俳句と人間中心イノベーション ―俳句の意義、そのひとつの可能性―

https://note.com/panda819/n/n08e59fdee109  【俳句と人間中心イノベーション

―俳句の意義、そのひとつの可能性―】より

真庭伸悟

 このページを開いていただいた皆さん、始めまして。真庭伸悟と言います。こういった雑誌に寄稿することは全くの初めてであり、俳句の嗜みはほとんどございません。川嶋と出会うまでは、「俳句って五七五だよね」「え?季語って何だっけ?」というレベルでした。

 私は、愛媛県の西南部にある松野町という町で地域おこし協力隊をしています。つまり川嶋の同僚です。彼が俳句を担当する一方で、僕は社会教育の分野から、「学び」を切り口とする町づくりの担当として活動しています。

 川嶋に誘われて句会に参加するようになったのですが、名句に直面したとき、心が震える感覚を覚えました。様々な人の読みを聞くうちに変わっていく味わい。たった十七音、その、想像の余地を絶妙に残して幕を引く芸術。「ことばあそび」にこんなにも広い世界が視えるとは、思ってもいませんでした。

 先ほども申した通り、僕は俳句や文学とは全く無縁の生活で、むしろ教育学や人材育成の分野への興味関心が思考の中心にあります。それゆえに、俳句の活動を見つめるときも教育の視点に偏りがちです。その立場から、「俳句にはイノベーション人材を作れる可能性がある。」と主張したいと思います。

 本稿では作句活動、特に、「取り合わせ」という技法・概念が、「人間中心イノベーション」及びそのための「デザイン思考」と通ずる部分が多くあることを示し、そこに自覚的になることで、「なぜ俳句を学ぶ(学ばせる)のか」に一つの答えを提示するところまで少し背伸びして試みてみます。

「取り合わせとモンタージュについておさらい」

 まずは、作句技法としての「取り合わせ」についておさらいします。

 今回は、角川文化振興財団の発行する「俳句」平成二十九年十二月号に取り合わせの特集が組まれていたため、そちらを参照しました。

 取り合わせは、季語と季語以外のものを並置させ、その関わり合いによって一つの意味世界を作る作句技法のひとつです。季語の意味から掘り下げていく一物仕立てに比べ作りやすいと言われ、世の中の句の大半はこれで作られている、と言っても過言ではないほどに多く見られる作句法で、「二物衝撃」「二句一章」などとも呼ばれます。(川嶋に「どうやって俳句つくるの?」と聞いたときに一番最初に習った方法でもあります。)

 しかし、二つのものをただくっつければ良いというものではなく、季語から容易に想像できるものを合わせた場合は「付きすぎ」、季語から想像することが全く出来ない場合は「離れすぎ」と言われ、二物が合わせられた際の良さが感じられなくなってしまいます。

 この感覚を、奥坂まやさんは「ブラウスとスカートを合わせるようなファッション」だと表現しており、様々な色や模様の服をとっかえひっかえしながら、「あ、これとこれは、ぴったり合うかも?」と感じさせる組み合わせを作るのが取り合わせだ、としています。

 (なお、この表現が多少の物議を醸したようですが、洋服に「定番コーディネート」があるように、「合わせる」という行為の良し悪しの評価をする際には一定のパターン化が見られるのは致し方の無い事だと私は考えています。もちろん評価は主観的であり、個人で異なるものでありますが、人々が同じ文化圏で生活できているという事は、「良い」と合意できるものに一定の統一性がある、という事ではないでしょうか。石原さとみは(日本人なら)誰が見ても美人だと思えて、コタツにみかんがあると手を伸ばしたくなるように。ただ「パターン通りに組み合わせれば」常に成功するというものでもないと思います。ファッションだって、同じ服の組み合わせでも似合う人も似合わない人もいますよね。十人十色、ケースバイケースです。最も大切なことは、「その組み合わせが最終的に成功したか否か」であり、「パターン」はそのための頼りになる「補助線」でしかないはずです。組み合わせの「パターン」を必要以上に礼讃したり糾弾する必要は無いのではないか、と私は思います。

 ただ、ファッションと違う点として、「季語に対しての理解が浅いと、本当に佳い季語が選べないところ」を奥坂さんは挙げています。

それぞれの季語の持っている宇宙を季語の「本意」と言いますが、例えば「桜」の季語の本意には、「美しい・儚い・もののあわれ・滅び・死」などの要素が入っています。したがって墓場と桜との取り合わせは、言わば見慣れたファッションとなって、新鮮味が無くなります。(同前、八十五頁)

 この、「本意の理解」が、素人ながらピンと来た所であり、今回の「人間中心イノベーション」にも繋がる話です。

 しかし、何度か句会に参加しているうちに、「この季語の本意は○○だから。」という言葉がよく聞かれ、暗黙の了解に基づく決まり事という性格があるのではないかと見受けられました。

 そこで、取り合わせの本質や「本意の理解」をより詳しく知るために、「取り合わせ」もその一例とされる「モンタージュ」について書かれた、宮城大学の日原広一さんの『モンタージュの定義と構造化―ヒトの心を動かすユニバーサルな法則について―』(「デザイン学研究」、二〇一一年)を参照します。

 そこでは、モンタージュの定義として、「徹底的客観によって心地よい響き合いを生じさせる人の心の機能」と紹介されています。

 「徹底的客観」とは、「唯物論的に言えば、客観の反映像である主観を、探索的仕業によってより鏡面化させ、より本質的客観を写し出そうとする感興」だ、と夏目漱石が『草枕』に示した「非人情」を引いて解説しています。つまり、桜に対して感じるこの気持ちは何なのだろう?という問いを、重ねて研ぎ澄ませて、何だ???と、探索していくことで、桜の本質的客観(表面には現れないけど誰もが納得しうる観方)を写し出そうとすることです。

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