俳句談義 戦時中の高浜虚子・文芸家としての良心

http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/02/post-0c81.html 【俳句談義(5): 戦時中の高浜虚子・文芸家としての良心】より             

2月11日は「建国記念の日」であり、2月22日は高浜虚子の誕生日である。そこで、今回は戦時中における文芸家・俳人としての虚子の良心の在り方について考える。   

(青色文字をクリックして関連の解説記事をご覧下さい。)

「俳句は好き好き、人も好き好き」である。俳句を第二芸術と言った桑原武夫は昭和五十四年四月号の『俳句』(角川書店)において、「虚子についての断片二つ」という記事に次のとおり述べている。

   

「アーティストなどという感じではない。ただ好悪を越えて無視できない客観物として実に大きい。菊池寛は大事業家だが、虚子の前では小さく見えるのではないか。岸信介を連想した方がまだしも近いかも知れない。この政治家は好きな点は一つもないが」

   

上記の記述を引用して、虚子のことを「A級戦犯でありながら戦後に総理大臣まで上り詰めた『岸信介を連想した方がまだしも近い』というのは、けだし、桑原の明言であろう。」と言っているブログがある。

(中田雅敏著『人と文学 高浜虚子』「夜半亭のブログ」参照)

   

しかし、このブログの記述には誤りがある。岸信介は「A級戦犯被疑者」であったが、A級戦犯ではない。ウイキペディアの解説によると「即時停戦講和を求めて東条内閣を閣内不一致で倒閣した最大の功労者であること[3]などの事情が考慮されて不起訴のまま無罪放免されている」のである。  

それはともかく、高浜虚子は深慮遠謀でホトトギス俳句王国を確立したという点で「俳界における徳川家康だった」という気がする。

    

ドナルド・キーンさんは高浜虚子の戦時下の俳句について、『日本文学史』において次のように述べている(抜粋「mmpoloの日記」参照)。

「虚子の保守性は一部の俳人を遠ざけたが、同時にまた多数の俳人を『ホトトギス』派に引き寄せた。こうして、『ホトトギス』は全国に広まり、俳句は20世紀の日本の生活と文学におけるさまざまな変化にもかかわらず、生きのびることができたのである。

・・・(省略)・・・

戦時中の虚子の作品は、当時の他の文学の病的興奮とは対照的に落ち着いた、超越したものだった。」

        

      

「虚子俳句問答(下)実践編」(稲畑汀子監修・角川書店発行)を見ると、「戦時下の俳句」という章に読者の質問と虚子の回答の記載があるが、戦時中の虚子の俳句に対する考え方や戦争に対する姿勢の一端がわかる。次にその幾つかを抜粋して記載させて頂く。

      

(質問)

現下の如き非常時局下に暢気のんきに俳句でもあるまいと・・・(省略)・・・悩んでいる・・・(省略)・・・ご教示願いとう存じます。(奈良 吉本皖哉 昭.⒔2)

(回答)

俳句は他の職業に従事している人から見ると、慰楽の為に作るとも考えられるのでありまして、御説のような感じの起こるというのも、ご尤ももっともでありますが、・・・(省略)・・・画家が画を描き、文章家が文を属し或は俳優が演技するのと一般、少しも恥ずるところはないのであります。・・・(省略)・・・現に戦地にある人々も、干戈かんかの中で俳句を作って、送って来ておるではありませんか。

   

(質問)

ホトトギスの雑詠に従軍俳句が相当たくさんある様になりました。戦争という特殊な境地をうとうたものは、所謂いわゆる戦争文学として雑詠より分離して別に纏めまとめられたらと思いますが、如何でしょうか? (大阪 中村秋南 昭.⒔9)

(回答)

戦争文学として、これを特別に取り扱うことは親切なようであって、返って不親切になる結果を恐れるのであります。雑詠に載録する位の句でなければ、戦争俳句として取り扱うことも如何かと、考える次第であります。

    

(質問)

文芸報国の一端として今回の事変発生以来、ホトトギスに戦地より投句したる戦争俳句、内地よりの事変に因む銃後俳句のみを蒐集しゅうしゅうし、これを上梓じょうししては如何。好個の記念になると思う。(大阪 行森梅翆 昭.⒔9)  

(回答)

上梓するのは、事変が落着して後の方がよかろうと思います。

     

(質問)

最近の新聞に依よりますと、虚子先生を会長に俳句作家協会が生まれます由、俳壇での新体制についてご指導に預かる私どもの句作上について、何か心構えとでもいう事はございませんのでしょうか。(大分県 三村狂花 昭.16.2)

(回答)

重大な時局下にあるということを認識した上で、唯ただ佳句を志して従前通りのご態度でご句作になれば結構だと思います。

      

また、「添削」の省の「誇張せず自然に」という項では戦時下の俳句について次のような質疑応答がある。

   

(質問)

「兵送る初凪や埠頭旗の波」「兵送る初凪埠頭や旗の波」

何れが句として調っておりますか。・・・(省略)・・・(沖縄 大見謝雅春 昭.13.3)

(回答)

こういう場合は「旗の波」は割愛してしまって、「初凪の波止場に兵を送りけり」とでもするより他に仕方がないでしょう。少し平凡ではありますけれども、それに旗の波を加えたところで大して斬新な句になったというでもありません。寧むしろ、格調のととのった方がよろしいと思います。

     

    

(チュヌの主人のコメント)

この質問・回答の掲載された前年昭和12年には軍歌「露営の歌」が大ヒットしたそうである。

この歌の歌詞には「進軍ラッパ聞くたびに瞼(まぶた)に浮かぶ『旗の波』(1番)」という文句があり、

「馬のたてがみなでながら明日の命を誰か知る(2番)」

「死んで還れと励まされ覚めて睨(にら)むは敵の空(3番)」

「笑って死んだ戦友が天皇陛下万歳と残した声が忘らりょか(4番)」

「東洋平和のためならばなんの命が惜しかろう(5番)」

など、戦争を謳歌・賛美して戦意を高揚させ若者を駆り立て死に追いやった文句が並んでいる。

虚子はこの軍歌を連想させる「旗の波」を俳句に詠むことを良しとせず、「初凪の波止場に兵を送りけり」と、「出征して行く若者のことを思いやりながら送り出すしみじみとした俳句」にすることを教えたのである。

「初凪」と「送りけり」が呼応して出征兵士の無事を祈る気持ちが感じられ、戦意高揚を謳う原句とは全く正反対のニュアンスがある。

「八紘一宇」「東洋平和のため」「大東亜共栄圏のため」にとその理想的な目的を純粋に信じてその実現に命をささげた若者も多くいただろう。

その意図に反し戦争に伴う非道な行為もあったことは全く残念なことである。筆舌に尽くし難い戦争の悲惨・犠牲・被害を思うと黙しているわけにはいかない。    

現在もテロとの戦いやウクライナの停戦問題など国際情勢は常に流動的である。有事の備えをし、且つ、平和主義を徹底する基本的な政策が必須である。安倍首相は「積極的平和主義」に基ずく外交を推進しようとしているが、「真に世界平和の実現に寄与するにはどうすればよいのか」「集団的自衛権の行使はどうあるべきか」、与党と野党が時間をかけて議論して国民の理解・合意を得るようにしてほしい。国民の理解を得ずして外国の理解を得ることは期待できない。

単に政治家やマスコミに任せるだけでなく、一人一人が日本の平和・世界の平和を維持することを真剣に考えてそれを政治やマスメディアに反映させることが大切である。

日中戦争・太平洋戦争の犠牲となった人々のことを思い、墨塗り教科書で勉強をした戦中・戦後の体験者として戦争を知らない世代に政治に関心を持ってほしいとの思いから、つい「俳句談義」が「政治談議」のようになったが、本論に戻ろう。

              

「坊城俊樹の空飛ぶ俳句教室」の「虚子と戦争」に次のような記述がある。

「終戦直後、新聞記者に俳句はどのように変わったかと問われた虚子は、

『俳句はこの戦争に何の影響も受けませんでした』と答えたといいます。そのときにその記者があわれむような目をしたと言っては、虚子は笑っていました。」

    

「虚子俳句問答」における読者と虚子との質疑応答を読むと新聞記者の質問に対する上記の虚子の答えは納得できる。

虚子は自分が日本文学報国会の俳句部会長として戦争を賛美することなく花鳥諷詠の文学を堅持し、時代の流れに掉さすことも流されることもなく、文芸家・俳人としての良心を貫いたのだと思う。 

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