https://ameblo.jp/djvarahi/entry-12445951737.html より
呼吸は通常三毒由来の負の感情(否定性でも肯定性でも平等でも)や病気を運んでいます。
これはどのような呼吸法でも真似事で行っているだけではさほど変わりはありません。
なぜなら、心や思考は気分や思い込みでいくらか変わろうが、
根底のものは一切変わることがないからですが、
それでも何十年何百年と休むことなく行えば変わる可能性はあるかもしれません。
どんな論理根拠をつけて行っても、三毒は何一つ変わらないんですね。
それには肝心なものが伴っていない。
それすら言われる方はほとんどおらず、ライフスタイルの延長で指導に当たるようになったり、
そういう方たちから 都合よく出来たものを学んでしまったりとなってしまったからなんですね。
どんなに良い学校に行こうが、社会的に優れていても人間性はまた別な問題です。
順調や成功、しっかり勉強し励んでも人として優れているわけではないことは明らかなのに いつしか錯覚してしまうんですね。
もちろんその分野に於いては専門で頼りにはなるでしょう。
しかしそれとは別ものなんですね。
両方がしっかりとできたのなら偉人になるでしょう。
いつの間にか偏ったがために、偉人は出なくなってしまったんですね。
どうしても何かに役に立つことなどが中心になれば 学問などが優先になってしまいますが、豊かで便利になるにつれてもう片方は忘れられていく。
現代では、その忘れられたものがあるのは宗教だといい、活動しているところもありますが、それもまた違うんですね。
いくら教訓や信仰があっても、信にはなりません。
それに付随するものすら創り上げられることも無いんですね。
日本であれば武士道精神のようなものがあり、他では部族やその他の精神、即ちスピリットが自然に、当たり前のようにあったわけです。
こころは勇んでも勢っても粋がってもスピリットにはなりません。
スピリットとは「精神・情熱・根性」「感情・性質・信念」となりますが、同時に霊的と言う意味合いがあります。
英語では「spirit」
由来はラテン語の「spritus(息、呼吸、魂、勇気、活気)」
ラテン語で使われていた時には、「相手にしてはいけない」、「気を取られて騙されてはいけない」ものとして、「霊的」と使われ、天使やその他霊的な者の意味で使われてしまうようになりました。
自然と言う意味もあるので、自然との共存、神からの贈り物であり恩恵と言う意味でスピリチュアルであったものが、エネルギーや霊的と都合よく取りかえれられてしまったわけなんですね。
それにより人間性の欠如とも言える理不尽で身勝手なことが増えたのは、世界の歴史を見れば誰にでも理解ができると思います。
また、ソウル「soul」と混同される方もいますが、
ソウルは人の生命そのもので、スピリットは魂(心の本質)に働きかける都合や妥協なしの精神となります。
自分の都合はすべて三毒、キリスト系なら悪魔となるでしょう。
その精神が今ではほとんどない。
スポーツやその他に励ませて培わせようとするも、どうしても嫉が出ることが多く、負けて悔しい、あとから入って自分を追い抜いていく、自分よりも注目を浴びたりすれば、引退や嫌がらせなど行ったりとなる。
競うの意味合いも変わっているので、評価や知名度優先のところも多い。
幼稚園からこれを叩き込んでいるところも多くなっていますね。
これでは必然的に虐げられるもの、好きなのにすすめられない方も多く出てしまうことになる。
当然慢も出るので、無意識にでも蔑んだり虐げることもし、憂さ晴らしや暴力も多くなってしまう。
才能があるにもかかわらず磨かせてももらえない抑圧から犯罪行為も多くなってしまうんですね。
これに対しいくら対策や対応を強化しようが、余計に抑圧が強くなるだけです。
いくら教育しようが、指導する側がこの状態では何も変わりません。
心理学その他がいくら入ろうが、後付理由付けではどうにもなりません。
間違ってはいけないのは、これらを見るのも書くのもいくらでも出来ます。
しかし思考や感情で行っている以上何の役にも立ちません。
これを対処対応対策しようが寄り巧妙になるだけなんですね。
表面的に排除しようが悪としようが、嫌悪しようが全く無意味です。
この世の豊かさ争いと同じで無くなることはありません。
誰のでもその根底となる三毒、五毒があり、論理や行為で覆おうが何も変わらず巧妙になるだけと言う事です。
いくら瞑想や呼吸法など行おうが、表面的な二次愛であることに落ち着けるのがやっとです。それ以上になれば押さえられず、
深いところでは積み上げられてしまう。
欲求欲望、感情のきっかけがあればいつでも一気に吹き上がるでしょう。
運動その他で発散しているように見えて、違うものに変わって積み上げられてしまう。
これをよく知り浄化していくしかないんですね。
どの行為も考えも万物にとって有益かどうか?
一つでも有益でないのなら偏っているということです。
第一弾として簡略化したものを書きますが、
これだけでもいつでもどこででもできるのなら、現代ならば劇的変化を味わうことも可能でしょう。
逆にこれすらできなければ、本当のクンダリニーやチャクラ、三毒の浄化は何をやってもできません。
当然ゾクチェンその他の行を望んでいる方も一切行えません。
なぜなら、これはゾクチェンの行の一つです。
基本はポジティブになるところからですが、一般的に言われるポジティブシンキングは前向き、積極思考などですが、これでは都合的であったり、利己的であったり、身勝手や薄っぺらいものになります。平和で豊かなポジティブでなければ役には立たないでしょう。
ポジティブの意味・正しくは、ポジティブスピリットは即ち、ポジティブな質と言う意味で、イコール、慈悲や愛、それより起こる共感と喜びと平等(世間的なものではない)
この本源は空性であり、明知、認識として合一と言う意味が根になります。
これによってポジティブの質が生まれるんですね。
練習すれっば訓練すれば身になり嘘はつかないなどといいますが、これには限界があるので、そのように追い求めることは厳禁なんですね。
ひたすらやらせてほかに気がそれないようにと浅いものが指導し、定着したものなんですね。
誰もがすでに完成して生まれてきています。
ただ認識、気付いてもいないというだけです。
一般的なものなら、見合うための筋力や知識など無理なく、身体を壊すことなく余裕を以て訓練する方が成績も上がります。
それがなければ慢や苛立ちも多くなり、思った結果も出ないとなるんですね。
ポジティブは、自然に、自発的にでなければ役には立ちません。
運だけで良い結果になる程度で終わるでしょう。
そのために蹴落としたり引き下げようとする嫉が動くことになるわけです。
そういう世界は多くありますが、それらに共感したりあこがれているのなら、自分の中にそれがあるということです。
例え成功しても熟した報いも同時に来ることを覚悟しなければいけないんですね。
英文その他が正しく認識できて翻訳されていないものが多く、どうしても上っ面の会話のような受け取り方や、私見での受け取り方がなされてしまい、本分が失われがちなんですね。
それが独り歩きしてしまったり、勝手に特定の部分だけが利用されてしまうんです。
有名だから、人気も評価も高いから正しいとはなりません。
それを間違えれば費やして得たものはただの教訓程度でしかないでしょう。
求める、学ぶということはそうであってはいけない。
生きている以上は終わることも節目も無いんですね。
自分の内側に注意を向け、心の本質と繋がり、信頼する。
それを頼りとし、教えなどと照らし合わせ穢れないようにしていく。
これが自燈明法燈明ですが、論理的解釈や群れて馴れ合ってはできません。
どこか何かに属する必要もない。
白人の方たちはその歴史からか痛感しているためか、圧倒的にそういう世界を求めたり守ろうとする方が多いんですね。
アジア圏はまだ足りないというのでしょうか?
繰り返さないためにも向き合っていただきたいと思います。
メインとしてはこのポジティブを沸き起こらせるのが優先ですが、同時に三毒も浄化していきます。
一度に長く行う必要はありません。
人の集中は通常10分が限界です。
良くて15分なんですね。
集中できているように思えても身になりません。
3分、5分、10分などの単位で一日何度か行った方が有益です。
どの練習でも、意地や根性になれば、三毒由来になってしまいます。
病気を治すためならなおさら本末転倒です。
意地は心や想いの土台、根性は根っこにある性(さが)です。
意地や根性で踏ん張れば踏ん張るほど三毒の癖と強く結びついてしまうんですね。
それが本質や自分と思い込んで離れられなくなったり自負してしまいます。
そういう方ほど癌などが多くなりますね。
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