征夷大将軍

https://honcierge.jp/articles/shelf_story/5777  【5分でわかる征夷大将軍!主な将軍一覧、源氏しかなれない説などを簡単に紹介】  より

「鎌倉、室町、江戸幕府の将軍の正式名称は何?」というクイズを出したら、ほとんどの人が「征夷大将軍」と答えられるはずです。でも、「征夷大将軍の本来の意味は?」という問いに対し、「幕府の長」や「武家の棟梁」では正解になりません。なぜなら彼らの役割は、時代のニーズに合わせる形で変わっていったからです。この記事では、征夷大将軍という役職ができた由来や役割の変遷、歴代将軍などの基本的な知識や、源氏しかなれないという通説の真偽などについてわかりやすく解説していきます。またあわせておすすめの関連本もご紹介するので、ぜひご覧ください

征夷大将軍とは何か?簡単に解説

朝廷の令外官のひとつで、朝廷に従わずに対立していた東北地方の部族「蝦夷」を「征討」するために、天皇の軍事代行者として任命された役職です。

といっても、最初から征夷大将軍と呼ばれていたわけではありません。古くは飛鳥時代末の709年に巨勢麻呂(こせのまろ)が「陸奥鎮東将軍」に任命され、その後も「征夷将軍」「征東将軍」「征東大使」など時期によって呼称もまちまちでした。

また当時は太平洋側を進む軍を率いる者を「征夷将軍」、日本海側を進む軍を率いる者を「征狄(鎮狄)将軍」、九州へ向かう軍を率いる者を「征西(鎮西)将軍」と呼び分けていました。

陸奥国の蝦夷を征討する軍を率いる将軍が「征夷大将軍」と呼ばれるようになったのは、奈良時代末期以降です。

征夷大将軍、初代は誰?主な人物一覧も

日本で最初の征夷大将軍として、歴史の授業で坂上田村麻呂と習った人も多いかもしれません。ただ実は初代は大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)で、田村麻呂は2代目になります。

790年に征東大使になった弟麻呂は、794年の正月、節刀を賜与されました。これが征夷大将軍という呼称の初見です。この時、弟麻呂の副使として蝦夷征討の中心的役割を担っていた田村麻呂は、鎮守将軍を経て、平安時代初期の797年に桓武天皇から征夷大将軍に任じられます。

弟麻呂は呼称としての初代、田村麻呂は実務としての初代と解釈すれば、わかりやすいかもしれません。

その後、1192年に源頼朝が征夷大将軍となり、日本で初めての本格的武家政権・鎌倉幕府の長になります。しかし源氏の血筋が3代で途絶えると、九条家出身の藤原頼経が4代を継承し、6代は宮将軍の宗尊親王(むねたかしんのう)といった具合に、摂家将軍や宮将軍で代をつないでいきます。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の建武の新政を経て、足利尊氏が開いた室町幕府では、「日本国王」を称した3代義満、後継者問題から応仁の乱を引き起こした8代義政、「陰謀将軍」の異名をとった15代義昭といった個性派将軍を輩出しています。

また徳川家康が開いた江戸幕府では、「生類憐みの令」を発布した5代綱吉、ドラマ「暴れん坊将軍」シリーズのモデルになった8代吉宗、50人以上の子供をつくった11代家斉、最後の将軍である15代慶喜がよく知られています。

征夷大将軍の役割の変遷は?変わったことと、変わらなかったこと。

当初は蝦夷征討を目的としていた征夷大将軍も、1192年に源頼朝が就任すると、役割が変わっていきます。

東国における武家政権の鎌倉幕府は、全国に守護・地頭を置いて、日本における軍事・警察権を掌握していました。この軍事政権のトップに君臨した頼朝は、自身の地位にふさわしい称号を欲し、東北平定後はほとんど有名無実化していた征夷大将軍を再活用したというわけです。

もともと頼朝は奥州藤原氏を討伐するために「征夷」の名目が必要だったというのが通説でしたが、1192年の時点で、奥州藤原氏はすでに頼朝に征討されていました。

このことから、頼朝が望んだのは「征夷」ではなく、「大将軍」のほうであったとし、朝廷が4つの候補の中からもっとも吉例とされる征夷大将軍を選んだとする説も有力です。以後は幕府の長、武家の棟梁として、その役割を変えていきます。

それでは、変わらなかった点とは何でしょうか。幕末の1867年に徳川15代将軍の慶喜がおこなった「大政奉還」がヒントになります。

大政奉還とは、朝廷から委任されてきた統治権を返還すること。草創期の征夷大将軍が天皇の軍事代行者として任命された事実を考えると、幕府も朝廷の代行者という点においては、変わらなかったといえるのではないでしょうか。

征夷大将軍は源氏しかなれないって本当?

鎌倉幕府の創始者は清和源氏の源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏も、頼朝と同じ源義家の血を引く源氏の名門。そして江戸幕府を開いた徳川家康も、「自称源氏」といわれますが足利氏支流・新田氏の末裔を称していました。

その一方で、豊臣秀吉は征夷大将軍になりたかったのに、足利15代将軍の義昭に養子縁組を断られたため、近衛前久の猶子として関白になったという話も伝わっています。

これらのことから、「征夷大将軍には源氏しかなれない」というイメージが定着していますが、実は源氏でなくてもなれるのです。

先述したとおり、鎌倉幕府では源氏の血統が途絶えた後、摂家将軍や宮将軍が誕生していますし(ただし摂家将軍は母方が源氏の血統)、戦国時代には平氏の子孫を称していた織田信長に対して、朝廷が征夷大将軍を打診しています。

また秀吉についても、江戸時代初期の1642年に林羅山が編纂した『豊臣秀吉譜』に記載されているのが初出で、徳川の天下になってから唱えられた説であることを考えると、あまり信憑性はありません。彼はなろうと思えば将軍になれたのに、よりメリットのある関白を選んだともいえるでしょう。

しかし朝廷から官職を得るには、何事も先例が重んじられたので、当時「武家の棟梁である征夷大将軍は、源氏がふさわしい」という考えが根強かったのも事実。家康もこの先例にならい、源氏であることをアピールして将軍になったのです。

もののふの空を見果す余寒かな  高資

 権大納言・征夷大将軍足利尊氏公像ー 場所: 栃木県 足利市

水平に昼を燭すや常楽会  高資

 鑁阿寺本堂(国宝)ー 場所: 鑁阿寺

鑁阿寺の水をさ渡る二月かな  高資

 足利氏宅跡(国指定史跡)・本堂(国宝)ー 場所: 鑁阿寺

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吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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