芭蕉の心と風景

今瀬剛一先生より、ご著書『芭蕉体験 去来抄をよむ』(角川書店)を賜りました。まず心よりご上梓のお祝いとご恵贈の御礼を申し上げます。「芭蕉を現代に生かす」というお考えに大賛成です。実作者としての体験を通してこその説得力が感じられます。多くの方々にお読み頂きたい時宜を得た好著と存じます。深謝まで!!

文知摺観音

早苗とる手もとや昔しのぶ摺

長崎美代喜さんと美恵さんの『土佐弁・奥の細道』・ダイジェスト

―訳・長崎美代喜、校正・和田智子、画・長崎美恵―

『土佐弁・奥の細道』は、1999年の夏に自費出版されました。長崎美代喜さん(男性)は同じ高校の同窓生ですが、現在は、建設コンサルタント会社(東京)の社長をしておられます(編集時)。長崎美恵さんは彼の奥様です。『土佐弁・奥の細道』 には、美恵さんの水彩画(44枚)が挿し絵として使われています。

以下は、『土佐弁・奥の細道』 の部分的なご紹介です。

医王寺

笈も太刀も五月にかざれ かみのぼり(帋幟)

山形・立石寺経堂

原文

山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にて、殊静閑の地也。一見すべきよし、人〃のすゝむるに依て、尾花沢よりとって返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巖を重て山とし、松柏年旧土石老て苔滑に、岩上の院〃扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

長崎美代喜さんの名訳

山形領に立石寺という寺があるがです。慈覚大師という平安時代初期の天台宗の高僧やっ た人が開いた寺です。ことのほか閑静ですきに、一回は見ちょかんといかん、と人が進めてくれたもんですきに、ほんなら行てちゃろうと尾花沢からとって返いたがはえいけんど、その間がなんと七里もありましたぞね。幸いに立石寺に到いたときには、日もまだ西のそらに残っちょって、暮れちゃあせざってきに、麓にある坊に宿の予約をしちょいて、山の上にある堂まで登ったがです。その山の格好というたら、岩に岩を重ねて山が出来ちゅう見たいで、松もえらい古いががあるけんど、土も石も古いもんやきに苔がいっばいはえちゅう。岩の上にある寺の建物はみんな扉を閉ざしちょって、深閑として何ちゃ聞こえんがです。そういう岩山のなかを、ときには断崖のようなところや、また、はいつくばって行かんといかんところを通って仏閣に参拝したがです。ともかく、静かながです。山気もひえびえとしちょっりまして、心が澄みきっていくような気がしたぞね。そこで、その静寂の気配を句にしてみたがです。

『閑かさや岩にしみいる蝉の声』

最上川

五月雨をあつめて早し最上川

●私は『土佐弁・奥の細道』に少なからず啓発されました。私のホームページに「芭蕉の心と風景」を掲載しました。

http://buntan.la.coocan.jp/back2/history/basyo.htm  より

芭蕉の心と風景

1.『土佐弁・奥の細道』のタイミング

(訳・長崎美代喜、画・長崎美恵)

●長崎美代喜さん(男性)は同じ高校で同窓生であった。現在の彼は、建設コンサルタント会社(東京)の社長をしている。長崎美恵さんは彼の奥様である。ご夫婦は高知県の出身であるが、現在は千葉市に住んでおられる。そのためか著書の「訳」には、和田智子さん(長崎美恵さんの妹)の「校正」(方言指導か)がついている。

私(高知出身)も長らく土佐弁を使っていない。そのため真っ当な土佐弁は語れないが、理解することはできる。

●この春になって『土佐弁・奥の細道』を読む機会に恵まれた。初めて松尾芭蕉の『おくのほそ道』を通読した。まるで、松尾芭蕉が土佐弁を語るがごとき名訳であった。この著書に啓発されて、このエッセイを書いた。

そして、 その訳文の挿絵に使われた画(水彩画)の役割が、「芭蕉の風景」を考える上で欠かせないことであることを知った。

●私は、俳句は読むことがあっても詠むことはほとんどない。しかし、俳句に関心がない訳ではない。例えば私の本棚には、芭蕉に関係する読み物として、

『やさしい、俳句入門』(松井利彦著)、中野孝次著『清貧の思想』の「風雅が身を削る松尾芭蕉」、「旅で死ぬ覚悟の芭蕉に見えた景色」(項目) 、陳舜臣著『人物・日本史記』の「松尾芭蕉」(項目)、唐木順三著『日本人の心の歴史』の「芭蕉の発明」(項目)などが、いわゆるツンドクの状態になっていた。

この三月、『百人百句』(大岡信著)を読んだ。この著書はまるで『土佐弁・奥の細道』の先触れであった。その百句の中の一句として、芭蕉の「閑(しず)かさや岩にしみ入る蝉の声」の詳しい解説があった(※)。

※蝉の声が物理的に岩にしみ入ることはあり得ない。しかし、あり得たごとく詠んでいるし、それ以上にあり得るのは当然だと読めてくる。「しみ入る」は日本の詩歌の特徴的な美意識。日本の美学は、尺度のない触覚、味覚、臭覚を大切にする。(一部要約)

なお『土佐弁・奥の細道』を読んだ後に、ホームページの検索を使った。その一部を年表その他で使った。

松尾芭蕉の年表(略)

西暦 和歴 芭蕉年齢 aa主な歴史的記事

1644 寛永21 aa 伊賀上野(三重県)に誕生

1651 慶安4 aa 三代将軍・徳川家光死去

1684 貞亭1 40 『野ざらし紀行』の旅に出発

1685 貞亭2 aa 『野ざらし紀行』の旅を終える

1687 貞亭4 43 『笈の小文』の旅に出発

1688 貞亭5 aa 『笈の小文』の旅を終わる

1688 元禄1 aa 元禄に改元

1689 元禄2 45 『奥の細道』の旅に出発(陰暦5月16日)

1689 元禄2 aa 『奥の細道』の旅を終わる(大垣)

1694 元禄7 50 大阪御堂前・花屋仁右衛門宅で死去

2.季題のルーツ

●『やさしい俳句入門』にも『俳句歳時記』にも、豊富な季語が掲載されている。しかし、俳句になぜ季題があるのか、そのルーツを解説されたものを読んだことがない。

俳句は季題の言葉を入れた七五三の定型詩であると、まるで決まりきった制約のように長らく肯定されてきた。

『笈の小文』(おいのこぶん※)という文章の「序」には、極めて重要なことが書かかれてある。俳句の季題を考える上での重要なヒントがあった。

※修験者などが使った背負いの箱

『笈の小文』の冒頭部分を要約すると、風雅と造化(※)につきる。風雅のことは次項に書くとして、造化については次のような文章があった。

-西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利久が茶における其(その)貫道する物は一(ひとつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。(中略)造化にしたがひ造化にかへれとなり。(後略)-

※造化とは創造主、宇宙・天地のこと、四時とは春夏秋冬のこと(国語辞典)。

季題という名称は芭蕉の後の人が命名したとしても、芭蕉のライフーク(特に晩年)は極めて自然に、四時と呼ばれている春夏秋冬と一体であった。つまり、芭蕉の俳諧にとって「季題」はあるべくしてあった。

●芭蕉が芭蕉になったのは『野ざらし紀行』からであった、と言われている。

芭蕉の生涯を先の年表で見ると、『野ざらし紀行』は1684年(40歳)から1685年であった。とすれば、芭蕉にとって「紀行」とか「ほそみち」とか呼ばれているもの(旅)の本質が、あらためてクローズアップされてくる。

歴史的に日本人にとって、四時(四季)のない旅はない。というより、日本人の生活は四季とともにあった。四季は、日本人の根源から離れなかった。

「芭蕉が芭蕉になった」ことの意味を考えると、芭蕉が自分を「造化にしたがひて四時を友と」することを自覚した時点に重なる。その時点は芭蕉の旅と重なる。旅は、芭蕉の俳諧の質的な転換期に重なっている。芭蕉が自分を「発見」したものこそ旅であった、と言えないだろうか。

●では、芭蕉はどのような心境で旅に臨んだのであろうか。

『清貧の思想』は芭蕉と旅と景色のことを、「旅で死ぬ覚悟の芭蕉に見えた景色・野ざらしを心に風のしむ身かな」と表現している。

『百人百句』に、「芭蕉は西行と杜甫を愛読していた。芭蕉のなかには、死者と生者の魂の交流が絶えずあり、小さな自分の存在を貫いている詩の伝統の太い流れに自分を乗せたいという堅固な意思があった」というくだりがある。

●芭蕉と西行の関わりは、多くの図書が指摘している。 西行(1118~1190年)は貴族に仕える武士であった。出家して、生涯を歌人として生きた。芭蕉は伊賀の国(三重県)の郷士の次男であった。

『清貧の思想』は、「花を愛し孤独に耐えきる西行・さびしさに堪えたる人のまたもあれな」と要約(タイトル)している。

西行は24歳の若さで出家した。平清盛(西行と同年)の栄華は長くは続かなかった。西行が「捨てたこの世」とは、保元・平治の乱、源平の動乱など、地獄のような乱世であった。

出家の生活はそのまま仏の世界でもあるが、西行の出家と芭蕉の旅は、時間と空間を超えて通じていたのであろうか。

『おくのほそ道』には、平泉の奥州藤原家三代のことが書かれてある。確かに「死者と生者の魂の交流」が「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」のように詠まれている。

先に書いたように、芭蕉の俳諧には四時(季節感)のことが旅と一体的に詠まれている。その風景は、旅人(芭蕉)の詩情と心理をも写している。そして、芭蕉の季節感には僅かであっても死生感が漂っている。季節感を季題と呼ぶなら、季題は季題に収まらない。

3.芭蕉の風雅

●風雅の言葉の意味は、①みやびやかなこと。風流。②詩歌・文芸の道だと解説されている(国語辞典)。

『清貧の思想』には、

(1)「風雅が身を削る松尾芭蕉・一句として辞世ならざるはなし」というタイトルが使われている。

(2)芭蕉は「わが生涯いひ捨てし句々、一句として辞世ならざるはない」と言った。

(3)芭蕉は「つねづね一作一作にすべての力を傾注した」と紹介している。

その上で、俳句を作るものにとっては作った歌や俳句がそのまま辞世であった、とも解説している。

しかし芭蕉の風雅は、国語辞典や常識でいう風雅ではない。その風雅の概要は、上記の解説を見た限りでも分かる。

●『日本人の心の歴史』は、『清貧の思想』と同じく『笈の小文』の前文に着目しながら、芭蕉の風雅を独創的に分析している。次はその要約。

-芭蕉の風雅は万葉以来の「みやび」(わけしり)とは違う。王朝の「みやび」の意味は優雅、優美、上品であった。そこには、造化は出てこない。芭蕉の風雅風流は造化そのものに帰ることであった。

和歌は、勅撰集(※)であったから景物は限定されていた。

(春、梅・鶯・桜・霞・柳。 夏、橘・郭公・卯の花・五月雨。秋、紅葉・月・露・萩・雁・秋風。冬、雪・時雨・霜・氷)。

つまり、水に住む蛙(かはず)も古池に飛び込む水の音も和歌にはなかった。

漢詩、和歌、連歌、俳諧はいずれも風雅であるが、俳諧だけは、他の三つ(漢詩、和歌、連歌)の扱わないものを扱った。例えば、糞・尿(ばり)・蚤(のみ)虱(しらみ)などであった。「鶯や餅に糞する椽の木」。その他にも、栗のいが・瓜の泥などは和歌には詠まれていない-。

※天皇の命令で詩歌集を選定編集。

鶯や霞が詠まれれば,詩歌が上品になるのではない。蚤や虱が詠まれれば、詩歌が下品になるのではない。鶯も蚤や虱も生き物としている。生き物に上品下品はない。

●次は、『日本人の心の歴史』に書かれてあることを「芭蕉語録」として要約した。

「俳諧は平語は用ゆ」。俳諧は「俗語を正す」。一般的俳諧師は「俗語を俗語として使っている」。「つねにものをおろそかにすべからず」(藤なら藤の、松なら松の、竹なら竹の実態、実相を詠め)。

芭蕉の風雅は、日本の長い詩歌の伝統(叙景・叙情)を踏み越えている。芭蕉の俳諧によって、従来の古典的風雅とは一線を画して一味違う異質の風雅と心(心理)が詠まれている。俳句は、近・現代的文学として大きく発展しているが、その広がりの原点は、芭蕉流の風雅と「平語」の採用などであった、と思う。

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