https://blogs.yahoo.co.jp/seijihaiku/17394471.html より
【挨拶句について3】
前回の波平さんのコメントなども踏まえて、またまた挨拶句についての、私の考えを述べさせていただきます。
まず、正岡子規についてですが、子規の俳句、特に写生に目覚めてからの俳句には波平さんのご指摘の通り「挨拶性」がかなり少ないと言えます。
前回紹介した、
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
これを子規は批判し、
五月雨や大河を前に家二軒 蕪村
の方が上等である、と述べていました。
これは、子規の「情緒よりも写生を重視」という姿勢がうかがえます。
その時の子規の頭には俳句の挨拶性というものは一切意識に無く、また、あったとしてもむしろ唾棄すべき古臭い伝統とおもっていたのかもしれません。
その証拠と言えるかどうかわかりませんが、虚子や漱石などには優れた弔句がありますが、子規にはありません。
あったとしてもそれほどいい句ではないはずです。
子規の俳句革新とはこれまでの季題情緒によりかかり、言葉遊びとなっていた俳諧の古臭い概念を否定し、文学としての俳句を屹立させるという志があったわけです。
では、子規の俳句または短歌などにおける文学性とは何か。
それは、写生による「情緒からの脱却」と病・死などを見つめる「文学的テーマ」を俳句で実現することであったと思うのです。
まず「情緒からの脱却」についてですが、子規の短歌に、
ガラス戸の外に据えたる鳥籠のブリキの屋根に月映る見ゆ
小庇にかくれて月の見えざるを一目見むとゐざれど見えず
照る月の位置かはりけむ鳥籠の屋根に映りし影なくなりぬ
という一連の作品があります。
この三首は脊椎カリエスの子規が、ブリキの屋根に映る月影を見つけ、病床を這い出して、小庇に隠れた月を見ようとするのですが、激痛の為なかなか上手く進めず、そのうち月は位置を変えてしまい、ブリキ屋根の月影も失せてしまった、というものです。
特徴的なのは、ここに登場する「月」「鳥籠」「ガラス戸」「ブリキ屋根」などという素材が、叙情や季題的情緒を一切排した即物的、ただそこにある「モノ」として描かれていることです。
その表現方法は子規の俳句にも見られ、
鶏頭の十四五本もありぬべし
(けいとうの じゅうしこほんも ありぬべし)
筆も墨も洩瓶も内に秋の蚊帳
(ふでもすみも しびんも うちに あきのかや)
などには、「挨拶性」がなく、対象を即物的「モノ」として描いています。
挨拶というのは、対象(モノ)との交歓にあるわけですが、子規にはそれが無く、あるのは、ある意味、冷静に「モノ」を見つめる文学者の目です。
そこには挨拶性がないわけで、それこそが子規の提唱した写生であったのです。
つまり、私の考えでは近代俳句には文学指向があるだけで「挨拶」がないのです。
むしろ「挨拶」などという非文学的なものを否定している所に近代俳句は始まっているのです。
それを「花鳥諷詠」として、もっと自然に身を置いて詠おうと軌道修正したのが、高浜虚子だと私は思うのです。
どちらを支持するかは、その人の嗜好によって違うのだと思います。
次に病・死などのテーマですが、この問題はやはり自己の内面に深く問いかけるものです。
そこには自己との対話・葛藤などがテーマになってくるわけですから、やはり「(自己以外の)対象との交歓」という「挨拶性」が薄くなってゆくものだと思います。
しかし、老・病・死が挨拶句にならないかというと、決してそうではないと私は考えます。
つまり「挨拶句」とは方法論なのです。
老・病・死を、葛藤などの内面を深く追求する方法と、「ものとの交歓」という挨拶性によって見い出す方法があり、子規はその文学的指向によって前者を選んだと思うのです。
子規の晩年の句は、
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
(へちまさいて たんのつまりし ほとけかな)
おととひの糸瓜の水もとらざりき
(おとといの へちまのみずも とらざりき)
ですが、これは、血痰に苦しんでいた子規と、糸瓜の水が痰をきる効能があるということから生まれた句です。
やはりこの句には挨拶性がありません。
しかし、私の先師である角川源義の絶唱に、
月の人のひとりとならん車椅子
(つきのひとの ひとりとならん くるまいす)
後の月雨に終るや足まくら
(のちのつき あめにおわるや あしまくら)
という句があります。
一句目は死期を悟った源義が、車椅子で月を眺めながら、偉大な先人たちや懐かしい人々が集っているであろう月へ、私ももうすぐ行くのであろう、という、まるで車椅子ごと月へ渡ってゆくような切ないメルヘンがあります。
二句目は病気の萎えた足を枕に敷いて、死ぬ前にうつくしい「後の月(名月の次の満月)」を見たいと、心待ちにしていたのだが、雨に終ってしまった、もうこの世であの美しい月をみれないのだろう、という思いを詠ったものです。
ここにはかなり自分の思いが強く入っていますが、やはり「月」への思い、挨拶性が根本にあると思います。
子規の句と何が違うかというと、対象への愛着が違います。
また、芭蕉晩年の句で、私が大好きな句に、
此の秋は何で年寄る雲に鳥
(このあきは なんでとしよる くもにとり)
というのがあります。
生涯を旅に生き、旅に果てたいと願った芭蕉。
しかし、今年の秋はめっきり体力が落ち、気力も萎えてきた。
今年の秋はなぜこんなにも年寄って(衰えて)しまったのだろう、と感じているのです。
ここには芭蕉、晩年の意識があり、老そして忍び寄る死、そしてなおも続く漂泊への願望があります。
何より素晴しいのは「雲に鳥」であり、芭蕉は老い・死への不安・寂しさを抱えながら、雲間へ悠々と消えてゆく鳥の飛翔を眺めているのです。
この「鳥」は「旅に生きたい」と願った芭蕉の魂の象徴のように思えるのです。
この句も、自分の思いが強く滲み出ていますが、鳥や現世への深い挨拶性があると私は思うのです。
つまり挨拶句とは方法論であり、「モノとの交歓」によって自己の思いを託すか、そうでないかということになります。
またまた長くなってしまいましたが、いかがでしょうか。
ちなみに芥川や漱石にも挨拶性が見られない、というのは先述の、やはり文学者としても冷徹な目がそうさせるのではないかと考えますが、漱石には、
有る程の菊投げ入れよ棺の中
秋風や屠られに行く牛の尻
芥川には、
初秋の蝗つかめば柔らかき
あさあさと麦藁かけよ草いちご
青蛙おのれもペンキ塗り立てか
などに挨拶性を見ます。
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