いや光る毘盧遮那佛や未草 高資
下野の安蘇野の原の朝あけにもやかけわたるつづら草かな 人麻呂
人麻呂へ申す祝詞や未草 高資
睡蓮の開く光となりにけり 高資
https://www.zenbunka.or.jp/zenken/archives/2007/07/post_230.html より
未草(睡蓮)の季節ですね。
朝開いて、夕方には閉じる事から、エジプトでの花言葉は、「復活」です。国花でもあります。
太陽信仰があり、水を大切に思う人々にとってはまさに、慈しむべき花であったのでしょう。
ツタンカーメン王の墓の中にも、ブルーの未草が敷き詰められていたと言われていますし、壁画やパピルスに書かれている絵にも、この未草が見られます。
エジプトを旅される方は、色々な所で遭遇する機会があるでしょう。
そんな未草、アジア諸国、むろん日本でも愛されていますね。
そういえば皇室では、紀宮様のおしるしが、未草でした。
あらゆる種類があり、水面に浮かぶ神秘的でありつつもかわいらしい花には、しばしみとれてしまいます。
写真でもおわかりのように、水面に葉も花も浮いているようにあるのが未草(睡蓮です)です(ただし、熱帯性のものは水面より茎が伸びて咲くそうな)。
もう少しすると蓮も満開ですね・・・(蓮は、葉も花も水面より上に伸びています)。
facebook・岡本 よりたかさん投稿記事 「次も母ちゃんのとこに来てなぁ」 より
FBFの方の投稿を読んで、思い出した事があり、今朝も書いたのだけど、もう少し詳しく書いてみる。
池川明さんという、「胎内記憶」という本を書かれた池川クリニックの院長とコラボ講演をさせていただいた時の事。
池川さんの胎内記憶の話を聞いているうちに、ふと自分はどうだったかなと考えていた。子どもは母親を選んで産まれてくる。そして母親を決める時の事を記憶しているという。
信じ難い話ではあったが、同時に上映された映画の中で、子どもたちがイキイキと胎内記憶や胎前記憶を話している姿を見て、もしかしてあり得るのではないかと感じ始めていた。
正直、連日の疲れでウトウトしかけていたのだが、その一瞬の隙に、僕を身ごもっている母親の姿がフラッシュバックのように、脳裏に浮かんで目が覚めた。
話に誘導されたのかなと思いつつも、もう一度目をつぶってみると、やはり、その母親の姿がハッキリと見える。
そして、母はこう言った。
「次も、その次も、また私のところに来てね」
不思議な感覚に包まれた。少なくとも僕の本当の記憶ではない。しかし、確実にそしてハッキリと、お腹に向かって、そう話しかけていたのである。
その日の講演が終わり、また忙殺の日々が続き、そんな事もすっかり忘れていたある日、5年前から病を患ってた母の体調が悪くなったと、本人から連絡をもらった。そして医師に僕を呼べと言われたらしい。
そんなわけで、僕は、すぐに実家に帰った。
翌日、医師から、もう数日も持たないと告げられた。母も医師の言葉を聞いていた。死を覚悟したその姿は、哀れでもあった。
沈み込む母を病室に寝かせて、また明日来るからと声をかけたら、母は号泣した。いたたまれない気持ちになり、その場を後にしようとした時、母は僕に耳元で小さく、こう言った。
「次も母ちゃんのとこに来てなぁ…」
僕は瞬時に10ヶ月前の事を思い出した。僕を身ごもった母が、お腹に話しかけていたあの姿と、あの言葉。細かなところは違っても、同じことを言っている。
どう反応したら良いか分からず、僕は「もちろん」と呟いて、病室を出た。そして、涙が止まらなくなった。
輪廻転生はないとずっと思って来たのだけど、この時、過去に何度も、この母の元に産まれてきていたのではないかと感じた。
そして、ふと思い出した。
そう言えば、お腹の中の僕に声をかけていた母が着ていた服は、浴衣のような和服だった。髪は乱雑に結っていた。少なくとも、昭和30年代の服装ではなかったのである。
未だに確信はないが、輪廻転生はあるのかもしれない。好きな母であれば、毎回同じ母の元に産まれて来ることもできる。
本当にそうならば、僕はもう一度、いや、二度でも三度でも、同じ母の元に産まれて来ようと思う。
輪廻転生、胎内記憶。皆さんは、これを信じていますか?
雨上がり山を走れる夕焼かな 高資
夕焼けて金鶏山より無量光 高資
山並に日を入れて沸く夕焼かな 高資
三千を見渡す深山茜かな 高資
Beyond the lotus leaf
a dragonfly fixes her eyes on the universe Taka
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