http://www.basho.jp/ronbun/2018/02.html より
【芭蕉は西行をどのように受容したか】
<発表のまとめ>
1.発表内容
発表者(村上氏)の修士論文は、「芭蕉が西行から何を受容し、どのような境地に至ったか」を解明するものである。時間的な制約から、芭蕉の西行受容を助ける板本の出版情況を軸に、おおむね以下のような展開であった。
(1)芭蕉生存期間前後に発行された西行関連の出版物
芭蕉における西行受容についてはすでに指摘されている事柄である。しかし、西行を何によって学んだか、具体的なことは必ずしも明らかではない。そこで芭蕉の時代に出版された書物を調査して、少なくとも西行に関する知識を習得できる環境にあったことを確かめたいと考えた。そこで先ず芭蕉の生きた時代(1644年~1694)前後の出版物を調査してみた(資料1)。その結果、西行に関する出版物の大方が、芭蕉誕生(1644)から38歳(1682)の間に刊行されていることが分かった。
・つまり芭蕉の時代には一種の「西行出版ブーム」があった。
・板元は圧倒的に京都が多く、ついで大阪、江戸へと広がりを見せている。
・出版回数では『八雲御抄』6回、『新古今和歌集』6回、『西行物語』4回、『撰集抄』3回、『山家集』と『六家集』は2回であった。
* 谷地先生からのコメント
出版の隆盛は近世(江戸時代)の特徴の一つ。秀吉の朝鮮出兵、第1回は文禄1年(1592)、第2回は慶長2年(1597)による印刷技術が移入がそれを可能にした。最初は銅活字が持ち込まれたが、かな文字を含む連綿体の日本語には不向きで、板木による木板印刷が普及した。それ以前は木活字という一字単位のものがあり、主として寺院で経典印刷に使われていた。この木板により大量印刷が可能となり、出版物は一気に世間に広がった。なお、一度の印刷部数は約60~80部が限界か。板木が傷んだり、汚れたりするからである。
(2)西行終焉の地について
発表者は、西行関連の板本を調べるうちに、西行終焉の地に関する記述の違いに気づく。すなわち、河内の弘川寺と京都東山の双林寺の二つがある。この疑問を解明すべく、先ず弘川寺説の出どころである藤原俊成の私家集『長秋詠藻』の四種の伝本を調べた。すると伝本の年代が下るにつれて収載歌数が増え、西行と弘川寺の記載があるのは、第三類以降であることが判った。しかしその成立年代は未詳ゆえ、芭蕉がその記事を承知していたか、つまり弘川寺を終焉の地と考えていたかどうかは断定できない。さらに調査を進めると、芭蕉が生存中に目にした可能性のある西行関係の板本には、西行の忌日は記載されていても、終焉地の記載はないことが判る。あれこれ考証の末に、芭蕉は正保三年(1646)版の『西行物語』(伝阿仏尼筆本)が発進する、京都東山双林寺を西行終焉の地と考えていたという仮説にたどり着く。そこで、これを確定させるため、芭蕉と同時代人で西行を敬慕する二人(大淀三千風、歌僧似雲)に焦点を当て、その認識を調べた。結果は、大淀三千風(1639~1707)はその著書『日本行脚文集』で、河内・和泉を旅してはいるが弘川寺に詣でた記録がない。似雲(1673~1753)の場合、その著書から享保十七年(1732)までは西行の終焉地はわかっていなかったことを確認する。すなわち、芭蕉(1694没)の西行終焉の地理解も京都東山双林寺と判断するのである。なお、このことから、西行及び芭蕉追悼の拠点として、長く双林寺がその歴史を刻むことも納得のゆくことであるという。
本日発表の主題は以上であるが、発表者は締めくくるにあたり、次の二点を付け加えた。
・芭蕉が生きた時代と現代では情報源や量に大きな差があることを念頭に調査に当たった。
・近世初期の情報源は板本と謡曲が中心で、特に板本を調べることで、庶民に流布した情報をかなり正確に推測することが可能であった。
このあと、発表者は聴講者が最も聞きたかったと思われる西行受容後の芭蕉(つまり修士論文の核心)について、テキストを通読する形で紹介してくれた。以下その概要を述べる。
(3)修士論文の概要
発表者の修論構成は以下の三章からなる。この章立ては論理の組み立てを知る上で大変重要と思うので参考までに記す。
A 修論の構成
一章 近世初期における西行の影響
・近世初期の西行関連の出版物の調査
・その出版物から『撰集抄』を中心に西行が与えたと思われる影響を調査。
→「心を澄む」「衆生と宿業」「唯識観」の3点があることを把握。
・西行は何故和歌を詠み続けることに拘ったのか(「和歌の徳」)。
→西行和歌の特徴(求道)
→西行に影響を受けた『和歌威徳・和歌徳物語』の出現
・『撰集抄』を踏まえた芭蕉の発句
*『撰集抄』:西行仮託の書(作者不詳)、江戸時代までは西行自筆の書と信じられてきた。
*『和歌威徳・和歌徳物語』:和歌威徳譚の説話集、作者、成年とも不詳。
二章 芭蕉に見える西行享受。
・『新古今和歌集』を中心とした
西行と慈円の和歌の相違について/本歌取りについて
・西行の和歌を踏まえた芭蕉の発句
『山家集』との関わり/『御裳濯河歌合』との関わり
・「心の色」について
三章 『八雲御抄』と蕉風「軽み」
・『八雲御抄』と『三冊子』
「いりほが」について/字余りについて/蕉風「軽み」について
・『八雲御抄』と『聞書七日草』
・蕉風「軽み」の先行研究
B 西行受容のポイント
発表者は西行受容のポイントを得るため、以下のステップでその要点を知ろうとした。
・先ず西行の著書『撰集抄』を読み込み、西行和歌の本質を探る
・その上で、西行和歌の威徳が後代どのように現れたかを調査
① 『撰集抄』からキーワード「心を澄む」を得る
『撰集抄』を読み進めると以下のことが判った。
・読み進めると「まことの道心」を追い求める僧の姿が多く描かれていること。
・表現は微妙に異なるが、その僧達の心の持ちようを総じて「心を澄む」と表現している。
・また「心を澄む」状態で和歌を詠むことは、それ自体が求道に繋がること(「和歌即陀羅尼」)。
・世を捨てただけでは真の隠遁ではない、隠遁は「心を澄む」心境に到る手段であること。
・つまり乞食僧の目指す求道の極意は「心を澄む」ことにある。
その結果、芭蕉は『撰集抄』から「名誉栄達を嫌い人里離れた深山に住まい、自然の中で心を澄む乞食僧の姿」が西行が目指した理想の姿であると読み取った。なぜなら芭蕉には明らかに『撰集抄』の上記乞食僧の姿を踏まえたと思われる書簡(元禄3年4月、此筋・千川宛芭蕉書簡)を多く遺しているからである。芭蕉はこの乞食僧たちの目指すものと自分が目指している方向が同じであることに気付き、「心を澄む」隠遁者、漂泊者の姿が自分に合った生き方であると自覚したと思われる。
② 和歌の徳
一方、発表者は『西行物語』からも上述した「和歌即陀羅尼」に関連する記述があることを知る、具体的には「和歌を詠むことによって心を澄ませる。それは詠歌による罪障懺悔を語っている」という一節である。西行においては和歌と「心を澄む」が密接な関係にあったことを再認識する。さらに同様なことは西行と同年代に生きた明恵上人の伝記の中でも以下のように述べられていることを知る(「高尾の和歌論」『栂尾明恵上人伝記』)。
「西行が時々私(明恵上人)を訪ねて来て『私が歌を詠むのは一首読み出でては一躰の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ』と語った」
つまり、私(西行)が歌を詠むのは常人とは異なり、歌一首は一体の仏像を造る思いで詠み、一句を練るのも秘密の真言を唱える思いであると和歌への姿勢を述べている。
以上から西行に取り「心を澄」ませ和歌を詠むことが求道の道に繋がる道でもあったことを確信する。
*西行法師(1118年~1190年)は、明恵上人と僅かに17年間此の世を共にしている。
*明恵上人(1173年~1232年)は数え10歳で高尾山神護寺に入山15歳で出家するので、この神護寺の修行時代に、すでに高齢であった西行の話を聞いたことになる。
③ 『和歌威徳・和歌徳物語』
上述した西行の「和歌の徳」は版本の普及と相まって一般庶民の間にも広まり、芭蕉の「奥のほそ道」行脚の前年(元禄2年)には、「和歌の徳」を撰集した版本『和歌威徳・和歌徳物語』が出版され、西行享受の本として広く庶民の間に広がった。
C 芭蕉の西行受容
以上のように芭蕉が生きた時代、西行は和歌の徳を説く歌僧というイメージが強く打ち出されていたのである。その中で芭蕉は「西行の隠遁者としての詠歌行為」「さびの美学と無常観」「心を澄ませてありのままに生きる」という西行のすべてを享受したと述べる。またその影響は芭蕉の著述『幻住庵記』や所謂「閉閑之説」と呼ばれる真蹟懐紙などにも色濃く現れている。
*『幻住庵記』元禄3年(1690)芭蕉47歳。
*「閉閑之説」元禄6年(1693)芭蕉50歳。芭蕉は元禄6年7月から約1ヶ月間閉閑し全く人に会わなかった。表向きの理由は避暑と療養。『奥のほそ道』の推敲という説もある。
なお今回は特に説明はなかったが、芭蕉が西行和歌を踏まえて詠んだと思われる発句約100句を西行和歌と対応させた一覧を参考として聴講者に配布した(資料2)。
(3)発表者による総括
芭蕉は『撰集抄』で述べる「心を澄む」状態が隠遁と深く関わることを知り、38歳のとき自らも「乞食の翁」と称し深川に隠遁する。西行、そして芭蕉が求めた「風雅」の世界は隠遁者の目と心が必要であった。芭蕉が西行受容で得た最も大きなものはこの点であった。その上で芭蕉は西行和歌を通し「心深く哀れなる」ものを見つめる目を継承した。さらに芭蕉はこれを一歩進め、俳諧に俗なものを取り込んでいった。つまり「高く心を悟りて俗に帰る」という蕉風俳諧の核心である。俳諧の俗とは天地自然の変化の全てである。
また西行の心と仏と衆生を一体とみなす詠歌行為は、芭蕉の「造化にしたがひて四時を友とす」という言葉に継承されている。
2 所感
今回の発表を聞き、西行が近世和歌や俳諧に及ぼした影響の大きさを改めて認識した。また芭蕉が生きた時代は板本による西行ブームであったこと、その背景には朝鮮半島からの印刷技術の移入があったことを学んだ。まさに芭蕉が生きた時代は西行享受の時代でもあったようである。それ以前は能や謡曲による伝聞としての西行享受であったが、板本の普及で一気に一般庶民に広がった時代でもあったようだ。これは私見であるが、当時の西行享受に対する短詩形文芸に対する影響は二面性があったように思う。一つは発表者が述べたように芭蕉に対する影響で、腐敗した俳諧に蕉風という新風を起こし俳諧に新しい道を開いたことである。一方芭蕉と同時代を送った僧の契沖は芭蕉とは違った、ある意味で対極の歌論を展開している。契沖は国学に造詣が深かったこともあり、和歌に仏教や儒教の影響が色濃く影を落としている中世歌論を強く否定し、万葉集に還るべきと主張した。ただ契沖の場合、西行がどれほど影響したかは分からない。しかし芭蕉同様版本による西行享受ブームの時代を共に生きたことには変わりない。芭蕉、契沖と言う対照的な逸材を生んだこの時代の風のようなものを感じる。
また発表によると芭蕉の西行受容は深川隠棲時に始まるが、見方を変えれば、この頃から芭蕉には生活者の匂いが消え求道者の面が現れてくる。興味を抱いたのは、芭蕉が西行から得たものは、俊成に代表される当時の宮廷歌壇に敢然と新風を吹き込んだ点であろう。その点では契沖と似ている。契沖も中世歌論を否定し万葉への原点復帰を唱え歌論に新しい風を起こそうとした。この時代はそのような風が吹いていたように思う。
芭蕉は最晩年「軽み」の境地に入る。同様なことは芭蕉以降の蕪村や一茶、良寛にも見えるように思う。良寛にいたっては修行に努めた前半生を恥じるかのような漢詩さえ晩年に詠んでいる。経験と齢を重ねることで詠歌の境地、つまり作品内容が変わってくるように思う。故に芭蕉や良寛の求道、修行時代を否定するつもりはない。むしろそのような経験があるからこそ、晩年の「軽み」の世界が深い充足感に包まれるのであろう。
3 その他
発表者から当日の質問に関する回答、および補足説明です。
① 元号の質問で
文治六年と建久元年は同じ年です。(元号は4月に建久に変わりました)
② 御裳濯河歌合の名称について
伊勢に「みもすそ川」がありました。
西行の御裳濯河・宮河歌合の両歌合は伊勢神宮に奉納されました。
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