかできないレベルの知覚(感性と知性の止揚)へと作品を引き上げることこそが、芸術家の仕事なのです。

現代芸術の使命

最後はエイゼンシュテイン自身の言葉でまとめます。

観衆の知性にはたらきかけることは、映画によってはじめてなしとげられるものであると、ぼくは信じる。そして、このようなはたらきかけは、おそらく、現代の芸術にたいして歴史的にあたえられている使命であろう。というのは~われわれは、これまで、思想と感情とのあいだに成立する、純粋の哲学的思索と情緒とのあいだに成立する~陰鬱な二元論に、なやまされつづけてきているからである。

原始的な、魔術と宗教の、時代には、科学は知識であると同時に、感情でもあった。そして、これは、一種の一元論的な形をとって、おこなわれていた。われわれは、こんにち、一方においては、純粋の感情を、他方においては、思弁的哲学をもっている。

といって、われわれは、いまさら、昔の素朴な宗教的な段階へ、立ちもどろうとするわけではない。われわれが努力しなければならないのは、これと同じような、二つの要素の綜合を作りあげることである。

この偉大な綜合を作ることのできるのは~すなわち、知性を、その現実の源泉である形象と情緒とに、還元することのできるのは~ただ映画だけであると、ぼくは信じる。

(同上)

おわりに

エイゼンシュテインのいうモンタージュというものは、グリフィスやクレショフのように、現実を心理主観的な観念連合の“作られたリアル”へと論理的に再構築する作業ではありません。

むしろそういう構築物を、部分の衝突によって破壊することで、より高次の世界へと飛躍することを目指します。

今風の言葉でいえば、合理主義的なモダニズムを否定するポスト-脱-モダニズム的な可能性を開こうとすることです。

それは部分的な事実の集積を編集し、強引につながりのないものを因果的につなげ捏造することで紡ぎ出される“ストーリー(ヒストリー)”という構築物とは相性が悪いため(ストーリーにおいて衝突は物語という虚構への移入を妨げるノイズになる)、多くの場合、物語よりも表現重視のアート寄りの作家、実験映画の監督やミュージックビデオのディレクターなどに利用されることが多いようです。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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