井口時男が読む「教科書の俳句」 第7回 高浜虚子④ ――花鳥諷詠の功罪

https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/shou/kokugo/document/ducu7/c01-00-007.html  【井口時男が読む「教科書の俳句」第7回 高浜虚子④ ――花鳥諷詠の功罪】より

流れ行く大根の葉の早さかな  高浜虚子 季語:大根(洗ふ) (冬)

切れ字:かな

〇詠嘆の「かな」と第三者性

昔、中学生のころだったか、この句を初めて読んだとき、ああよくわかる、と思った。

家の前の消雪用を兼ねた細い流れのほとりにしゃがんで母や祖母が大根を洗っている。雪国の冬支度だ。子供の私もたまにその傍らにしゃがんで手伝いのまねごとをしたりする。ところが、どんなに注意しても葉っぱがもげて流れてしまう。葉っぱ一枚だって漬物になる。あっと思って手をのばすがもう間に合わない。山裾の傾斜地だから流れが早いのだ。

しかしやがて、どうも虚子の句は私の体験とは違うようだと気づきはじめる。

大根洗いの当事者である私の体験に即して言語化すれば「流れゆく」ではなく「流れ去る」だ。「流れゆく」はすでに出来事から距離をおいて眺めている人の視線である。しかも事態を俯瞰している。なにより「かな」という詠嘆が決定的だ。当事者の口からは絶対に「かな」は出ない。

「かな」は魔法の言葉だ。末尾に「かな」と置いたとたん当事者性が消えてしまって、我がことであっても一幅の絵を見ているような距離感が生じる。「ゆとり」といってもよい。そのとき、芭蕉なら〈馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉〉(二つ目の「ぼく」はくの字点)と詠むだろうし、漱石が自ら「俳句的小説」と称した『草枕』なら一瞬にして実現する「出世間的な詩味」「非人情の天地」というだろう。「かな」はこうして、「人情」の中で日々あくせくしている状態から心を離脱させてくれるのだ。その一瞬(だけ)、いわば「小我」が「放下」されるのである。俳句は「ゆとり」の文学だというその秘密のいっさいが「かな」に凝縮しているようではないか。

とにかく、「かな」の詠嘆は傍観する第三者のものだ。母や祖母があかぎれを作りながら大根洗いしているのを「山村の初冬の風物」だとか「画になる」(『草枕』)だとかいいながら懐手でながめているよそ者のまなざしである。そう気がついたときから私にはこの句がつまらなくなった。

〇主客未分と無思想性

大根の葉の流れる原因である水辺での大根洗いという習俗はもうほとんど見られなくなったが、それを別にすれば、平明きわまりない、解説なしで誰にもわかる句だ。

昭和3年(1928)11月10日の東京郊外の吟行の際の句。実際、虚子はこのとき小さな橋の上から水流を見下ろしていたらしい。

「フトある小川に出た、橋上に佇むでその水を見ると大根の葉が非常な早さで流れて居る。之これを見た瞬間に今まで心にたまりたまつて来た感興がはじめて焦点を得て句になつたのである。その瞬間の心の状態を云へば、他に何物もなく、たゞ水に流れて行く大根の葉の早さといふことのみがあつたのである。流れゆくと一息に叙した所も、一にその早さにのみ興味が集中されたからのことである。」(改造文庫『句集虚子』自序 昭和5年)

「他に何物もなく、ただ⋯⋯」は、前回〈白牡丹と〉の項で引いた「大自然と自分と一様になつた」(「写生俳句雑話」大正12年=1923)主客未分化の状態に近いだろう。虚子にとっての理想的心境だ。だが、虚子の俳句の急所もやはりこの一点にある。

山本健吉『現代俳句』(昭和26年)はこの自序を引いたうえでこう述べている。

「作者の心は、瞬間他の何物もない空虚さが占領する。よく焦点をしぼられた写生句であり、『ホトトギス』流の写生句の代表作とされるゆえんであるが、その場合この写生句が、精神の空白状態に裏付けされいることを認めねばならぬ。」

山本はほぼ虚子の自己解説を受け入れている。だが、「『ホトトギス』流の写生句の代表作」だという定評を認めたうえで、「空虚さ」「精神の空白状態」と付け加えるところには微妙な批判意識がうかがえる。肯定と留保と、山本の態度はアイロニカルだ。

山本が留保したものを明確に打ち出せば、この「空虚」「空白」は虚子の「無思想性」「非社会性」の源泉だということになるし、さらに「痴呆状態」といったきつい評言にもなり得る。現に平畑静塔「昭和の西鶴――虚子の俳人格とその作品――」(昭和27年 『俳人格』所収)は、虚子を「芭蕉に次ぐ者」とし、「虚子の俳句は、蕪村や子規のはるか上位に立つもの」と讃辞を贈ったうえで、しかし山本の見解を踏まえて、「一種の痴呆美の俳句」だといい、「俳人は痴呆でいいのである」などと続けている。

「虚子のこの大根の俳句は、他のいかなる芸術をもってするも置き換えることはできないのである。一見痴呆の見事なる細工ともいえぬことはないであろうが、俳人は痴呆でいいのである。」

静塔は、こんな「痴呆美」を完璧な作品にできるのは俳句だけだ、「人格」まで俳句そのものになってしまった虚子だけだ、というのである。静塔はまた、俳句は「社会変化にほとんど関知しない奇型の文学」であり、それゆえ「悲しき文学」だ、とも書いている。では、かつて虚子の「無思想性」「非社会性」に飽き足らず新興俳句運動に身を投じた静塔の、これは虚子に対するアイロニカルな讃辞だろうか、それとも精いっぱいの皮肉だろうか。

いずれにせよ、山本健吉も平畑静塔も、この〈流れ行く〉に対してはアイロニカルにしか語れないらしいのだ。この句には、評者をアンビヴァレントに引き裂く何かがあるようだ。

すべてはあの主客未分状態に由来するのだろうと思う。

観照(観想)の果てに到達する主客未分状態には、対象から分離された自己というものが存在しない。だから、対象に対する批判的分析もないし自己に対する反省的意識もない。そもそも知性というものの働く余地がない。知性の働きは自己と疎遠なものとして対象を措定するところから始まるものだからだ。その意味で、主客未分状態はまさしく「空虚」、まさしく「空白」、まさしく「無思想」、まさしく「痴呆」なのである。

しかも、〈流れ行く〉の句にはなんの趣向もないし言葉や表現の工夫もない。現象そのままの「流れ行く大根の葉の早さ」に詠嘆の「かな」を付けただけだ。このとき「かな」は、しばし覚めやらぬ痴呆的な放心状態そのものの「余韻」の表示にほかなるまい。

主客未分状態は言語化不能の状態である。しかし、俳句も言語芸術である以上、言語化不能なその状態を言語化せざるを得ない。しかも定型の調べに載せて季語を用いて。そこでは言語化するために意識的に言葉を工夫すればするほど主客未分状態から遠ざかってしまう、という背理が往々にして生じがちだ。

しかしこの〈流れ行く〉はほぼ無技巧であるために、かえって、原初の主客未分状態を最もよくとどめているともいえるのである。おそらく、山本健吉や平畑静塔の強いられたアイロニーとアンビヴァレンスはそのことに由来する。

〇花鳥諷詠と客観写生

さて、この昭和3年、虚子は「花鳥諷詠」ということを言い始めていた。

花鳥諷詠とは「花鳥風月を諷詠するといふことで、一層細密に云へば、春夏秋冬四時の移り変りに依つて起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります。」(『虚子句集』自序 昭和3年)

俳句の対象は「花鳥風月」、季節の推移とともに生じる「自然界の現象」だと虚子はいう。しかし、厳密にいえば自然現象すべてではなく、有季定型の俳句という小さな器が許容できて、かつ、美意識によって選別された自然現象なのだというべきだろう。その意味で、「花鳥風月」という美的自然の精髄は、和歌から連歌へ、連歌から俳諧へ、俳諧から俳句へと受け継がれて、歳時記に網羅されているのだ。

そしてまた、虚子の理想が観照(観想)の極みで到達する主客未分状態であることからも、対象は制限されざるを得ない。つまり、花鳥諷詠には、白牡丹や大根の葉のように、こちらに危害を及ぼさない静止的自然こそふさわしいことになる。同じ自然現象でもクマやイノシシに遭遇したらそうはいくまい。王朝末流の美意識を生きた吉田兼好は、和歌の美学について、「おそろしき猪ゐのししも『ふす猪ゐの床とこ』といへばやさしくなりぬ」(『つれづれ草』)と書いていたが、和歌の「雅」に対して「俗」を選んだ虚子の写生俳句においても、観照(観想)の対象になれるのはこちらをおびやかさないおだやかなものだけなのである。「花鳥諷詠」は静的自然を得意とし動的自然を苦手とするのだ。

碧梧桐〈赤い椿〉の項で書いたように、虚子は関東大震災の句を詠まず、門下にも詠むのを禁じたというが、その一班の理由もここにあるだろう。大震災は大地も揺らすが人の心も大きく揺らしてしまうのだ。さらに震災は、人間の生活を揺らし、社会を揺らす。(仄聞するところでは、現代においても、東日本大震災後、震災の句は詠むな、と門下に指示した伝統俳句派の「大家」もいたそうだ。)

なるほど虚子は人事を排除しているわけではないが、あくまで自然界の現象に「伴ふ」限りにおける「人事界の現象」である。もちろん、イノシシや震災ならずとも、生きている人間は何をしでかすかわからないのだし、政治まで含む社会現象はなかなか観照(観想)の対象にしにくかろう。虚子の写生はおのずから「非(避)社会的」たらざるを得ないのである。

虚子は「諷詠」については格別の解説をしていないようなので、要するに定型の調べに載せて句を詠むことだと思っておけばよさそうだが、その詠み方を規制するのが客観写生説である。

つまり、「客観写生」は「いかに」詠むかという技術論であり、「花鳥諷詠」は主として「何を」詠むかという対象の規定である。だから二つは矛盾するものではなく、両者相まって、大正後期から昭和期の虚子の俳句論の根幹を形成することになる。つまり、〈白牡丹と〉も〈流れ行く〉も、ともに客観写生句であり、花鳥諷詠句である。

(もっとも、「諷詠」はやや主情的でウエットな語感があり、「客観」の方はドライだという微妙な違いはあるのだが、それはここでは追究しない。虚子自身は、「客観」を説きながら「余韻」も必要だという言い方でこの違いを補正していた。その見本が〈白牡丹と〉の句である。)

〇生々流転と自然随順

『金子兜太 俳句を生きた表現者』の準備で金子兜太の文章を読んでいた時、こんな一節に出会って不審に思ったことがあった。

「『流れ行く大根の葉の早さかな』――大根の葉を徹底して客観したとき、虚子のこころは大根の葉とともに自在に流れていた。それだけである。そして、そこに、いつまでも温ることのない非情の眼が、流転の相を底ふかく映していたのである。」(金子兜太「「虚子の『客観』」昭和43年 『定型の詩法』所収)

写生句であるはずの〈流れ行く〉に「流転の相」などという仏教的な観念を読みこんでしまうのはばかげている、俳句の世界に「現代=二十世紀」をもたらした金子兜太ともあろう者がなぜ、まるで〈古池や蛙飛びこむ水の音〉に禅の悟達の境地などを読んで芭蕉を神格化した月並宗匠みたいな読み方をしてしまうのか、それが不審だったのだ。

だが、「流転の相」とは虚子自身が述べていることなのだった。

昭和31年(1956)のタイトルもずばり「生々流転」という短文で、虚子は自ら〈流れ行く〉の句を引いたうえで、こう書いていた。

「大根は二百十日前後に蒔き土壌の中に育ち、寒い頃に抜かれ、野川のほとりに山と積まれて洗はれるのであるが、葉つぱの屑は根を離れて水に従つて流れて行く。水は葉をのせて果てしなく流れて行く。こゝにも亦た流転の様は見られたのである。」

兜太は虚子のこの自己解説をそのまま受け止めていたのだ。(もちろん、兜太の論は、虚子の方法ではもう現代は描けない、と展開していくのだが。)

作者の自己解説を鵜呑みにしてはならない、そもそも作者の自己解説など参照する必要もない、というのが私の批評の立場だが、虚子のこの述懐を疑う必要はなさそうだ。昭和5年に作句時を回想して「之を見た瞬間に今までにたまりたまつて来た感興がはじめて焦点を得て句になつたのである」と書いたその「たまりたまつて来た感興」の内容が「生々流転」ということであったのかもしれないから。そしてたしかに、「生々流転」は虚子の人生観、自然観の根底の思いであったようだから。

たとえば、兜太も言及しているのだが、早くも大正4年(1915)の「落葉降る下にて」の末尾にはこんな一節があった。

「山川が静かにありの儘を其掌の上に載せて居れば時は唯静かに其等のものの亡び行く姿を見せるのみである。其処に善も無ければ悪も無い。」

温泉場に宿泊して仕事しながら、日々の出来事や心境を書き綴ったこの文章の中心には、幼い我が子の死を始めとする死というものに対する感懐がある。その結びがこの一節なのだ。

これこそ究極の自然随順である。そして、日本人である我々は、川のほとりで水の流れを指して孔子が言ったという「逝く者は斯かくのごときかな、昼夜を舎おかず」(『論語』)を思い出したり、鴨長明の「ゆく川の流れは絶えずして」(『方丈記』)を思い出したりして納得する。水の流れに生々流転、世の無常を連想する思想は我々の伝統に根ざしている。

しかし、虚子みずからの解釈とはいえ、これでは寓意的解釈というものではなかろうか。写生句は本来、寓意的解釈など必要とせず、それだけで一小世界の活写として自立すべきものではないか。そしてまた、もし我々が虚子の自作解説など知らずにこの句を読んで、無常観の表現だなどと解釈したとすれば、それは芭蕉の〈古池や〉に禅の境地を読みこむのと同じく、写生句というものを知らない過度な観念的解釈だと批判されるのではないか。そもそも子規の近代俳句は、そういった月並宗匠連の観念的解釈を排除することから始まったのではなかったか。さらに、流れ行く大根の葉が生々流転の寓意であるならば、桐一葉の落葉を詠もうが初霜を詠もうが、季節の移ろいを詠む句はすべて生々流転の寓意句だということになるのではないか。そういう無数の生々流転の句の中で〈流れ行く〉が格別すぐれた句である理由はどこにあるのか。もしそれが無常観の伝統的言説を踏まえているからだというのであれば、同じ理由で、新鮮味のない月並な観念だということにもなるのではないか。

〇写生のトリヴィアリズムと「意味」

みんな「かな」に眩惑されているのだ、という気がする。何の趣向も描写の工夫もない小学生にもわかる平明な句だからこそ、ひたすら末尾の「かな」が表示する「空白」に思い入れをして虚子の言外の観念をさぐるしかない、そのためついつい虚子の自己解説を参照してしまう――これはそういう句なのである。

私は実は、この句に対しては、〈古池や〉について子規が「芭蕉雑談」(明治26年)で述べた評言がそのまま妥当するのではないかと思っている。

子規は、〈古池や〉は談林的な技巧の中をさまよっていた芭蕉にとって、平明なことを平明に詠めたことが画期的だったのだが、実は句としての良し悪しを定め難いタイプの句なのだという。だからこの句を「無類最上の句」だとする人がいても「平々淡々香も無き臭も無き尋常の一句」だとする人がいても不思議ではない。この句はただ現象の「ありの儘を詠ぜり、否ありのまゝが句となりたる」ものであって、それ以上でも以下でもない。そして、「文学なる者は常に此の如き平淡なる者のみを許さずして多少の工夫と施彩とを要するなり」、つまり、芭蕉のほんとうの「佳句」は別にある、と述べていたのだった。

私自身は虚子の〈流れ行く〉は「尋常の一句」だとする立場だが、それはさておき、ここにはもう一つ写生句なるものの重要な問題がある。平畑静塔が、〈流れ行く〉は花鳥諷詠句の「極致」だとしたうえで、「極致」とはとりもなおさず「高度トリヴィアリズム」だと述べた問題である。

「社会にもまた自己そのものにもかかわらずに、眼前の些事に執着するということは、虚子に始まった一つの俳句作法である。」(平畑静塔「昭和の西鶴」)

写生句は自然(花鳥風月)の一小片をありのままに(客観的に)切り取るものだが、一小片は一小片にすぎず、ついに思想的意味も人生的意味ももちえないのではないか、という問題だ。その無意味性に耐えきれないからこそ、この句に対して、評者たちは「かな」に過剰な思い入れをしたのだし、虚子自身も、一小片は「大自然」に通じる(〈白牡丹と〉の項参照)などと自己弁護しながら、しかしその小片性に安住できないから生々流転の相などという過大な意味を持ちださざるを得なかったのではないか、と私は思うのだ。

〇再び平凡なるものの擁護について

さて、虚子が「花鳥諷詠」を言い出した昭和3年はどういう年だったか。

すでに大正末年から、一方にロシア革命に刺激された革命のための文学(プロレタリア文学)があり、他方に大震災後の都市改造で出現したモダン都市東京の新風俗に取材したモダニズム文学があり、2月には初の「普通選挙」が実施され、無産政党の進出を恐れた権力による大規模な選挙干渉があり、3月には共産党員の一斉検挙(三・一五事件)があり、4月と5月には第二次・第三次山東出兵があり、6月には張作霖爆殺事件(満洲某重大事件)があって軍部の独断専行が始まり、治安維持法に死刑と無期刑が追加され......という年だった。

いくぶんの皮肉もこめて言うのだが、虚子の「非(避)社会的」な花鳥諷詠説は、結果的に、こうした社会的歴史的暴風から俳人たちを保護する役割をもったのである。俳人たちも社会人として実生活では暴風に襲われざるを得ないが、「平凡」の擁護者としての虚子の庇護下にいる限り、彼らの俳句表現は無風でいられたのだ。

そしてまた、「社会にもまた自己そのものにもかかわらずに、眼前の些事に執着する」(平畑静塔)虚子の指導は、多数の作家や詩人を苦しめた「自己表現」という近代文学特有の甘い毒の誘惑からも俳人たちを守ることになった。そうやって保護された「平凡」なる人々が「ホトトギス」の広大な裾野を形成したのである。

最後に、虚子の句集『五百句』から、大正末期から昭和初期にかけての句を十句掲出しておく。なるべく花鳥諷詠にして客観写生に添う句を選んだが、前回の〈白牡丹といふといへども紅ほのか〉(大正14年)と今回の〈流れ行く大根の葉の早さかな〉(昭和3年)は除いた。

棕しゆ櫚ろの花こぼれて掃くも五六日  (大正13年)

晩涼に池の萍うきくさ皆動く  (大正13年)

橋裏を皆打仰ぐ涼すずみ舟ぶね  (大正15年)

底の石ほと動き湧く清水かな  (大正15年)

巣の中に蜂のかぶとの動く見ゆ  (昭和2年)

わだつみに物の命のくらげかな  (昭和2年)

やり羽ば子ねや油のやうな京言葉  (昭和2年)

旧城市柳りう絮じよとぶことしきりなり  (昭和4年 *満洲旅行中の句)

石ころも露けきものの一つかな  (昭和4年)

蜘蛛打つて暫しばらく心静まらず  (昭和5年)

ちなみに、虚子にも当事者的な大根洗いの句はある。

大根を水くしやくしやにして洗ふ  (二つ目の「くしや」はくの字点)

我が少年時代のような傾斜地の水流ではなく平地の水辺のようだし虚子自身が大根を洗っているとも思えないが、こちらの句は当事者に寄り添っている感がある。「水くしやくしやにして」が私は好きだ。

〇拙句

私はまだ大根の葉の句を作ったことはないので大根の花を。

花大根雪駄の似合ふ男ぶり  (「鹿首」12号)

私の暮しにはもう大根を引くことも洗うこともない。そして、この雪駄の似合う男も、残念ながら、私ではない。「花大根」は諸葛菜(仲春)を指すこともあるが、ここでは大根の花(晩春)である。黄色い菜の花は野趣ある女、白い大根の花は野趣ある男、というのが私のイメージだ。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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