https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/shou/kokugo/document/ducu7/c01-00-006.html 【井口時男が読む「教科書の俳句」第6回 高浜虚子③ ――客観写生の功罪】
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白牡丹といふといへども紅ほのか 高浜虚子 季語:牡丹(夏)
切れ字:(なし)
〇客観写生の名句
大正14年(1925)の作。白牡丹の美しさに心奪われて見入っていたら、やわらかな花びらの襞々ひだひだの中にほのかな紅色の差しているのに気づいた、というのだ。まことに優艶。エロティックにさえ感じる。「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」(『三冊子』)とは芭蕉の言葉だが、虚子はこの時、白牡丹というものの「ひかり」をたしかに見たのにちがいない、とも思う。
むろん、見ること(発見)と言い止めること(表現)は両輪である。
「白牡丹」は音読みして「ハクボタン」。だから「紅」も音読みして「コウ」。音読みはとかく硬質に響くが、「いふといへども」とゆったりつないで「ほのか」と止めた効果によって、むしろふっくらとやわらかい印象だ。とりわけ、初五「白牡丹と」の字余りから中七「いふといへども」へと流れるしらべが絶妙である。
「いふといへども」は一見すると論理だけに見える。今日のハウツー式俳句作法なら具体的映像をもたない言葉は避けよとでも言われかねないが、ここには映像(空間)がない代わりに七音分の時間がありしらべがある。この微妙に滞留し屈曲する論理とともに、「白牡丹は白い」という先入観を訂正するために要した時間、かすかな気づきから疑いようのない確信に至るまでに要したわずかな時間がたゆたっているのだ。そのたゆたいのしらべそのものが作者の情感のゆらぎとして読者に伝わるのである。
この時期、虚子は「客観写生」を唱えていた。短歌の半分ほどの音数しかない俳句は主情表現には向かないから、もっぱら事物をよく観察して客観的に描出するよう努めて、作者の主観は叙述の背後からおのずとにじみ出てくるのがよい、というのがその基本である。
おわかりのように、主観の言葉を極力控える客観写生句は、ともすれば余韻を失って無味乾燥になりがちだ。虚子自身「客観の写生は無味乾燥に陥り易い、主観のうるほひのある句が欲しい、といふ要求は屢々しばしば聞く」(「俳句所感」大正10年)と述べている。しかし、背後にたっぷりと主観の「うるほひ」をたたえたこの〈白牡丹と〉を前にすれば、そんな不満は霧散するだろう。
虚子が求めるのは「平明にして余韻ある句」(同前)、だから「清新なる客観描写を試みて、而も平明なる句を得るのでなければ、未だ其技倆に至らぬもの」(同前)ともいう。〈白牡丹と〉の客観描写こそは「清新」にして「平明」。まさしく虚子自身が理想とする客観写生の名句である。
〇客観写生説の諸相
前回の虚子〈春風や〉の項で述べたとおり、大正4年(1915)から長期連載したエッセイ「進むべき俳句の道」で、大正前期の「ホトトギス」の主観性尊重時代の成果を誇らしく回顧した虚子は、大正6年(1917)8月号の連載末尾に至って、唐突に、「客観の写生」を忘れてはならないと記して擱筆していた。この時虚子は、主観性尊重から客観性重視へと大きく舵を切り始めたのだった。
この時点では、あくまで門人たちの主観性への偏向を是正するという機敏な状況的判断に発する教育的発言、指導の方便だったのかもしれないのだが、以後、エッセイや談話でしきりにこの問題を論じるようになり、やがては「客観写生」という術語も用いるようになる。そうやって繰り返されるうちに、状況論を超えた俳句本質論めいていったし、方便だったはずのものが原理原則のようになっていった。しかも虚子がその基準によって「ホトトギス」の選句をするのだから、門下にとっては遵守すべき金科玉条と化してしまう。
こうして、大正前期が「ホトトギス」の主観性尊重時代だったのに対して、大正後期は一転して客観写生の時代になる。それによって「ホトトギス」は隆盛を迎えたが、そこには弊害も生じることになった。
客観写生説は、俳句の詠み方の指導という意味では技術論である。だが、背後には虚子の俳句観があり、さらには人間観や自然観がある。その意味で、客観写生を補強するために虚子の語った言葉の含意するところが私には興味深い。
たとえば、「丁度科学者がものを取扱ふのと同じやうに、事実を少しも枉げずに、事実そのものに興味を持つて描く」(「写生俳句雑話」大正12年)
客観写生は「科学的」なのだ。だから科学者が観測データを改竄してはならないように「事実を少しも枉げ」てはならない。いわば虚子の科学主義であり事実主義である。
これを厳格に実践すればいっさいの虚構の否定になり、ひいては一句を構成するための「趣向」そのものの否定に通じる。作者に許されているのは素材の取捨選択の自由ぐらいしか残るまい。しかもこれでは、作品評価の根幹で事実そのままかどうかが問われるから、作品は作品としてではなく、背後にある事実への忠実性で(作者以外の誰も背後の事実など知らないのに)評価されてしまうことになる。
実際、虚子はこうも述べる。「芭蕉や蕪村の句は、客観の事実に重きを置く立場から見ると、不真面目だ」(「写生俳句雑話)
俳句を「文学」に昇格させるために、俳諧時代のダジャレやパロディといった「不真面目」な遊戯性を排除する姿勢は子規から始まっている。しかし、虚子はさらに、いっさいの虚構の排除にまで推し進めてしまうのである。こうして客観写生は、おそるべきリゴリズム(厳格主義)、まことに不自由で窮屈な倫理(道徳)主義になってしまう。
さらに、「此この壱百号間の俳句の進歩は、一に此の写生の技倆に在る」(「俳句所感」大正10年)
「ホトトギス」の二百号から三百号への「壱百号間」は、ほぼ、虚子が〈春風や闘志いだきて丘に立つ〉を詠んで俳壇復帰した大正2年から大正10年までの期間である。
また、「客観的事実に興味を持つて句にすることは、近代が最も発達してゐる。芭蕉、蕪村の想像しなかつたことを遣つてゐる、といふことは、近代人の大いに誇りとしていゝことだ」(「写生俳句雑話」)
「ホトトギス」は主観性の表現によって「恰あたかも百花が一時に咲き乱れたやうな偉観」を現出したと誇っていた(「進むべき俳句の道」)のを虚子はすっかり忘れてしまったかのようだ。こうして主観尊重時代は「ホトトギス」の歴史から抹消されて、一路客観写生に向けての「進歩」の歩みへと「修正」されてしまうのだ。
虚子は体系的に思想の全貌を語ることはなかったが、科学主義や事実主義とこの進歩主義はリンクしているとみてまちがいない。要するにリアリズム(写実、写生)の立場に立った近代主義なのだ。
かつて子規によってその主観性を高く評価され(碧梧桐〈赤い椿〉の項)、その子規に対して堂々と「空想趣味」を擁護し(〈桐一葉〉の項)、俳壇復帰後は主観尊重によって子規や碧梧桐の客観偏向を正したのだと豪語していた(〈春風や〉の項)虚子の、何という変貌ぶりか。
しかし、俳人の観察発見能力や俳句の描写能力など、科学者の観察発見能力や精細な記述能力に比べれば児戯に類するし、そもそも近代を科学主義やリアリズムの観点だけからとらえるのは一面的でまちがっている。近代は自然科学発達の時代であると同時に、身分制や国家の束縛から個人を解放した時代なのであり、自由という価値を発見した時代なのでもあったはずだ。虚子が抑制を要求した主観表現とは近代芸術が掲げた「自己表現」のことにほかならず、それは個人主義や自由主義と連動しているのだ。
主観性と客観性という問題は近代特有のものだ。神の視点を斥けた近代は個別の人間の主観的な視点からしか出発できないため、客観性(真理)の認識がいかに可能かが近代認識論の難題となって、この難題をめぐる苦闘が、デカルト、カント、フィヒテ、ニーチェ、フッサール等々、近代哲学高度化の原動力ともなったのである。そして、そうした哲学者たちの苦闘を尻目に、実証科学(自然科学)という実践的で工学的な唯物論が客観性(真理)をあっさり占有してしまった、というのが今日までのおおまかな経過である。
客観性重視と主観性重視は、芸術思潮では、リアリズムとロマン主義(その変形としての象徴主義や表現主義)の対立として、やはり芸術表現を高度化してきた。両者は互いに矛盾相克しあいつつ近代の思想や表現を推進してきた両輪なのである。かつて客観表現に秀でた若き碧梧桐と主観表現に優れた若き虚子の二人が子規門の両輪だったように(碧梧桐〈赤い椿〉の項参照)、といってもよい。
その子規は、〈柿食へば〉の項で書いたとおり、「空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず。空想に偏僻へんぺきし写実に拘泥する者は固もとよりその至る者に非あらざるなり」(『俳諧大要』明治28年)と述べていた。空想(主観)と写実(客観)の両者相まってこそ俳句表現の高度化は可能なのである。
子規はまた、自らの写生説に引き寄せて称揚した蕪村について総合的で包括的な論考『俳人蕪村』(明治30年)を書いて、蕪村の美の特色を六つに分類して芭蕉と対比していた。そこでは、「客観的美」は六つのうちの一つにすぎず(芭蕉は「主観的美」)、しかもまったく反対の「理想的美」もちゃんと挙げていたのだった。「理想的」とは「人間の到底経験すべからざること、或は実際有り得べからざることを詠みたるもの」、すなわちまったくの虚構、「空想」にほかならない。その反対の「実験的」は実体験に基づくということ、つまりは写生の基本であり、しかも芭蕉の特色とされている。子規は複眼的であり、公正公平なのだ。
その上で子規はこう書いている。
「文学の実験に依らざるべからざるは猶絵画の写生に依らざるべからざるが如し。然れども絵画の写生にのみ依るべからざるが如く文学も亦実験にのみ依るべからず。写生にのみ依らんか絵画は終に微妙の趣味を現す能はざらん。実験にのみ依らんか尋常一様の経歴ある作者の文学は到底陳套ちんたうを脱する能はざるべし。」
『俳諧大要』で述べたことと同じである。子規は客観性と主観性が俳句という芸術においても両輪であることをよくわかっていたのだ。写生は俳句の必要条件ではあっても十分条件ではないのである。その意味で、虚子の客観写生説はあまりに一面的で偏頗狭隘な説だといわざるを得ない。
〇虚子の「形而上学」と非(避)社会性
子規によれば、「実験」と「写生」だけでは「微妙の趣味」(「微妙」とは得も言われぬほど美しいこと)が表せず「陳套」(陳腐)を脱せられない。それはとりもなおさず客観写生説の弱点でもある。
虚子自身も自説の負の側面は承知していたようだ。
たとえば、客観写生説に従う俳人はもっぱら小さな自然の観察写生に終始することになって瑣末主義に陥るのではあるまいか、という予想される疑念に対しては、虚子はこう答える。
たとえ「菫一本猫一匹」であってもそれは「自然を貴ぶ」ことであり、「なまじひ自己の主観などに重きを置かないで、大自然の懐に安住するやうな心持である。小さい自己を立てようとする努力を一切擲つて、大自然の一行を忠実に写生しようと志す所に人間の大きな念願が無ければならぬ。」(「『題詠選集』雑記(三)」大正12年)また、「大自然と自分と一様になつた時に写生句が出来る」(「写生俳句雑話」)とも。
俳句作法上の問題の具体性を回避して観念論に逃げこんだ気味あいもあるが、「小さい自己」、すなわち「小我」を棄ててこそ大自然と一体化した大きな自己、すなわち「大我」に到達できるというのだろう。自然随順の形而上学だ。
このとき、客観写生はまるで「悟り」への日々の(安楽安易な)修行実践みたいなニュアンスも帯びる。もともと俳諧は中世隠者文学に淵源する脱俗性(非社会性、避社会性)を抱えこんでいたが(隠者が俗化すれば横丁のご隠居だ)、その近代バージョンだといってもよい。
「大我」なるものが大自然(大宇宙)に融けこんだ自己であるならば、「小我」とはどこまでも人と人との間(社会)で生きるしかない現実の人間の状態のことであろう。しかし、だからこそ、人間としての喜びも苦悩も「小我」だけが味わうものだ。しかしまた、だからこそ、つかのまなりと世のわずらわしさから逃れたいという思いも兆す。虚子の形而上学はその思いを誘惑する。
大自然との一体化とは、哲学用語でいえば「主客合一」(主観と客観との一致)である。個々に分離された主観(小我、小主観)にすぎぬ存在がいかにして客観(真理)を獲得できるかという難題への、これが当時の回答だった。たとえば西田幾多郎は『善の研究』(明治44年=1911年)の冒頭部で、主客の区別を超えた「純粋経験」の説明に「主客合一」という語を用いている。
その『善の研究』が岩波書店から新たに刊行されたのは大正10年のことだった。私は、この時期の虚子の言説の「形而上学化」の背後には、当時流行していた西田哲学の影響があったのではないか、と思っている。虚子が実際に西田幾多郎を読んでいたかどうかは問題でない。俳人の学問など耳学問でかまわないのだ。聞きかじりの片言隻句を自己の俳句体験の探照灯に用いる能力があればよいだけのことだ。そしてまた、西田哲学の背後に仏教哲学(参禅体験)があったように、「主客合一」の基本は仏教思想が浸透して以来日本人になじみのものだった。芭蕉の「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」(『三冊子』)だって、「主客合一」の要諦を述べた言葉だともいえるのである。
だが、「大我」説にせよ「主客合一」説にせよ、一種の神秘主義めくことはまちがいない。虚子に倣ったか、「ホトトギス」出身の俳人はこういう神秘主義的言辞を好んだようだ。臼田亜郎の発言「私と俳句と自然の偉霊とは三にして一である」は戦後に桑原武夫「第二芸術」で批判されたが、「人間探求派」と呼ばれて出身母体の「ホトトギス」とは一線を画したはずの後年の加藤楸邨にも「真実感合」の説がある。
この件、ここで深入りはしないが、合理主義者だった子規にはこんな言説はなかったことだけ言い添えておく。
〇平凡なるものの擁護
本稿はやや抽象的な議論が多くなったが、もう少し続ける。
講演記録「写生俳句雑話」では、会場から「客観写生の句は、平凡に傾く憂はありませんか」という質問が出ている。これも当然の質問だろう。対して虚子は、むしろ無個性非個性こそ近代というものだ、と応じている。
「作者は誰でも差支無い。一書生でも直ちに価値のある写生句が出来る。つまり作者を問はずに、一束にして見て写生句の価値があるのです。」(「写生俳句雑話」)
ここで「デモクラチツクになつたのですな」という聴衆(今風にいえばパネラーの一人か?)の合の手が入るのが秀逸だが、一種の詭弁めくものの、無個性非個性の擁護が「平凡」の擁護という虚子思想の根幹に根差していることに注意したい。
「芭蕉のやうな俳人に比べると、我等の句は平凡人の句である。我等は平凡なる市人の集まりである。⋯⋯普通の人間が普通の生活をして俳句を作る。⋯⋯その平凡な境涯に居るといふことが即ち人間の生活である。⋯⋯芭蕉のやうな生活は普通の人のせぬことを遣るのですから、そこで貴いやうに思はれる。併し人間として普通の生活をして行くといふことも決して卑下すべきことでは無い。否、却つて価値あり意義あることゝ考へるのであります。」(「芭蕉の境涯と我等の境涯」大正12年)
俳句革新を目指して休みない前衛への道をひた走った碧梧桐に対して、「保守本流」を確立した虚子の面目躍如たる発言だ。〈桐一葉〉の項で引いたように、すでに明治38年(1905)、「俳諧仏」たる虚子は「汝等大衆」に「天才ある一人も来れ、天才無き九百九十九人も来れ」と呼びかけていたのだった。
芭蕉や蕪村のような偉大な個性を遠く仰ぎ見ながら、しかし、現在の大衆の無個性で平凡で普通の暮しを擁護すること。そういう平凡人の俳句表現を擁護すること。――これこそ虚子という人の根幹の思想なのだと思う。
高浜虚子は、柳田国男とともに、平凡なるものを擁護した近代思想家の双璧なのだと私は思っている。たしかに虚子は理論家ではなかったが、いわば実践的な思想家であり、俳句指導を通じて広範な大衆を「ホトトギス」の傘下に集めた稀有な大衆組織家だったのである。そして、客観写生説は、次回述べる「花鳥諷詠」の説とともに、この巨大化した大衆組織を支える二本の理論的柱なのであった。
〇拙句
さて、例によって拙句を。
私はまだ豪奢優艶な牡丹の花を詠んだことはないので、名のみ似てまるで異なる、地味な、しかし花のなくなるさびしい季節にわずかな彩りを添えてくれる葉牡丹の句を。
鈑金叩き葉牡丹育て無口なる (句集『をどり字』)
散歩コースに小さな鈑金工場がある。六十歳過ぎらしい父親と二人の息子(と私は見た)が黙々と働いていて、その殺風景な作業場の入口脇に無造作に葉牡丹の鉢植えが置いてあった。葉牡丹はあまり手がかからないのだそうだ。
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