風(ルン)②

https://ameblo.jp/djvarahi/entry-12445333166.html  より

粗いルンは心の苦のルンです。あらゆる苦は怒り(瞋恚)、愛着(貪・執着)、無知、嫉妬、高慢、これらと結びついています。

自分を振り返ってみれば、自分の苦しみがいずれに由来しているかがわかると思います。

何かを求め手に入れたり、どこかへ遊びに行き楽しむこともあるでしょう。

それらは良い思い出となり 嬉しかったり楽しかったり良い経験だったと誰もが思うでしょう。

もちろんそれらが悪いわけではありません。

しかし、嬉しい、楽しいというのが純粋なものかどうか判断できる人はいないでしょう。

人は何か達成したり、手にしたときなど 嬉しい楽しいと思います。

これらは良い悪いの問題ではなく、単にカルマ、変化と言う輪廻が常に起こっているというだけで、たとえ高慢な性格であっても(一般的に言う事とは違う) 嬉しい、楽しいと喜びとして感じられるんですね。

それが悪いとはだれも思いません。

しかし永続的にうれしい楽しいままでもありません。

なぜ続かないのか?

留まることなく変化し、形が変わり価値の原則も変わり流転し続けているからとなります。

二元的、論理的世界はこの繰り返しなんですね。

一般的に悟った場合、冷めたような感じや無関心無感情などでつまらなく想われがちですがそうではありません。

何に触れても見ても、同じものを見ても、いつでも最初と同じ、

それ以上の喜びや大切さも感じ続けます。

それが歓喜です。

それを間違え分かったつもり、悟ったつもりで無関心で関わらなければ良いなどと思うのは、傲慢であり、怒りの強いルンが旺盛な証拠なんですね。

これでは何を聞いても教わっても、自分の身勝手な見解を入れ、

勝手な解釈、勝手な行動になってしまうんですね。

これでいい、これが自分だと譲れなくなってしまう。

これでは何も学べませんし、得ることもできません。

そのように自分と思っていても 固定観念に結びついてしまっているんですね。

若しもそれに気がつけるのなら、これほど幸せなことはないでしょう。

そこに気付き注意することでこの人生でどのようにでも変えて行けるのですから。

今のように癌が多いということは、瞋や愛着の強いルンが多いということです。

その解放無くして治療も予防も無いんですね。

病気を作るのもまた先の五毒、それに起因するルンとなるわけです。

この浄化には、主に①以下に書くものと②技法の2種があります。技法の中にはヨーガ的なものもあります。

通常ヨーガで言われるプラーナヤーマやアーサナなども本来はそうでしたが、大衆化後欠如している部分が多く、現代のように商業化してしまった状態では浄化に至るまでにはいかないんですね。

そのために同じ行っても、ヨーガ―の行者は長生きできないとも言われていたり、心臓の(発作で突然死)病気で亡くなる方が多いと言われています。

これもある意味では当然で、心臓のルンの制御ができないということが挙げられます。

世間でヨガなどとも言われていますが、ヨガと言うものはありません。

クンダリーニなどとも言い、言い方の違いのように思われてもいますが、そのような使い分けもありません。

厳密には、これがクンダリニーヨーガだ、覚醒だと言うものはありません。

まず世間で本当に覚醒した場合どうなるかを知る方は一人もいません。

勝手に好きな事を言われたり、勝手な解釈や同調されている方は多くいますが、その前提の あることがないのですぐに分かります。、

それらもまた五毒より生じているんですね。

怖いのは、瞋のルンをクンダリニーのエネルギー?と錯覚していることなんです。

慢が伴うため、多くは修正ができないんですね。

一般的に言うチャクラも同様で、これが穢れたルンの集積場所です。

目覚めた、清いエネルギーが云々は、自らの気枯れと同調しているためにそのように強くリンクし 離れられなくなるんですね。

強く信じてしまう。

そのような世界がこの世ですから、否定する必要はありませんが、本当に苦しんでいたり知りたい学びたいと言う方にとっては、それもまた苦となってしまうでしょう。

否定でも肯定でも、平等でもみな偏り、負のエネルギー、力になります。

世界どこでもそうですが、見据えるということが失われています。

論理的に見据えると言っても対処対策のための先送りでしかないでしょう。

そうでなければ追い込まれるまでのごまかしでしかないんですね。

見据えるというのは、その時に起こっている動き、働き、行動行為、その根底になっているものや感情、としての怒りや欲求、などです。

いつもと違っている、望んでいたことと違う、物やお金や、健康が無くなったなどに拘りそれ等のことに関して いつもと同じかそれ以上、望みをかけ、物やお金を与え、病気が治ったのなら満たされるのでしょうか?

平和になり、自然も生き物も豊かに大切にできるのでしょうか?

足るを知り、当たり前と思い込んでいるものが無くなるのでしょうか?

なることはありませんね。

見据えるとはその時に湧き起こる不満や対応対策ではなく、根底の感情と繋がることであり、それに絡む五毒を知ることです。

それが個人であれば呼吸や身体、思考や思いなどが どう入り込んで作用しているかを見極め、知ると言うことです。

これが地域や団体などの場合にはまた違いますが、これに触れることはしませんので、そちらを考える方たちは、それぞれ自身のものを見出し展開されればよいと思います。

これが核となります。

これは不満や苦、産業ゆえの身勝手なストレス論、その構造を理解するためのものなんですね。

怒りは一番制御が難しい。

思考で追えば怒りを正当化し合理化させていきます。

そうしてさらに増大させてしまうんですね。

それをただ我慢や、自分が悪いからと卑屈になり呑みこみ続ければ、仏頂面で冷めた目線や、物の言い方、冷酷な側面まで出て来るでしょう。

都合のよくないものは排除し、真意も誠意まで無駄にしてしまうようになる。

自分の信念や情を善意や慈悲と錯覚し、自己満足や押し付けを繰り返し、それに反するような反応ならば嫌悪むき出しや排除するために専念することにもなるんですね。

ここまでなると、徹底的に叩き落されるか、世界が崩壊しない限り機会は訪れなくなってしまうんですね。

現代ではそういう方を多く見てきました。

残念ながら超えられた方はいませんでした。

ミラレパの弟子のガンポパもそのような方で、ミラレパに厳しく指導されることがよくありますが、ガンポパはこれを超えたわけです。

まずこれは非常に異例とも言えるんですね。

どんなに優れた指導者がいても、それだけでは不可能なんです。

自身がそれと向き合うのは、絶望と向き合うより非常に大変な事です。

落胆しているものは自然とすがるものを探してしまいますが、高揚している場合にはそのようなものは必要ありません。

落胆の場合でも、依存やすり替えで終わる場合も多いですが、

高揚は自分主体です。

否定性があれば、意地や怒りがより強く外に向いてしまうんですね。

例え苦行を行っても、圧制すればそれに囚われたり覆いにしてしまう。

それを否定されないように黙って人にも言わない場合には、深いところで自分を固定し、気付く機会も現れないんですね。

そのために芯が強いように思われがちですが、何かできずれ出したら一気に崩壊し無気力になってしまうんです。

女性よりも男性の方がそういう面では弱いと昔から言われていますね。

そのために根底のものを認識することで、直に働きかけ変えることが出来るようになっていけるんですね。

いずれのものでも、メインの三毒または五毒と繋がっています。

その負の結び付けようという働きかけ(エネルギー)、を認知し認識する。

別な言い方をすれば、ルンと繋がるということです。

またはプラーナのコントロール、浄化と言う意味です。

それもできずにいくらプラーナなどの動かし浄化だと言っても真似事でしかない。

それならラジオ体操を行った方がよほど健康的なんですね。

まずはこれがあって浄化の基本の一つなんですね。

これがなければ運を無駄に焼き払うだけです。

穢れた後では報いしかありません。

払いや浄化は穢れないために行うものなんですね。

そうしてこれの後に本当の浄化が始まるわけです。

この知覚ができたのなら静寂、沈黙、空性と繋がるところから始めます

難しく考えず横なっても椅子に座っても、自由に楽に座り

軽く目を閉じ、静かに7回深く長めにゆっくりと呼吸をし、

「自分自身」を「自分の子供や好きな動物でも何でもよい」ので、そのものになったつもりになります。

苦しみや病気を患っているものは、自分ではなく、最愛のものとして自身を観ます。

3分でも5分でもよい。

集中ししっかりとみる。

お分かりでしょうか?

癒しとどこでもいいますが、そのような者は外にはありません。

自分の苦の元自体を見ることが本当の癒しです。

外に求めてすり替え、置き換えても先送りにしているだけです。

不動のものになることがないため、繰り返し延々求めごまかすしかない。

それも段々慣れてしまい評価が出てくる。

やり場がなければ腹いせやいじめも行うようになるでしょう。

これができて明知への道になり、いくら論理があろうが覆うのではなく愚鈍から離れて行けるんですね。

それに慣れ親しむことで、自我も患部も苦しみ、負や否定性を向けなくなります。

必要性も無くなります。

これだけでも多くの病気や苦悩は消えて行きます。

世間に於いて、苦しみながらも追いつめられ、これに近い状態になる場合があります。

そのような方の病巣が消えた話や立ち直った話などは同じなんですね。

常日頃から行っているのなら、熟すことも無いんですね。

とは言え当然不十分なものでもありますので、これ以降も学んでいただきたいと思いますね。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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