https://ameblo.jp/djvarahi/entry-12446002368.html より
まず楽に座っても、横になっても構いません。
そのまま眠っても問題はありません。
座っている場合には、手のひらを上に向け、左手が上になるように重ねます。
禅定手印のようですが、親指等を合わせる必要はありません。
横になる場合には、同じようでも手を伸ばしたままでも良いです。
そうして顎を引きますが、うなずいてしまう場合がよくありますが、
鶏が歩くときのように、頭部を真っ直ぐにして後ろに引く感じです。
横になる場合には、タオルなど四つ折り程度の高さにします。
そうして軽く目を閉じますが、半眼は逆効果になるのでしません。
そのまま通常の呼吸の最後の吐く息を終えたところで目を開け、
目の前の中空の空間のやや下を見ます。
ものなどが無いところが良いですね。
何かに焦点を合わせないようにします。
この状態で落ち着いたら、身体の静寂、言葉の沈黙、、心の空に注意を向けます。
まずポジティブな変化を人生そのものに起こしていくことになりますが、無知で迷妄であるものを智慧に変容させることになります。
その為の空間と繋がらなければいけませんが、カルマによる苦の器である身体や様々な形への専心を止めなければいけません。
問題や病気を抱えた自分を忘れ、空性、すなわち本質の自己に近づくようにして、自我(自分と言う認識のエゴ)
から離れるようにします。
しかし、初めはこの空間は見えませんが、あるものとして漠然とでも構わず、意識を向けます。
感覚的にはただ在るという程度で十分です。
慣れることで、静かに座った段階で感じ取れるようになります。
その中で迷いや不安、不快感や反発感が現れることがあります。
身勝手な事を繰り返すような方は、この段階でそれらに呑まれ、よりエゴを固め、その追求に走るようになります。
そうなると何もできない否定性が強くなってしまうので、
その声や感じは全く逆のものであることを知らなければいけません。
流される習慣ができてしまうと抜けられなくなり、何を課そうが安易にとらえ、自分の勝手なやり方、向き合い方、勝手に繋げた解釈で救いようのない状態に陥ってしまいます。
それは現代のように情報だけで分かったような、関連などかき集めて私見で多くの答えを導き出して得意げになっているように、得たつもりや卑屈さに覆われる状態になり、ある日突然叩き落され無気力になってしまうんですね。
それを防ぐには素直に向き合う事、都合を持ちこまないことなどが必要になります。
これは、日常の大半で忘れずにする必要があります。
エゴ(自我)の働きのあるなしにかかわらずに、自分の中で座る自分を感じ続けるようにします。
それに慣れるにつれて興奮すること、気が逸れる事、散心散漫、苦悩苦痛で絶たれることは無くなり静寂が失われることは無くなります。
そうして自我の言葉や思考も消え沈黙が顕れてきます。
そうしたら沈黙に集中し、慣れたら沈黙に耳を傾けます。
それがうまくいき始めると、あらゆる音は鮮明となり、心の声も聞こえるようになります。
しかし一切気にせずにいれば消えて行きますので、沈黙に集中し続けます。
それにより安定した平穏が訪れます。
これは仕事中でも歩いていても、いつでも行えるようになれます。
またいつでも行わなければいけません。
最初のうちはあらゆることが邪魔をしているように感じることもありますが、それらはみなそうさせないように同じレベルに留めようという試練、働きでもあるんですね。
その程度で逸れるのならば、自分も同じ瞋や欲得、誰かを引き下げようとする嫉、得たり思い込む慢などと変わらない低い存在だということです。
地位や名声名誉、資産や資格、知識が多くあろうがそれらで覆い自分と思い込まされているだけだと知るでしょう。
苦悩や病気からも離れることは出来ずに、ただ苦と自我に支配し続けられていることに気がつくでしょう。
そうしてそれらは何の役にも立たず、持っていくこともできないのにしがみついているだけと言う事。
どこかであきらめ受け入れるしかないという事。
沈黙に意識を向け続けることでそれらも知り、内なる清い領域こそ唯一の居場所であることを知るでしょう。
そうして心そのものに集中し考え思考もまた自分でないと知り、それ自体を眺めるだけとなります。
否定も肯定も平等も無い。
ただあるがままに受け入れ眺める。
繋がれば呑まれ流され自分事になり、そう思い込まされる。
心の空間は絶対の領域です。誰も穢すことは出来ません。
ただそこに還ることが最初なんですね。
その領域を知ることで病気の快復、苦悩からの離脱の可能性が日々増えていくこととなります。
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