https://72463743.at.webry.info/201003/article_22.html より
【「風性常住」・お坊さんは風になればいい?】
千里来し風も鳴くらむ雁供養 玉宗
先般亡くなった立松和平氏の後を受けて北国新聞文化欄に『いのちの旅 光に誘われて』が連載されている。書いておられるのは、「おくりびと」の原作者である作家・詩人の青木新門氏である。
今回は「僧は千の風になればいい」という見出しになっていた。
講演に行ったお寺で「千の風になって」を唱和する婦人部の檀信徒。縁側から見える墓地を眺めながら氏はちょっとした違和感を抱いたという。
「千の風になって 」
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています <以下略>
<お墓の中にいないのなら、なぜお墓参りをするのだろう・・>
氏は嘗てチベットに旅をしている。<チベットでは風のことを「ルン」と言い、古来より死んだらルンになると思われていた。先祖はヒマラヤの上空を風になって吹きわたってゆく。人々はパオや峠に旗を立て、その旗がなびく度に今先祖が通り過ぎて行ったと実感する。常に先祖と共に生きているという暮らしである。だからチベットには墓はない。>
お墓を管理しているお寺とは一体何なのだろうかと考えさせられるという気持ちは解らなくもない。
宗教を見失った現代人の心を「千の風になって」がつかんだというのも現実である。
<千の風の詩が人の心に響き癒しの働きがあるのであれば、僧が千の風になればいいのだと思った。>
しかし、現代の僧には「引き摺っているものが余りにも重く、到底「風」にはなり得ないとも言う。重い荷物とは、墓地であったり、伽藍であったり、家庭であったり、組織であったり、、、、
氏は西行や良寛、親鸞などには「風」を感じるという。だから、<僧自身が三千大千世界の「風」になったときこそ、「千の風になって」や「おくりびと」に癒しを求めた人々が「三宝」を敬うようになるに違いない>、と締めくくっている。
氏は「風」のようなものを感じる宗教者として西行・良寛・親鸞・釈尊を挙げている。
「拘りのない、ひろやかな、執着を離れている在り様」を「風のようなもの」と喩えるのならば大いに肯けるし、私もそのような生き方を望むところではある。
しかし、「風のような」宗教者のあり方は固定化されたものではなかろうと思う。そこがまさに「風」の「風」たる所以であろうが。良寛さまが現代に生きておられたら、どのような「風」であられたか、だれも予測は出来ないだろう。他の聖人にしても然りである。
「風性常住」風の本質は確かにある。しかし、「風が吹く」とはどういうことか、「風のようにある」とはどういうことか。予見を持たず、「風」に対し、「風」を起し、「風」を我がものとしている宗教者を見極めることこそが、現代人が宗教と再会する本筋でなければならないと思う。
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