句調はずんば舌頭に千転せよ

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/32522890 【俳句は感情と理性の調和した真言(スートラ)】

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日本からタツ(龍)がいなくなった日

縄文時代の日本にはタツ(空の龍)とミツチ(海の龍)という生き物がいました。タツもミツチも、人が危ない場面におちいった時、その命を助けてくれる存在でした。でもこの生き物が音読みで「リュウ」と呼ばれるようになると、忽然と消えてしまったのです。日本の国はコトタマ(言霊)の国といわれ、一音一音をとても大切にしていたので、タツというコトタマとリュウという音では全く違う世界(生命)が生まれてしまうのです。日本古来のコトタマはそれ自体に音以上の意味が込められているのです。ヲシテ文字でタツやミツチと書いて見ると、その意味がわかると思います。

http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/post-266.html 【声のひびきと意味】より

 空海は言語の人であった。その言語とは、存在の場のあらゆるひびきを感知し、そこに潜む意味を洞察し、新たなかたちと空間と作用を生み出すための創造媒体としてのはたらきを為すものであった。(その言語による創造性は、今日の科学や工学、それに経済学が理論によって生まれたことに相似する)

 それに引き替え、わたしたち凡人の言語は、言語のはたらきのベーシックな部分、つまり、自己の思いとその思いの伝達、それに知識を得るために用いられる。しかし、それらは本来の言語のもつちからを充分に発揮しているものなのだろうか。今日のいわゆる活字の意味だけがやり取りされる文明には何かが欠けている。その辺の文明への疑問を含め、本論考では言語の原点となる存在の場で発せられる声のひびきと意味について、空海の説く「六大(ろくだい)無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり:物質要素と意識はさえぎるものがなく、常に結び付き、一体のものである」との理論に学び、その考察を進め、言語の有するもう一つの原初的なちからを確かめたい。

 ヒトはこの世に生を受け、声を発し、意思をもち、世界を識別し、コミュニケーションを取り合っている。その声は、吸う息が鼻と口を通って肺に入り、酸素を体内に取り入れ、そして、吐く息が喉を通って口の中のまるみと舌と歯と唇のうごき、それに鼻に抜けるひびきによって出されるのである。

 空海はその声のひびきを分類し

(1)「ア(a)」は、万物のひびきの元であり、そのひびきは固体<地>の存在があって、その形状の中を生命の息が吹き抜けるときに立てる普遍の音とする。(したがって、生の母胎にもともと存在する声である。「ア字本不生」)

(2)「バ(va)」は、言語による識別によっては伝えられない生命の無垢の意識を伝えるひびきを示し、生命の誕生と維持に欠かせない清らかな液体<水>に比すべき意味をもつ。

(3)「ラ(ra)」は、あらゆる生命活動が物質の燃焼よって成就しているひびきを示し、そのひびきの源が清らかなエネルギー<火>のちからであることを表わす。

(4)「カ(ha)」は、あらゆる事象の原因と条件を超克するひびきを示し、そのひびきの本体が気体<風>であることを表わす。

(5)「キャ(kha)」は、宇宙そのものの虚空のひびきを示し、そのひびきは空間<空>の存在によって生じることを表わす。

(6)「ウン(huum)」は、上記のひびきのすべての意味を悟ったとのヒトの意識<識>を表わす。

と説いた。

 以上のようなひびきを根幹として、言語が形成されているのだから、言語の伝える(気持ち・状況・万象の名称・概念・文脈等の)根底には、それらの根幹のひびきの意味が必ず宿っていると空海は洞察したのだ。

 例えば、万象には色彩とかたちとうごきがあるが、それらをヒトは五感によって知覚し、識別し、赤・青・黄、円い・四角い、早い・遅いと言語にする。そして、対象を指して赤いものがあるいう。しかし、もともとの自然界にはそのような分別はなく、それらは、ヒトが対象を観察し、その印象を上記の声音のひびきにあてはめ、そのひびきの差異を聞き分けるようになり、言語が生まれたのである。であれば、ヒトの認識を司る言語の根底には、自然と生命と精神の共鳴する原初のひびきが必ず伴っている。その聞き取ることのできるひびきは「ア」から始まり、「ウン」までの根幹的な発声音の組み合わせによって生じたものである。

 つまり、ヒト科における言語発生の初期段階で、知覚したモノ・コトによってこころに生じる快・不快を基本として、そのことが惹き起こす気持ちの落ち着きとたかぶり、意志のちからと慈しみの感情等、そのこころのうごきが体験した事柄を分別する発声音となった。やがて、その声音が標準化し、共通の声音となり、意思疎通のできる言語として編纂された。その言語の基礎となる発声音をまとめたものが表音文字である。

 その文字、一字一字を見て、人類の原初声音のもつ森羅万象に通じるひびきの意味を、空海は鋭敏に感知することができる人であった。そのちからに比べれば、その後の言語の発達によって付加されたさまざまな名称や概念には何のちからもないに等しい。(空海の唱える真言とは、そのひびきのちからそのものかと考察できる)

 さて、そのような意味をもつかと思われる真言がインド古代のサンスクリット語<梵字(ぼんじ)>のひびきであることは承知しているが、その発声音を基礎としてまとめられた日本語の表音文字(「あいうえお」を母音とする「かな文字」)、その一字一字に、もともとのひびきの意味を求めることは今日でも可能なのか、以下はそのことの試みである。(識別と概念によって慣らされてしまった言語感覚を、声音のもつ原初のひびきのちからとして見直すことによって、空海の説くところの世界に少しなりとも近づいてみたいと思う)

 口を開いて最初に出る声音「あ」:生命力

 歯を結んで出す声音「い」:意志

 口と鼻から同時に静かに息を吐き出す声音「う」:落ち着き

 鼻から空気を吸い込み瞬時に口から出す声音「え」:動揺と強調

 口をまるめて息を出す声音「お」:慈しみ

 以上の生命力と感情のうごきを示す母音の「あ」行

 あ(A)・い(I)・う(U)・え(E)・お(O)

 歯を食いしばり、原因と条件を克服するちからを示すひびき「か」行

 か(KA)・き(KI)・く(KU)・け(KE)・こ(KO)

 息をゆるやかに口と鼻から吐いて、流れ移る様を示すひびき「さ」行

 さ(SA)・し(SI)・す(SU)・せ(SE)・そ(SO)

 一気に鼻から空気を吸い込み、気持ちのたかぶりを示すひびき「た」行

 た(TA)・ち(TI)・つ(TU)・て(TE)・と(TO)

 息を鼻に抜いて、気持ちを自他に取り次ぐ様を示すひびき「な」行

 な(NA)・に(NI)・ぬ(NU)・ね(NE)・の(NO)

 はっきりと口を開き、息を吐き出し、事象の真理を示すひびき「は」行

 は(HA)・ひ(HI)・ふ(HU)・へ(HE)・ほ(HO)

 ゆるやかに鼻から空気を吸い込み、唇のうごきによって隠されたちからを示すひびき「ま」行

 ま(MA)・み(MI)・む(MU)・め(ME)・も(MO)

 すぼめた唇と鼻からゆるやかに息を出し、物事の例えを示すひびき「や」行

 や(YA)・ゆ(YU)・よ(YO)

 舌を使い、音を加工し、美しさと清らかさを示すひびき「ら」行

 ら(RA)・り(RI)・る(RU)・れ(RE)・ろ(RO)

 鼻から静かに空気を入れると同時に口から静かに出し、物事の穏やかさを示すひびき「わ」行

 わ(WA)・を(WO)

 口を結んで鼻から一気に息を出し、これですべてであることを示すひびき「ん」

 言語による識別を超えた存在の様を表わすひびき

 が・ぎ・ぐ・げ・ご

 ざ・じ・ず・ぜ・ぞ

 だ・ぢ・づ・で・ど

 ば・び・ぶ・べ・ぼ

 事象の真理を慈しむ様を表わすひびき

 ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ

 事象の強さを表わすひびき

 ぎゃ・ぎゅ・ぎょ

 じゃ・じゅ・じょ

 ぐぁ・ぐぇ・ぐぉ

 どぁ・どぇ・どぉ

 空間の中での存在のちからの状況を表わすひびき

 きゃ・きゅ・きょ

 流れ移る状況を表わすひびき

 しゃ・しゅ・しょ

 たかぶりの状況を表わすひびき

 ちゃ・ちゅ・ちょ

 うぁ・うぇ・うぉ

 ゆるやかな状況を表わすひびき

 にゃ・にゅ・にょ

 ふぁ・ふぇ・ふぉ

 真理の状況を表わすひびき

 ひゃ・ひゅ・ひょ

 隠されたちからの状況を表わすひびき

 みゃ・みゅ・みょ

 清浄なる状況を表わすひびき

 りゃ・りゅ・りょ

 真理を慈しむ状況を表わすひびき

 ぴゃ・ぴゅ・ぴょ

 <五大(ごだい)にみな響(ひびき)あり>

  物質の形状によってあらゆるひびきが生じる。

 <十界(じっかい)に言語を具す>

  そのひびきの違いによって、それぞれに違った世界が形成されている。

 <六塵(ろくじん)ことごとく文字なり>

  ヒトはその違いを五感と意識によって感受し、声音のひびきに表して、それを文字とした。

 <法身(ほっしん)これ実相(じっそう)なり>

  したがって声音文字の中には、世界の原初のひびきがあるがままにして存在する。

                        (空海著『声字実相義』より)

 世界の本質は言語の論理によっては識別できないというのが、ナーガールジュナ(龍樹、紀元二世紀、大乗中観派の論者)の『中論』の考察による帰結である。その識別に因らなくても、言語にはもともとの原初のひびきによる意味がある。そのひびきを感受するところにあるがままの世界が実在するというのが空海の理論である。その感受性によって、ヒトは言語による識別の迷いを超克できると空海は教える。(そしてそこには、もう一つの言語のちからによって生きるヒトの無垢なる生活の営みがある)

あとがき

 今日の脳科学によれば、大脳言語野の左脳によって主に言語のはたらきを為し、その対となる右脳においてはからだの所在する場の空間認知のはたらきをしているという。そのことは、本来、モノ・コトの起きている実在する場があって、それらをまず、右脳によってイメージし、そのイメージよって言語が生まれたことを要因とする。

 ところが、言語による識別が進み、その言語によって世界観が築かれるようになると、実在する場がなくても言語<概念>だけによる学習とコミュニケーションの場が現出することになった。左脳主体でヒトビトは生きるようになったのだ。それが今日の文明である。しかし、ヒトのからだは自然そのものであり、自然環境と共に生きることによって生存を許されている。そこに精神の深遠なるふところもある。生存環境が失われてはヒトの立ち位置となる場はない。その実在する場と知性のバランスを空海が千二百年前に言語のひびきとして説いていたのだと思う。

 本論考はそのことを知るための一つの試みとなった。ヒトは言語のひびきのもつ感性によっても生きている。その対極にあるのが言語によって識別された事柄を用いて世界を捉え、文明を築いている理性である。両方の能力によってヒトは生きている。分断してはならない。空海の説くすべての根本がそこにある。

https://www.youtube.com/watch?v=sjUC4WZuq5w

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