俳句におけるシンクロニシティー

https://ivory.ap.teacup.com/tuneaki/437.html 【「良い俳句と思える句を正しく理解するために…」】より

     俳句におけるシンクロニシティーとは

              児 島 庸 晃

 先日のことであるが、ある目的のために歩いていたのだが、この暑さのため身体が思うように動かなくなり暫し戸惑うことになる。大変なことにならないように身体を休めていると普段は気づいていなかったのだが、顔を上げたその時、目の前に噴水があり、そこで身体を冷やすことになる。これは私の脳裏にはなかったことである。私の危険を救ってくれたのは、この噴水であった。そのことは、たまたまそこに噴水があったといううことなのだが、これは予期した出来事ではなかった。…これら一連の状況をシンクロニシティーと言う。シンクロニシティーを和訳すると…意味のある偶然の一致。

 そこで俳句の世界にもこれと類似した状況があるのではないかと追及してゆくと、私たちが見慣れているのに気付かないことが一杯存在しているのである。そして良い俳句だと思われる句には、このシンクロニシティーが関わっていることがわかってきたのである。俳句を感覚的に表現するのに、或る一つの目視物体から生ずるものより、いろんなものを連想すのだが、その基本になっているのが潜在意識である。作者は自分自身の体験の中にあるものである。それを作者の中に存在している潜在意識と言うのだが…。その潜在意識を顕在意識に展開して連想すのが俳句である。この時にシンクロニシティーの思考が働くのである。意味のある偶然の一致と言う発想が最初の連想に次の連想を重ねて句そのものの深みを強めるのである。この言葉の由来は1858年パウリ=ユングの書簡の「共時性」「同時性」の意味を含むものであった。 

  またトンボに生まれようかな赤とんぼ 

                山口砂代里

 合同句集『阪神心景』より。この句はプラス思考の理念の作者の意思を強く感じる句である。この句の何処がシンクロニシティーなのかなのだが、それは俳句言葉「またトンボに…」と「赤とんぼ」である。二つのとんぼの「共時性」「同時性」と言われる意味のある偶然の一致である。作者が最初に目視したのは「赤とんぼ」であろう。この「赤とんぼ」の俳句言葉から連想が始まり、作者の心の中での連想が、あれこれいろいろと駆け巡ったのであろうと私には思われる。結局最後に定着した俳句言葉が「またトンボに…」だったのだろうと私には思われる。「またトンボに…」の言語には作者の心理的な葛藤が思われ読者は作者の優しい素直な気持ちに強く心を託すことになるのである。ここに表現される意味のある偶然の一致と言うシンクロニシティーの思考がなければ俳句としての深い思いが感じられてはいなかっただろうと私には思われる。

潜在意識が作者の心中に思い出を含んで籠り続けているときがある。ふとしたきっかけで意識が顕在意識として目覚めることがある。この時点で作者にはその潜在意識を基本としての連想が目覚めるのである。…これが意味ある偶然の一致なのである。所謂、シンクロニシティーなのである。次の句を見ていただきたい。

 

  風花を父の手紙と思うまで   飛永百合子

 「歯車」339号より。この句は第五回東京多摩地区現代俳句協会賞受賞作品30句の中の一句である。この句は作者の心中に父との思い出が籠り続けていたのであろう。それが「父の手紙」なのだろうと私は思う。何がシンクロニシティなのかだが、その俳句言葉とは「風花」と「父の手紙」なのである。「父の手紙」は作者の心の中にあって、いつも脳裏から離れずに籠り、尚も今も大切に保持しているのであろう。ここでの目視物は「風花」。ここより連想が始まるのである。作者の故郷である宮城県の「風花」を思い、作者と一緒に暮らしていた父へと連想は広がるのだ。そして娘のことを思う父の優しい暖かさが一杯綴られた手紙へと連想を広げ、それら一連の心の連想が意味ある偶然の一致として結実するのである。この一連の流れの中にある緊張感は読者の心へと暖かさを保って流れ込む。ここには連想が連想を生み、次の連想へとつながり読者を飽きさせないで楽しませている。これらは偶然の一致と言うシンクロニシティーの効果なのである。

 シンクロニシティーを検証していて、私にも驚いたことがある。偶然の一致は同時に類想類句を生むこともあるのだ。これには私も困った。何故かと言えば盗作問題へと発展するからである。次の句をどのように理解するかだが、私にもどのように思考すれば良いのかはよくわからない。

  滝の上に水現れて落ちにけり   後藤夜半

  滝の上人あらわれて去りにけり  原  城、

 この二句だが、どちらの句も「ホトトギス」の虚子の選に入っているのである。原城の句は昭和二年作、後藤夜半の句は昭和四年作である。だが、一般には後藤夜半の句の方がよく知られていて原城の句は知られず存在感はない。この二句の「共時性」「同時性」だが、ここでの上五では後藤夜半、原城、二人共に「滝の上」。中七では後藤夜半の「水現れ」、原城は「人あらわれ」、そして下五では後藤夜半の「落ちにけり」、原城の「去りにけり」である。意味のある偶然の一致を追求していても形式は全く同じである。だが、私は思うにここでの違いは作者個々の意識の中にある思考において、その連想の相違がよみとれるのではないかと。二人の俳人が同じ目視物「滝の上」に焦点を合わせても、後藤夜半は「水」を連想し、原城は「人」を連想しているのである。この連想の注視点の興味が違っていて、ここには風味の強さの魅了が、作者の個性になっているのである。…類想類句をただ単に同じものだとは断定できないのである。良い句と思われる俳句には似たような作品が沢山ある。それはシンクロニシティーのもつ条件…意味のある偶然の一致を連想の中に求めるからであろう。この体験は私自身にもある。私の「青玄」時代のことなのだが…。

  遠くへは跳べぬバネにて あめんぼう  

                 児島庸晃

  遠くには跳ばぬときめて あめんぼう 

                 佐野二三子

 この二句とも類想類句だと主張し続けた俳人がいた。佐野二三子さんの俳句が「青玄」誌上に発表されたのは、私の俳句が「青玄」誌上に発表されてから六ヶ月後のことである。勿論、伊丹三樹彦主宰の選を得てのことである。このときいろいろな抗議が佐野二三子さんところに届いたとのことで、佐野二三子さんからの謝罪とこの句の取り消し削除の手紙が私へ届いた。だがいま私が思うに類想類句だとは全く未だに思ってはいない。おそらく三樹彦主宰も類想類句だとは思ってはいないと思う。だから入選「青玄」誌上記載したのだろうと思う。何故かだが、目視物は二人共に「あめんぼう」である。この二句の「共時性」「同時性」だが、私は「跳べぬ」。佐野二三子さんは「跳ばぬ」と思考のポイントが異なる。更に思考の方向が、私は「遠くへは」。佐野二三子さんは「遠くには」と個性の幅の広さの相違がある。このように同じ「あめんぼう」を目視しても思考の重さや深さの違いがあり、故に類想類句にはならないのである。

 このような類想類句の紛らわしい問題を含むこともあるのだが、やはり良い俳句には偶然の一致と言う発想が読者を深い連想へ誘い込むのである。…これらの連想を強める発想をシンクロニシティーと言う。かって赤尾兜子はこれら一連の俳句を第三イメージ理論の中で述べていた。兜子は連想によって引き出された第一イメージに第二イメージを重ね、これにより第三イメージを生むのだと、理論を述べている。所謂、意味のある偶然の一致…シンクロニシティーと言うことであろうと、私は思うのである。兜子はソシュールの「言語論」を借りた言葉を、度々口にしていた。「ことばは語られるが対者に訴え、指示する力がなくなってしまった」と兜子は語る。ことばの復権である。ことばは二つの意味をもつ、つまり表示されるものと表示するもの。表示するものはより具体的な概念であり、表示されるものは隠されたもの(非物質)である。この二つの意味を背負った一つの言葉こそ詩のことばと規程してみせたのだ。

 表示するものはより具体的な概念であり、表示されるものは隠されたもの(非物質)である。 

 この兜子の言葉は目視物へ向かってのものは現実のもの。つまり表示されたものである。これにより連想が作者の中で起こり、表示されるものを生むのである。これは意味のある偶然の一致…シンクロニシティーといううことなのか。

  帰り花鶴折るうちに折り殺す   赤尾兜子 

句集『歳華集』より。「帰り花」とは小春日のころに返り咲く花をいう。二度咲き狂い咲きのイメージもある。この句で意味ある偶然の一致とは「帰り花」と「鶴」である。目視しているのは「鶴」であるが、ここから連想が始まり。「鶴折る」へと思考が進み「折り殺す」へたどりつくのである。ここでの第一イメージは「鶴」。第二イメージは「折り殺す」。そして第三イメージの連想が「帰り花」なのである。このように連想を重ねて第三イメージを引き出し、意味のある偶然の一致…シンクロニシティーを三つ作っているのである。これは作者の個性でもあるのだが、より深みのある重い主張を意識的に作っているのである。連想より生まれたイメージに更に重い連想を次のイメージに重ねてもっともっと重い連想を読者に流し込むこと、これそのものが意味のある偶然の一致…シンクロニシティーなのである。

 連想の面白さとは何なのか。ふと私は、その面白さとは、と考え込んでしまった。一つの動作から人間の心理まで呼びこんてしまうのである。それが意味のある偶然の一致…シンクロニシティーなのであるかもしれないと、思うまでにも私を追い込む。人間の行動、或いは動作から、物品の固有物までものイメージを広げてしまう。これこそ兜子の第三イメージ論なのであろうか。

  ジャンケンポン勝って貰ったチョコレート  

                    宮腰秀子

 「歯車」388号より。この句は俳句らしい句ではない。だが立派な俳句である。何故なのか。作者の連想がイメージの積み重ねで出来ているのである。従来の伝統形式の思考の俳人にはどのように受け入れてよいかわからないだろうとも思う。連想と言うイメージの中に作者の心中の思考を込めて主張したものである。作者が目視したものは「ジャンケンポン」の動作なのだが、これより始まる連想は「勝って貰った…」なのである。更に連想は続き、いろいろ連想することはあったのであろうが、「チョコレート」へと広がり、ここで連想のイメージの積み重ねは落ち着き終了。愉しい心の遊びは、「チョコレート」の俳句言葉で心を満足させるに至るのである。この一連の連想を意味のある偶然の一致…シンクロニシティーと言う。

 連日の上昇気温のなかで熱中症になりかけた時、そこにあった噴水が危険を回避した偶然の出来事がきっかけとなり、意味のある偶然の一致と言うシンクロニシティーを知る。そのことを俳句に取り入れることの検証をしたのであるが、吃驚することに出会い俳句の味の深さに心の満足を得た今がある。

 良い俳句には意味のある偶然の一致…シンクロニシティーが働いているのだと知ることが出来た。その必然性も正しく理解出来るようになった私の現在がある。 

https://sengohaiku.blogspot.com/2017/03/tanshi37.html 【【短詩時評37戒】なかはられいこの覚悟、小池正博の十戒、表現者の決意/柳本々々】より

あれこれ本を読んでいると、たまたま違うひとが・同じ時期に・同じことを言っていた、というシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)に出会うことってありますよね。

このシンクロニシティは心理学者のカール・ユングが言っていた概念なんですが、ユングが人類の共通の基盤としての〈集合的無意識〉に眼を向けたように、偶然の一致というのは実はなんらかの背景や基盤が生成されているしゅんかんに起こるんじゃないかとも思うんです。なにかの背景が生まれているときに起こるものだと。

今回わたしが川柳においてみたのは、なかはられいこさんと小池正博さんの発言におけるシンクロニシティでした。

名古屋市のねじまき句会による『川柳ねじまき』3号が2017年1月に発刊されました。

  完璧な春になるまであとひとり  なかはられいこ

  つつつつつ、つっつっつっつあと少し  中川喜代子

  この町を毎日去っていく電車  瀧村小奈生

  幸福の王子の足もとに眠る  妹尾凛

  クリストファーと名付けたくなる朝がある  魚澄秋来

  ゴミ入れるゴミ箱もゴミ年の暮れ  安藤なみ

  湯気の中鎌倉大仏座り込む  犬山高木

  完成までカーブが続く枯野原  青砥和子

  おたがいの白の深さをたしかめる  米山明日歌

  向き合ってきれいに鳥を食べる夜  八上桐子

  もう少しで中途半端にたどり着く  三好光明

  絶望が袋の中で動いてる  丸山進

  飛行機雲すっきり伸ばす股関節  猫田千恵子

  まずは資料請求たんぽぽ咲く国へ  二村鉄子

『ねじまき』のみなさん各人がみずからのワールドを展開されているので『ねじまき』の特徴を一言で言い表すのは難しいんですが、あえて言ってみるならば、〈悪意〉だと思うんですね。

これは私も今言ってみて意想外だったんですが、ただ今各人の連作を読みながら自分の気になる句を一句ずつ抜き出していくそのなかで、〈悪意〉を感じたんですね。これは誤解されないように急いでいうといい意味での悪意です。世界をずらす力としての悪意(ちなみに私は現代川柳と悪意の問題はとても重要なのではないかと考えています。悪意は表現の源かもしれない)。

たとえば上のなかでは、安藤さんや八上さん、丸山さん、三好さんの句がわかりやすいかもしれません。ただ例えばなかはらさんの春の句にしても、春に対する悪意とみることもできると思います。春に「完璧」を求めるなんてそれはひとつの悪意なんですから。悪意とは、世界を〈斜めから見る〉まなざしです。

ところで、今回の『ねじまき』は今までと違い、句会の実況中継をやめて代わりに「ねじまき句会を実況しない」というなかはられいこさん、二村鉄子さん、瀧村小奈生さんの三人が川柳を具体的に「読むこと」について話し合う記事が載っています(ちなみにこの「実況しない」というタイトルも特徴的ですよね)。この記事でわかるのは「ねじまき句会」が非常に「読むこと」を意識/重視している句会であることです。作る、だけでなく、読む、ということについてもあわせて考える。それもねじまきの特徴だと思います。

「ねじまき紀行」という記事のなかでなかはらさんのこんな発言が紹介されています。

  「かく」の平仮名表記が議論の対象になった。「書」という題でも「描」という題でも出せる句である点で、どちらかに決める「作者としての覚悟が足りない」というなかはら発言が飛び出す。

短歌や川柳では表現としてあえてひらがな表記にすることがありますが、それは文脈によっては「覚悟が足りない」と思われることがある。ひらがなが多様性として効果を発揮することもあれば、表現者の決意の有無の問題として問われることもある。

ここでは、表現者としての〈覚悟〉が問われています。わたしたちはなにかをつくる際にそれそのものだけでなく、それをめぐる〈覚悟〉をかたちづくる必要がある。

この〈覚悟〉について偶然まったくおなじ時期におなじような発言をしていた川柳作家がいます。小池正博さんです。『川柳木馬』(150・151号合併号、2017年1月)に「川柳の言葉をめぐる十五章」という表現者のための十戒のような記事を書いています。小池さんの言葉から箇条書きにして私がまとめてみたいと思います。

  1、俳句と川柳との混淆をどう考えるか。俳句と川柳の混淆については歴史的な経緯があり、それを踏まえることなく作句するのはいかがなものか。

  2、口語と文語をどう使い分けるか。口語文体とはいま使われている話し言葉そのものではなく、どのような口語を使うかについては意識的でなくてはならない。

  3、どの言葉によって一句は川柳になるのか。どの選択によって類想を打ち破るのか。

  4、連作と単独作をどのように使い分けるか。どのように連作としての時間意識をつくっていくのか。

  5、意味か、イメージか。理屈だけでなく、イメージで想像すること。大胆な飛躍もふくめて。そこに読みの可能性もある。

  6、川柳で一人称をどう使うか。一人称を安易に使用すると効果がなくなってしまうことがある。「俺」も「僕」もどっちも使いたい、でいいのか。

  7、その言葉は本当に自分の言葉なのか。これまでの先行く表現者たちががもうそれは言葉にしていたのではなかったか。

  8、下五で答えを出してもいいのか。答えは完結になりそこで閉じてしまうこともある。いいのか。

  9、メタファーの句はもう古くないか。メタファーの書き方は便利だが、もう古いと思う。

 10、家族詠をどのように詠むか。誰でも詠む題材にもかかわらずどう新鮮さを出すか。

 11、どのように同じ単語を二度使うか。反復の問題。

 12、川柳で二人称をどう使うか。「君」や「あなた」をどう意識して取り入れる/取り入れないか。

これらはあくまで小池さんの言葉から私がまとめたものなんですが、小池さんはこの記事の最後にこんなふうに書かれています。

  さまざまな川柳があり、さまざまな書き方がある。借り物ではない「私の言葉」を発見することは表現の出発点である。既にこういうものだと知っている「私」ではなく、言葉に現れてくる未知の「私」である。

ここにも私は表現者の〈覚悟〉への問いかけがあらわれていると思います。

なかはらさんと小池さんの二人の覚悟をめぐる発言からわかるのは、なにか。それは覚悟というのは大上段からふりかざすものではなく、言葉の細かさに宿るものだということです。

なかはらさんはひらがな表記の話を、小池さんは句作の上での語彙の選択や組み立ての話をしていました。

覚悟というのは決して表現者の内面や心情の問題ではない。そこに近いんだけれども、でもそうでもない。言葉を配列し、組み立て、構成していく際の細かな部分にあらわれてくるものだ。そうお二人が言っているように思ったんです。そしてその細かさがだんだんに重ねられ、体系化されていくことで、その世界観ができあがってくるのだと。それを決意と呼んでもいいかもしれない。

現代川柳が他ジャンルを意識しながら多様化していく過渡期に、あらためて表現者の覚悟をめぐる発言がなかはらさんと小池さんから時期をおなじくして出たことはとても興味深いことだと思ったんです。

だから、おもったんです。本を閉じたときに。家をでるまえに。書いておかなければ、と。

  魅力的な作品に出会うたび、その一句がどのような経緯で生まれたのかを知りたいと思う。どのように言葉が選ばれ、どのように言葉と言葉が繋がれ、どのように一句として立ち上がったのか。知りたくてうずうずする。

  読むことは愛なのだ。

   (なかはられいこ「秋の真昼の品定め」『ねじまき』3、2017年1月)

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