雨空へきざすゴーヤの若芽かな 高資
山茶花の八重に幸ふ雲居かな 五島高資
うつし世に残る桜の実なりけり 高資
なかいまを極める赫や桜の実 高資
かくり世へ罷る桜の実なりけり 高資ー 場所: 宇都宮城址公園
白鷺の崩れんとして飛び立てり 高資
熟柿の地に燈りてや千島笹 高資
facebook・山地 弘純さん投稿記事
【『天気の子』を観て】
(※ネタバレあり。それが嫌な人は読まないでね)
「もしも神様がいるのらば、これ以上僕たちに何も足さず、何も引かないでいて下さい。」
そんな彼らの願いも空しく、何かが足され、何かが引かれ、その姿を変えながら、世界は動いていった。
変えられるものはなに?
変えられないものはなに?
そう問いかけてくるようだ。
例えば主人公のように、自分の凹みを埋めるために、世界の集合意識に繋がり、それを埋める何かが見つかった時から、大きな使命に目覚めた気になる。
だけどそれはまやかしなのかもしれないね。
晴れにするという使命に応え、多くの人たちから喜んでもらううちに、自己の存在価値を満たすために、雨を願ってしまう天気の巫女。
それは、
ヒーローになりたいがため、火事を願うスーパー消防士。
救いたいがため、人が苦しむことを願うカリスマ救世主。
それらの心の構造と同じだ。
審神者。
宗教指導者。
天啓者。
それらのはまり込みやすい罠でもある。
自分の存在価値を証明しようと、大きな世界に影響力を「及ぼしたい」と思えば思うほど、その対極の願いを無意識に生み出している。
僕自身もずっと悩まされてきたメサイアコンプレックス。
救いたいがために、新温泉町の自殺率が高いという一時のデータを取り上げて、自分の必要性を示そうとしてきたこと。
救いたいがために、この地の人たちの閉塞感にスポットライトを当て続けて、自分が役に立てることをアピールしてきたこと。
それは救うことと同時に、人々の苦しみを願う心を無意識に生み出してたってことじゃないのかな。
世界のために。
地球のために。
未来の人類のために。
広げる風呂敷が大きい人ほど、大概自分の中にエネルギーを奪う大きな闇が同時に広がっていることに気づいていない。
「世界なんて狂っててもいい!」
「自分のために願って、ひな!」
帆高の言葉は、
「自分の外側ではなく、まず自分の内側と向き合って!」
「他者のために自己犠牲になんてしなくてもいい。自分のために生きて!」
そう言っているように感じた。
そしてなにより彼自身が、自分のために、自分のそばにいる人を大切して生きようと心に誓ったんだろうね。
物語の数年後。
雨は止まない。
東京のほとんどが水没した。
それでも世界を大きな目で見た人から「ここはかつても水の下だった場所。だから元に戻っただけじゃないかと思うの」と受け入れていれた言葉を聞かせてくれたことが、なんだか主人公と共に切羽詰まった僕の心も弛めてもらえた気がした。
人間の目で見たら狂っていたとしても、大きな世界は自浄作用を働かせながら、ただただ動いているんだろうね。
外側の世界を変えようなんてしなくていい。
自分の内側の世界を変えるんだ。
存在価値は何かができることじゃない。
ただ大切な人と生きることだ。
そんなメッセージを僕は強烈に受け取ったよ。
映画の伝えたいことから外れてるかもしれないけれどね、それでも僕はそう受け取ったんだ。
なんでその解釈になったのかって?
大いなる使命感から脱却して、一人のただの人として、そばにいる大切な人と共に生きていくことを決めた僕の心模様に重ねたからだろうね。
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