宇宙めぐりの旅の扉を開く一句

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/15971358【「閑かさや」の句に秘められた真実】

https://ameblo.jp/manabunc/entry-12418763886.html 【芭蕉(1)】より

・・・現在、「風」にこだわって制作していると書いてきましたが、色や形のないものをどう表現するのか、おもしろい画題だと思っています。

《チコちゃんに叱られる》

http://www4.nhk.or.jp/chikochan/

・・・意識して視聴しているわけではありませんが、素晴らしい番組・企画だと当初から感心しています。先日、「シーンってなんで言うの?」という内容が放映され、深~く考えさせられました。

・・・初代チコちゃんから現在のチコちゃんに変更されたのは、どうやら奈良さんのキャラがからんでるようだというウワがあります。

・・・結果として、今のチコちゃんの方がいいなと思います。

・・・2016年度の主題派「大作展」テーマが「音」でした。真っ先ににイメージしたのが、芭蕉(1644~1694)「1689閑さや岩にしみ入る蝉の声」でした。

■『NHK 100分de名著』2013年10月号より

松尾芭蕉が山形県★立石寺で詠んだこの句は、『おくのほそ道』の中で大きな意義を持っていると俳人の長谷川櫂氏は言う。しかし、蝉が鳴いているのであれば、閑かというよりはやかましいのではないか——そんな疑問も浮かぶ。この句に秘められた意味を、長谷川氏が解説する。

山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

「岩に巌を重て山とし」とあるとおり、岩に岩を重ねたような山のところどころにお堂が建っています。古い山水画の空中にそびえる岩山を思い浮かべても、それほどまちがってはいない。ここで芭蕉が詠んだ「閑さや」の句は『おくのほそ道』の中で大きな意義をもっています。西脇順三郎(詩人、1894—1982)ふうに訳すと、

何たる閑かさ

蝉が岩に

しみ入るやうに鳴いてゐる

こんなふうになりますが、蝉が岩にしみいるように鳴いているのなら「何たる閑かさ」どころか、「何たるやかましさ」ではないか。

やかましいにもかかわらず芭蕉が「閑さや」とおいたのは、この「閑さ」が蝉の鳴きしきる現実の世界とは別の次元の「閑さ」だからです。そこで本文に目をもどすと「佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ」とあって「閑さ」は心の中の「閑さ」であることがわかります。芭蕉は山寺の山上に立ち、眼下にうねる緑の大地を見わたした。頭上には梅雨明けの大空がはてしなくつづいています。そこで蝉の声を聞いているうちに芭蕉は広大な天地に満ちる「閑さ」を感じとった。本文の「佳景寂寞として」、あたりの美しい景色はただひっそりと静まりかえって、とはそういう意味です。このように「閑さ」とは現実の静けさではなく、現実のかなたに広がる天地の、いいかえると宇宙の「閑さ」なのです。梅雨の雲が吹きはらわれて夏の青空が広がるように、突然、蝉の鳴きしきる現実の向こうから深閑と静まりかえる宇宙が姿を現わしたというわけです。『おくのほそ道』を読みすすめてゆくと、月(出羽三山)や太陽(酒田)や銀河(出雲崎/いずもざき)が次々に姿を現わしては去ってゆきます。「閑さや」の句はこの★宇宙めぐりの旅の扉を開く一句なのです。

・・・専門的に解説すると以上のようになるのですが、私たちが日常用いる「静か」と「閑(か)」との違いだと理解しています。

《かん【閑】(名・形動)[訓]ひま、しずか》

1用事がないとき。ひま。2実用的でない。むだ。3のんびりと落ち着く。ひっそりと静か。4★どうでもよい。いいかげん。

・・・辞書で調べると以上のように出てくるのですが、とりわけ「どうでもよい。いいかげん。」という意味もあったりして、アートだなあと気に入っています。

https://example.anjintei.jp/e5-haibun-ginganojo.html 【銀河の序】より

銀河の序

松尾芭蕉

越後の国 出雲崎といふ 処より、佐渡が島は 海上十八里とかや。

谷嶺の 険阻くまなく、東西 三十余里 波上に 横折れ伏せて、まだ初秋の 薄霧

立ちもあへず、さすがに 波も高からざれば、唯 手のとゞく計になむ 見わたさるる。

げにや此島は 黄金 あまた湧き出でて、世に めでたき島になむ 侍るを、むかし

今に 到りて、大罪朝敵の人々 遠流の境にして、もの憂き 島の名に 立侍れば、冷じき 心地

せらるるに、宵の月 入りかかる比、海の面 いと ほの暗く、山の形 雲透に 見えて、波の音 いとゞかなしく聞こえ侍る。

 荒海や

   佐渡によこたふ天の河

   佐渡によこたふ天の河

【通釈】

越後の国(新潟県)出雲崎という所から、佐渡が島は海上十八里だという。谷や嶺のけわしいところの隅々まで、東西三十余里の島が波上に横たわり伏していて、まだ初秋の薄霧が立つこともできず、(初秋ゆえ)さすがに波も高くないので、ただ手が届くほどの距離に見渡すことができる。

なるほど、この島は金が多量に湧き出して、実にすばらしい島であるが、昔もまた現在に至っても、重い罪を犯した者や朝敵になった人々が、遠く流罪となる地で、物憂い島の名が有名になったので、寂しい心地がされるのだが、宵の空にかかる月も西に沈むころ、海面はたいそうほの暗く、山の形が闇をすかして見え、波の音がいっそう悲しくきこえてくる。

日本海の荒波を隔てて、流人の島佐渡が島が横たわり、天の川がそのうえにかかっている。七夕の夜ゆえ空の二星も年に一度逢うというが、島に流された人々は、どんなにか故郷を思い、あの星を仰ぐことか。

【出所 】

吟詠教本 俳句・俳文・俳諧紀行文・俳諧歌・近代詩編 76~81頁に収載されたもので、『真蹟懐紙』による、最後の発句「荒海や」は『蕉翁文集』には欠けていると説明されている。

https://chikara.hateblo.jp/entry/2020/08/12/160949 【松尾芭蕉「銀河の序」と大星哲夫】より

 連日の猛暑には参ってしまいます。

 コロナがなければ、今年は友人と鳴子温泉から山刀伐峠、尾花沢、立石寺を訪ねてみようと思っていましたが、取りやめて9月に弥彦から寺泊、出雲崎という近場を訪ねることにしました。その下調べをしているうちに、「銀河の序」についてブログに書こうと思い立ちました。

 芭蕉は『奥の細道』では、ほとんど越後(新潟県)のことは書いてくれませんでしたが、「荒海や佐渡に横たふ天河」の序文ともいえる「銀河の序」という独立した文章を残してくれました。

 「銀河の序」の句文には多くのバリエーションがありますが、ほぼ二種類に大別できます。一つは「ゑちごの駅出雲崎・・・」という文で、出雲崎の芭蕉園には、その芭蕉の真蹟を写した碑が立っています。もう一つは「北陸道に行脚して・・・」という文です。以下に二種類の全文を示します。

 ゑちごの駅出雲崎といふ処より、佐渡がしまは海上十八里とかや。谷嶺のけむそ(嶮岨)くまなく、東西三十余里によこをれふして、また初秋の薄霧立もあへず、波の音さすがにたかからず。ただ手のとどく許になむ見わたさる。げにや此しまはこがねあまたわき出て、世にめでたき島になむ侍るを、むかし今に到りて、大罪朝敵の人々、遠流の境にして、物うきしまの名に立侍れば、いと冷(すさま)じき心地せらるるに、宵の月入かかる比(ころ)、うみのおもてほのくらく、山のかたち雲透にみへて、波の音いとどかなしく聞え侍るに

 荒海や佐渡によこたふ天河

 北陸道に行脚して、越後の国出雲崎といふ所に泊る。彼(かの)佐渡がしまは、海の面十八里、滄波を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり。みねの嶮難谷の隈々まで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。むべ此嶋は、こがねおほく出て、あまねく世の宝となれば、限りなき目出度(めでたき)嶋にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるるによりて、ただおそろしき名の聞えあるも、本意なき事におもひて、窓押開きて、暫時の旅愁をいたはらむとするほど、日既に海に沈で、月ほのぐらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴たるに、沖のかたより波の音しばしばはこびて、たましゐけづるがごとく、腸ちぎれて、そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、墨の袂なにゆゑとはなくて、しぼるばかりになむ侍る。

 あら海や佐渡に横たふあまの川

 比較すると、私は文意が明確な後者の方がいいと思います。

 芭蕉が「銀河の序」を書いてから、多くの詩人墨客が出雲崎を訪ねたようです。俳人では東華坊支考、廬元坊里紅(支考の弟子)、摩詰庵雲鈴など、頼三樹三郎(頼山陽の第三子)、十返舎一九、亀田鵬斎(書家・儒学者)も訪ねています。

 出雲崎といえばまた良寛の出身地でもあります。出雲崎で亀田鵬斎は良寛と出会い、親交を結ぶことになります。二人は次のような戯句を作っています。

 新(あら)池や蛙とび込む音もなし    (良寛)

 古池やその後飛込む蛙なし        (鵬斎)

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 ここまでは、ほぼ昭和53年(1978年)に出版された、大星哲夫氏の『越後路の芭蕉』(冨山房)から引用して書きました。大星氏は新潟県の高校の教員をしていた方で、すでに亡くなっています。大星氏は『越後路の芭蕉』の自序で、『奥の細道』を研究するようになったのは東北大学の飯野哲二教授から奨められたからであると述べた後に「爾来、私は今日まで二十八年間、江戸(東京)を起点に美濃の大垣まで、細道の全域を歩いた。多い所は七八回、少なくも一回は足を運んでいる。地名を挙げても芭蕉自身は都合で行っていない所、例えば、姉歯の松・をえだの橋・金華山・佐渡が島など、『細道』の本文に出てくる所はすべて踏査をすませた」と書いています。生前、大星氏は論文を三十篇以上も発表されたようですが、出版された本はこの『越後路の芭蕉』だけのようです。

 大星哲夫氏の死後、御子息の光史氏が『越後路の芭蕉』の簡易版ともいうべき『越後路の芭蕉ズームイン』(考古堂)を出版しています。光史氏は『越後路の芭蕉ズームイン』のあとがきに次のように書いています。「毎年、夏休みになると、その二十日間ぐらいは、この奥の細道探訪に向けられる。連休やら、わずかな余暇を利用して写真機とリュックサック、時には、自転車を汽車で目的の場所に運んでおいて、各所を巡った。おそらく、同じ土地を平均五、六回は行っている筈である。写真も一万、二万といったケタ外れの枚数になったりした。父のやり方は、実地踏査――実際にその場所に行って、土地をみ、郷土史家と接し、地図と日時のこまやかな点まで照らし合わせ、文章内容で納得、一致を見ない限り引き下がらなかった。退職して、老衰と病に倒れるまでこの踏査はつづいた。母に言わせれば、父の「奥の細道」調査は、家族泣かせであり、金喰い虫以外の何ものでもなかった。芭蕉、奥の細道に関係の書は棚をいっぱいに飾り、何台かの新しい写真器具、材料は、次から次へと購入された。毎年、数十日にわたる旅、父のエネルギーと財力――といってもたかが知れているが――すべてここへと向けられた。まさに執念というほかはない。厖大もない費用の割に、そこから得る収入はゼロであった。にもかかわらず、父にとって、これは、人生の何よりの生きがいであり、最高の仕事と自認していた。」

 大星哲夫氏は、全生涯を『奥の細道』の研究に捧げた人と言ってもいいようですが、奥さんもよくその大星氏を支えたものです。大星氏の地道な調査は、越後路の芭蕉研究の先駈けとなった優れた研究です。感謝するしかありません。

 それにしても今の高校教師には、こんな研究をする自由(時間)はありません。40日はあった夏休みは、今はせいぜい4週間くらいですし(今年はコロナの影響で2週間くらいしかないようです)、その4週間の中に補習があり部活指導があり、研修もあります。自由に旅行ができるとしたらお盆の期間だけという状況です。普段の休日も、部活指導などで休めない状況にあります。1日の授業時間も増え、過労死ラインを超えて勤務している教師がいっぱいいます。こんな状況ですから、研究どころか授業の準備すら十分にしない教師が多くいます。確実に教師の学力レベルは下がっています。そこを問題にしないのは、全く不思議です。教師には研究もできるような自由(時間)が必要です。もちろん時間があっても大星氏ほどに研究に打ち込む教師は1万人に一人、いや10万人に一人かもしれません。それでも今よりも勉強に時間を割く教師は増えるでしょう。教師が研究できる環境が、教師の為にも、生徒の為にも必要で、教師が最高の仕事と思って研究している姿は、必ず生徒にいい影響を与えると思います。現役の教師の中に、研究することが面白くて、生徒に教えることがまた面白くて、教師という仕事に生きがいを感じている者がどれだけいるでしょうか。日々の仕事に追われて、惰性的に教えている教師が多いように思います。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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