春の風を表す言葉

春は花の香を運ぶ風と共にやってきます。花々、命の蘇りの季節です。

https://blog.goo.ne.jp/mayanmilk3/e/ac2fecc4a5f401319bb9172dad307336   より

風の香り(風薫る)

 新緑の美しい時期になると、「風薫る」という言葉をよく耳にするようになります。なかなか美しい言葉なのですが、生徒にどんな匂いがするのと質問され、はたと困ってしまいました。そう言われれば確かに匂いなどしません。普段何気なく使っていて、考えたこともありませんでした。私の知っている古歌の中には、新緑の頃の爽やかな風を「薫る」と形容した例が思い浮かびません。『国歌大観』あたりで検索すればあるのでしょうが、少なくとも人口に膾炙するほどの古歌には、例はないと思います。

 ただし梅の花や花橘の香を運ぶ風を詠んだ歌ならたくさんありそうです。まずは梅と春風の歌から。

①花の香を風の便りにたぐへてぞ鶯さそふしるべには遣る  (古今集 春 13)

②吹く風を何いとひけん梅の花散りくる時ぞ香はまさりける (拾遺集 春 30)

③梅が香をたよりの風や吹きつらん春めづらしく君が来ませる(後拾遺 春 50)

④かをる香のたえせぬ春は梅の花吹きくる風やのどけかるらむ(千載集 春 18)

①は梅の香のする風が鶯を誘い出すというもの。②は、花に吹く風は花を散らすので嫌われるのですが、梅の花の場合は、風が吹くと花の香がいよいよよくわかるという趣向です。③は、梅の花の香に誘われて、人が訪ねてくるというもの。④は梅の香が長く続くのは、風が(花を散らすほどに強くはなく)長閑に吹いてくるからだろう、というわけです。

 次に橘と風を詠んだ歌を。

⑤五月雨の空なつかしく匂ふかな花橘に風や吹くらん    (後拾遺 夏 214)

⑥五月やみ花橘に吹く風はたが里までかにほひゆくらん   (詞花集 夏 69)

⑦浮き雲のいざよふ宵のむら雨におひ風しるくにほふ橘   (千載集 夏 173)

古には、橘、つまりみかん類の花が咲くのは旧暦五月と決まっていました。現在では新暦五月に咲いてしまいます。この時間差はともかくとして、鬱陶しい五月雨や五月闇の中で、ほのかに橘の香が風に運ばれてくると、爽やかな気分になるものです。⑤では、橘の香に昔を懐かしく思い起こすという趣向ですが、橘の香を嗅ぐと懐旧の心が湧いてくるという、当時の共通理解があったのです。⑥は説明も不要でしょう。⑦は、浮き雲が漂う村雨の中で、風が吹いたあとに橘の香が漂ってくるという歌です。

 花の香が好んで詠まれるのはこの梅と橘くらいのもので、これ以外で花の香を詠む歌は極めて稀でした。いずれも実際に嗅覚に訴える香を詠んでいて、風はそれを運ぶ物であり、風そのものが主役になることは大変少ないることが共通しています。あまりにもよく知られているので省きましたが、菅原道真の「東風吹かば・・・・春な忘れさそ」の歌でも風は脇役です。

 少々脱線しますが、菅原道真が詠んだ花の香の歌といえば、次のような歌があります

  ⑧さくら花主を忘れぬものならば吹き来む風にことづてはせよ  (後撰集 春 57)

これには次のような詞書きが添えられています。「家より遠き所にまかる時、前栽(せんざい)の桜の花に結ひつけ侍ける」。道真は大宰府に左遷される際にも梅と別れを惜しむ歌を詠んでいますが、余程に庭の花々を愛でていたのでしょう。花に二人称で呼びかけていますね。この歌には桜の花の香が詠まれてはいませんが、言葉にはしなくても、そのような心があったのでしょう。

 すると桜の花に香はないのではと言われそうです。多くの桜の品種の中には、香のあるものもあるそうですが、一般的には桜の花に香はありません。しかし桜の花の香を風が運ぶという、次のような歌も詠まれています。

  ⑨霞立つ春の山辺は遠けれど吹きくる風は花の香ぞする   (古今集 春 103)

  ⑩風かよふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢   (新古今 春 112)

桜の花に香があったとしても、⑨のように遠山桜の花の香が遠くまで風で運ばれることはあり得ません。⑩では、風に運ばれる花の香は、「春の夜の夢」に伴う一種の夢幻的な雰囲気を演出する役目を持っているのであって、実際に香がするわけではなく、風に運ばれる桜の花の香はあくまでも観念的なものなのです。  

 以上のようなことから、風に運ばれる花の香を詠んだ歌は大変多いのですが、梅や橘など、実際に芳香のある花について詠まれるのであって、桜のように香のない花の場合は、観念的に詠まれていること、また香が主役であって、それを運ぶ風はあくまでも脇役であると考察しました。

 なおここには『万葉集』からの歌があげられていませんが、『万葉集』には花の香を詠んだ歌は極めて少なく、118首も梅の花が詠まれていても、香が詠まれているのはわずかに1首、橘は68首詠まれていますが、香が詠まれているのはわずかに数首しかありません。万葉時代の人々は、どうも花の香に関心が薄かったようです。

 それなら「風薫る」という、より直接的な表現をした歌を探してみましょう。

⑪風薫る木の下風は過ぎやらで花にぞ暮らすしがの山越え  (続拾遺集 春 68)

 ⑫風薫る雲に宿とふゆふはやま花こそ春の泊りなりけれ   (続後拾遺 春 98)

  ⑬風薫る花のあたりに来てみれば雲もまがはす三吉野の山  (新千載集 春 95)

  ⑭またも来む花に暮らせる古郷の木の間の月に風薫るなり  (続後拾遺 春 129)

  ⑮明け渡る霞のをちはほのかにて軒の桜に風薫るなり    (新拾遺集 春 87)

  ⑯明け方は池の蓮も開くれば玉のすだれに風薫るなり    (長秋詠藻) 藤原俊成

  ⑰風薫る軒の橘年りてしのぶの露を袖にかけつる      (秋篠月清集)藤原良経

鎌倉期から室町期のこれらの歌集には、以上のように「風薫る」という表現をする歌がけっこう見つかりましたが、⑪~⑮はいずれも春の歌で、薫るはずのない桜を詠んでいます。⑯⑰がようやく夏の歌ですが、蓮や橘の花の香を運ぶ風を詠んでいます。いずれも今日の新緑の季節に使われる「風薫る」とは情趣がことなりますが、それはともかくとして、「風薫る」という表現が定着しつつあることは、注目してよいと思います。

 このあたりまで書いてきて、とうとう二進も三進も行かなくなり、あとはもうネット情報を頼りにしてしまいました。「風薫る」とは漢語の「薫風」を和らげた表現だそうです。どうりで古い和歌にはあまり見つからないはずです。江戸時代の俳諧では、初夏の季語としてたくさん登場しますから、新緑の頃の爽やかな風という意味での「風薫る」は、言葉としては新しいものなのですね。本来なら本場の漢詩で「薫風」がどのように詠まれているか、中国語で「薫」にはどのようなニュアンスが含まれているかを検証しなければなりません。「卯の花のにおう垣根に」の「におう」が、花の香ではなく、色が美しく映えていることを意味しているように、中国語の「薫」には、香りがすること以外に別の意味があるのかもしれません。そのような考証は、素人の私にはとてもできないことです。どうぞお許しください。

 「風薫る」といえば、唱歌『若葉』に「あざやかなみどりよ ・・・・かおる かおる わかばがかおる」という歌詞がありました。私も小学校?で習った記憶があります。ここでは風が薫るを飛び越えて、若葉が薫っています。まあ新緑の風が薫るという意味なのでしょうが、こうしてとりとめもなく書いてきて、風の香りにもいろいろ変遷があるものだと、つくづく思っている次第です。こんな駄文に最後までお付き合いくださりありがとうございます。

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