詩的創造性

https://ooikomon.blogspot.com/2021/08/blog-post_27.html 【松本龍子「一本の煙と灰と彼岸花」(『龗神』)・・・】より

  松本龍子第一句集『龗神(おかみのかみ)』、著者自装、序は五島高資「真にして新なる俳句ー生死を超克する詩性ー」。帯文は朝吹英和、それには、

 月光を背負ひて登る夜の蟬

水や月に代表される自然や生命の循環律を象徴するモチーフと自己投影された季語の二重性を駆使した『龗神』には輪廻転生への思いが籠められており、禅師の箴言「天地同根万物一体」が想起された。

 とあった。また、序には、

 (前略)単に言葉を指示記号として実景を描き出そうとするのは、かえって言葉の固定観念にとらわれて、物の本質を見定めることができない。現在、多くの俳人が金科玉条とする「写生」とは、まさにそうした陥穽に落ちており、それは単なる「写実」と言って良い。松本龍子が目指すのは、そうした言葉の固定観念をいったん保留あるいは破壊し、自らの詩的直感に従って瞬間の中に「ものの見えたる光」を捉えることである。ここで私は、ガストン・バシュラールが言った「世界は存在する前に夢見られる」ということを思い出す。「夢」は詩的想像と置き換えても良いだろう。俳句にあっては、その律動法に深く関わる「切れ」の理法によってが闡明される。それは生死といった二項対立的観念を超克する境地へも繋がっている。まさに松本龍子の句業は、真にして新なる俳句の世界を切り拓き続けているのである。

 と結ばれている。また著者「あとがき」には、

(前略)これからも、何が起ころうとも、すべてを受け入れて死ぬまで揺れ続けるのだろう。想定外の自然を畏怖しながら、森羅万象の中に立ち現れる〈光〉を詠み続けていきたい。

 と記されている。因みに、集名に因む句は、

   落葉焚く龗神を鎮めけり     龍子

 であろう。ともあれ、集中より、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

  薄氷の星にとけゆく水の音

  片時雨砂紋は音に移りけり

  鶴唳に滲みこんでゆく春の水

  剣玉の紐に絡まる春の星

  足元の大断層の海鼠かな

  逃水とひとつになりて消えにけり

    亡妻と最期の花見

  吉野山空華のごとく星ともり

  不揃ひの骨を齧つて虎が雨

  ゆつくりと貉の少女水を打つ

  流燈の消えてゆくとき黄泉のこゑ

 松本龍子(まつもと・りゅうし) 1956年、愛媛県今治市生まれ

https://www.haikunet.info/review/2016/70718.html 【文部科学大臣表彰を祝して

対馬康子句集『竟鳴』の世界】より

渡部有紀子

 対馬康子氏の第四句集『竟鳴』の俳句は生と死、存在と不在と相反する二つのイメージの間を自在に行き来するような印象を読者に与える。

蓼の花軍服永久に襟立つる

残菊の垂直に死はすべり落つ

落ちていてみな裏返っている躑躅

 第一句目。軍服を着ていた男は既にこの世に不在である。主がいない軍服の襟が立っている形は、そのまま人間の頭部を連想させ、不在なはずの男の存在感をまざまざと感じさせる。だがやはり人はいない。そこに気づくときに浮かび上がる死者と生者の間の距離。

 第二句目。秋の末まで咲き残った一株の菊。やがて冬が来れば寒さで枯れてしまうであろう。菊が枯れれば、今は大輪の花を支えている一本の太い茎が露わになるだけだ。まるでこの直立する茎の上を花の命は上滑りしていったのだと言わんばかりに。サ行音の連続するこの句は、「シ=死」という言葉の響きを意識せずにはいられない。

 第三句目。地に落ちて裏を見せる躑躅の色は、もはや誰も知らない。咲き誇っていた頃の表の色はどう確かめるというのだ。一度裏返って隠されてしまった躑躅の色は、拾い上げて 再び表に返したとしても、そこに見える色とかつての花の色との連続性はどこにも保証がない。「かつての躑躅の色」は永遠に不在となる。

 生と死を考える時、生者の世界と死者の世界、いわゆる「あの世とこの世」の関係を感じさせる句に目が行く。

身の丈の常世に巣箱掛けにけり

たましいを攫いに来る秋祭

寒鯉の谺のごとく底より来

 第一句目。自分の丈以上には高く掛けられない巣箱は、この世で自分の成せることの象徴なのだろうか?

 第二句目。対馬康子氏の御尊父逝去の際に詠まれた句。あの世からの死神が魂を攫いに秋祭に紛れてやってきた。身近な人の死に遭遇してより死への思いが深化したように感じる。

 第三句目。暗い冬の池の底をのっそりと泳ぐ鯉は、まるで深い黄泉の国からの使者のようである。

 第二句、第三句を見ても明らかなように、死は「来るのもの」として対馬康子俳句の世界では把握されている。

蛇打たれ笑い崩るる如く死す

 第一句集『愛国』において死を笑いに転換してしまう感性を見せつけていた対馬康子氏である。先に挙げた句は死という忌むべきものをハレのものに読みかえたとも言える。既にこの頃から反するイメージの間を自由に行き来するまなざしを持っていたことがわかる。

 二つのイメージの間で自在に句を作り出す時、それらは読者に定めなきもの、存在や関係の移ろいやすさ、そして夢想といった印象を与える。

定めなき鞦韆の線飛び降りる

切り口のまだ新しき紐と薔薇

空を塗るペンキに気泡鳥帰る

夢に梳く髪を軋ます花の雨

春星へ回転木馬輪をほどく

水鳥のよう寝台の短き脚

 第二句目。薔薇を支柱に縛っている紐の切り口はまだ新しい。薔薇と支柱の結びつきはまだ始まったばかりで、この先互いにどうなるのかはわからない定めなき関係であると言える。

 第三句目。鳥たちがこれから北へと旅をする空にはあたかも小さな気泡があるようだという。均一に塗り重ねているはずのペンキに生じた小さな歪み。鳥たちの渡りは毎年同じように行われていることでありながら、実は不安定であることを暗示している。第四句から第六句目。対馬康子俳句の無意識下に見る夢の世界。

 対馬康子氏は、最初の師である中島斌雄より学んだ句の世界についてこう述べている。「俳句とはあるがままの万物を描くのではなく、詩的行為において自然の秩序を破壊し、さらには新しい秩序の創造がなされなければならない」「俳句とは、詩的破壊と詩的創造を、真正面から挑戦すべき詩である」(「俳句あるふぁ」、二〇一四年六-七月号、毎日新聞社)俳句の作者が我々の言語秩序を大胆にも破壊し、言葉を並びかえ、新たな秩序として創造する時、読者は日頃生きている世界の不確かさと危うさを知る。それは、ここにいるものいないもの、やがて離れるもの、そしてあるはずのものがないという空虚感へとつながっていく。

鳥渡る人に離郷の荷の少し

風船の明るき色を遠く飛ばす

種なくて心細くもあり葡萄

 対馬康子俳句において永久に続くものは、すなわち抜け出せない世界と同義である。

メビウスの帯の一周紫雲英摘む

 また、句集全体をイメージする色はと問われれば青と答えたい。

かなかなや掬えば消える海の青

一切の鏡の青き星今宵

淡く儚い青。それを冷静に見つめる作者のまなざしがある。絵画やインテリアデザインにおいては低温の印象を与える青ではあるが、火は高温になるほど青色に近づいていくという。

花万朶いつも向うに人焼く火

この花万朶はきっと限りなく白に近い薄い桜色だろう。青白い火の色が花の色にも通ずることは次の句を見ても確認できる。

火のごとく抱かれよ花のごとくにも

星の色にも青がある。ほの白さをまとった青。

天狼を河が流れて来たりけり

青白い対馬康子俳句の世界において、赤とは全くの真逆であり非日常の色であるのだろう。

穴を出る蛇真赤なり大地震

母亡くすこと人並みに蟻赤し

 以上、句集『竟鳴』の作品を通じて、対馬康子氏の破壊から生まれる新しき詩世界を堪能して筆を擱く。

(平成二十七年十二月 渡部有紀子)

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