俳句の挨拶性
http://www.hekisonjuku.jp/katudou/2522/130706.html より
俳句の挨拶性
鷹羽狩行
鷹羽狩行/白山麓僻村塾顧問。俳人。俳人協会会長。1930年生まれ。山口誓子、秋元不死男に師事。65年句集『誕生』で俳人協会賞。74年芸術選奨文部大臣新人賞。2002年毎日芸術賞。2008年蛇笏賞、詩歌文学館賞受賞。
俳句は広い意味ですべて挨拶といえる。それは二つに分けられる。まずは、自然に対する挨拶。私たちが作る俳句はほとんどがこちらで、自然を詠むものだ。もう一つは、人間に対しての挨拶。このことについて今日は話したい。 俳句が挨拶であることをはっきりと述べたのは文芸評論家の山本健吉である。ことばは違うが高浜虚子も同じことを言っている。虚子は、日常そのものが俳句であり、「寒くなりました」「暖かくなりました」というような、挨拶そのものが俳句であると述べた。
では、挨拶句と自然句の違いとは何か。
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
当初この句は、<五月雨をあつめて涼し最上川>であり、最上川の船宿の主に贈ったものだった。挨拶の気持ちを「涼し」ということばで示し、暑い夏にあって、涼しいことはありがたいという感謝を込めた。だが後に、これを「早し」と改めた。すると、最上川の早川としての本質に迫る句となった。日本国じゅうの雨が、すべて今、ここに集中したかのような、凄まじい勢いで流れる最上川。これは土地そのものへの挨拶と解釈することもできるだろう。
贈答句は人に対する挨拶だ。それを作るには、相手のことをよく理解する必要がある。また、季語が適切かどうか、十分に思い巡らされているかも大切なことだ。
たとふれば独楽のはじける如なり 高浜虚子
碧梧桐(へきごとう)への追悼句だ。慶弔句ともいわれる。
前書きに「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」とある。かつて正岡子規の門下生として双璧といわれた虚子と碧梧桐だが、子規亡き後は対立することになった。その二人の境遇を詠んだものだ。比喩が見事で、情がある。
このような前書きをつけることで、第三者の理解は得られやすく、かつ一句の世界が広がる。だが、それにもたれてしまってはいけない。前書きがなく、一句として独立解釈でき、その上で前書きによって、なるほどと思わせるのが理想だろう。
虚子は贈答句を、純粋の俳句ではないかもしれないが、平凡な句であってはならないと述べた。挨拶句を作ることは普通の句を作るよりも難しいかもしれない。しかし俳句観は確実に広がる。ぜひ挑戦してみてほしい。
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