潮騒やほほを伝はる春の雨 高資
日の本の日やみちのくの春の海 高資
14時46分黙祷を☆
色変えぬ杉や難斗米の実の点る 高資
大国殿(重要文化財・世界遺産)・大国田道間守 場所: 日光二荒山神社
https://blog.goo.ne.jp/goo20052010/e/8f83abd11831c0f03ad6619d5a0a2d31 より
☆由緒
二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)は、1200年以前から男体山(2486メートル)を御神体山として祀られた神社で、ご祭神は二荒山大神と称し、親子三神で、主祭神の大己貴命・妃神の田心姫命・御子神の味耜高彦根命が祀られる。当社は日光市内三ヶ所、男体山山頂に奥宮、中禅寺湖畔に中宮祠、市内には本社が鎮座します。境内は、華厳の滝・いろは坂・日光連山が含まれ日光国立公園の中枢をなし、伊勢の神宮に次ぐ広大な神域を有します。
☆地名の由来
・日光:アイヌ語で熊笹を「フトラ」と言い、変化してフタラとなり二荒山となった。男体山、女峰山に男女の二神が現れた言い伝えから、「フタアラワレの山」→「フタラの山」になった。古代、インド仏教で菩薩の住むところを「ポータラカ」と呼び、中国を経て「補陀落浄土」と伝えられた。「フダラク」が「フタラ」に変化した。いろは坂の大きな洞穴に風の神と雷獣が住んでいて、雷をおこし豪雨を降らせ、春と秋に暴風が吹いて土地を荒したので二荒山となった。
・・・と諸説があり、古くから「二荒山(ふたらさん・ふたあらさん)」と呼び習わされていましたが、
弘法大師・空海が二荒山(男体山)に登ったとき、二荒の文字が縁起が悪いとして、
フタラをニコウと音読し、佳字をあてて「日光」にしたと伝えられています。
https://nihonsi-jiten.com/emishi-ainu-chigai/
【【蝦夷とアイヌの違い】わかりやすく解説!!同じ民族なの?特徴・関係など】
①「えみし」という呼称
「蝦夷」とは、古代に北陸・関東北部・東北・北海道などに住んでいた人々のことです。
4~5世紀ごろ、関西を中心に大和政権ができました。しかしこの当時は、本州もまだ全て大和の朝廷の支配下にあったわけではありません。その領域は西日本が中心でした。
日本の東北部で大和政権の支配下に入らなかった人々は「蝦夷(えみし)」と呼ばれました。「毛人」という漢字も使われましたが、読み方は同じ「えみし」です。
「えみし」という言葉の語源は諸説ありますが、漢字の「夷」というのは中国で東にいる異民族を指す言葉です。
当時の大和朝廷が中国的な自民族中心の価値観(華夷観念/かいかんねん)を持っていたことがわかります。
「えみし」というのは朝廷側の呼び方で、こうした人々がどんなふうに自分たちを呼んでいたかはわかりません。
②「えみし」の歴史
『日本書紀』には大和朝廷が蝦夷との戦いや交渉を行なった記述があります(どこまで事実かは不明ですが)。
朝廷が本格的に東北へと勢力を拡大しようとしたのは7世紀後半のことでした。
大化改新の直後には現在の新潟市付近まで勢力に収め、斉明天皇の時には秋田の蝦夷と関係を結び、日本海側を北上していきます。
8世紀になると多賀城(たがじょう/現在の宮城県多賀城市)を築き、太平洋側にも勢力を広げました。この時代は帰順する蝦夷には食料などを与えたのに対して、反抗する蝦夷は武力で抑え込むという二面的な政策をとっています。
桓武天皇は789年に坂上田村麻呂を「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」に任命。
(坂上田村麻呂 出典:Wikipedia)
田村麻呂は蝦夷の族長である阿弖流為(あてるい)を降伏させ、胆沢城(いさわじょう/現在の岩手県奥州市)に拠点を置きます。
後に源頼朝や徳川家康がなる「征夷大将軍」ですが、「夷」という言葉が入っていることからもわかるように、もともとは蝦夷と戦う将軍という意味だったのです。
これ以降、「えみし」は日本との同化が進んでいきます。
③「えみし」から「えぞ」へ
中世以降、「蝦夷」は「えみし」から「えぞ」に読み方が変わっていきます。
それはただ読み方が変わっただけではなく、後に「アイヌ」と呼ばれるようになる人々のことを指すようになります。つまり「蝦夷」は異民族を指す呼び方になり、差別的なニュアンスも強くなりました。
北海道のことは「蝦夷ヶ島(えぞがしま)」や「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれました。
今でも札幌ラーメンの店の名前に「えぞ」とつけられることがありますが、それは「蝦夷地」という呼称の名残なのです。
アイヌとは?
(アイヌ民族 出典:Wikipedia)
①アイヌ民族
ではアイヌとはどんな人々を指すのでしょうか?
アイヌとは、現在おもに北海道に住む先住民族のことです。本州以南に住む「和人」とは別の民族で、言語も日本語ではなくアイヌ語を話します。
かつては千島列島、樺太、カムチャツカにも居住しており、現在もロシア領に居住している人々がいます。
「アイヌ」とはアイヌ語で「人間」という意味です。たまに「アイヌ人」などといわれることもありますが、これでは「人・人」という意味になってしまうのであまり用いられません。
北海道の地名はアイヌ語にもとづくものが多く、現在でもその影響が残っています。ただ明治以降「和人」との混血が進み、アイヌを自称する人は少なくなっています。
②アイヌ民族の略史
北海道に住むアイヌは和人との交易を行っていました。しかし、和人が北海道へと勢力を伸ばすとしだいに衝突するようになります。
1457年、アイヌの首長であるコシャマインが蜂起しますが、武田信広によって鎮圧されます。それ以降、北海道の南部は武田信広が婿入りした蠣崎氏が支配することになります。
江戸時代には松前藩が置かれ、アイヌとの交易を行って利益を独占しました。
そして、明治時代になると「蝦夷地」は「北海道」と名前を改められ、明治政府による北海道の開拓が進められます。
ただそれはアイヌにとっては生活の領域を奪われることにつながりました。狩猟や漁を行って生活をしていたアイヌは農業への転換を強いられ、多くの人々が窮乏していきます。
また前述のように混血が進み、アイヌ独自の文化も失われていくことになるのです。
蝦夷とアイヌの違い
①「えみし=アイヌ」?
さて、ここで今回の本題となる「蝦夷とアイヌの違い」の話に入ります。
まず古代の「蝦夷=えみし」ですが、古くから「えみし」がアイヌと同一の民族だったのかについては議論がありました。
江戸時代の学者、本居宣長は「えみし」はアイヌであるという説を唱えたそうです。
アイヌ語の研究で知られる言語学者の金田一京助(テレビでおなじみの言語学者・金田一秀穂先生のおじいさんです)は、東北北部に残る地名がアイヌ語由来であることから、奥羽地方にいた「えみし」はアイヌ民族だったのではないかという説を提唱しました。
しかし考古学者や人類学者による研究では「えみし」が「アイヌ」であるという証拠がなく、両者を同一のものと見るのは難しいのではないかと言われます。
②「えみし」は人種ではない
そこで現在の教科書的には古代の「蝦夷(えみし)」はアイヌとはイコールではないとされます。
つまり、大和朝廷の支配に従わなかった東北部の人々が「えみし」と呼ばれたということです。
その中には日本語を話す人たちもいたでしょうし、のちにアイヌ民族となる人たちもいたのでしょう。
それらをひっくるめて、大和朝廷は自分たちに従わない野蛮な人たちという差別的な意味で「えみし」と呼んでいたわけです。
したがって、そもそも「えみし」を民族や人種的な概念だと考えるのが間違いだったということになります。
③「えぞ=アイヌ」
一方、中世以降に北海道に居住していた「蝦夷(えぞ)」はアイヌ民族だったと考えられます。
要するに、「蝦夷とアイヌの違い」という問題は、古代の「えみし」と中世以降の「えぞ」は別で、「えみし」はアイヌと同一とは言えず、「えぞ」はアイヌであったというのが結論になります。
まとめ
・「蝦夷(えみし)」とは、古代に北陸・関東北部・東北・北海道などに住んでいた人々のこと。
・「アイヌ」は北海道の先住民族であり、明治以降日本人に同化していった。
・「蝦夷」は中世以降「えぞ」という読み方になり、アイヌを指す言葉へと変化した。
・「えみし」は人種的な概念ではなく、古代の大和朝廷に従わなかった東北部の人々の呼称。
・つまり古代の「蝦夷」はアイヌとはイコールではなく、中世以降の「蝦夷」はアイヌのこと。
https://utukusinom.exblog.jp/12863509/
【大和朝廷に 征伐された クモ(土蜘蛛)と エビ(蝦夷) ①】
西暦280年頃に 編纂された 中国の正史 『 三国志 』 中の 「 魏書 」 に
女王国(邪馬台国) の 海を渡った東に、倭種の国・『 侏儒(しゅじゅ)国 』 があり、
その人たちの身長は 3~4尺だ。
とあります。
現存する 日本最古の書物 「 古事記 」 には、長脛彦(ナガスネヒコ) が、大和で 神武天皇と戦った話が 出てきます。
そして、神武天皇が、大和盆地に入る直前の 忍坂(奈良県桜井市忍阪)で 尾が生えた土雲(土蜘蛛:つちぐも)を 討った と 書かれています。
日本書紀 では、神武天皇 即位 前紀に、
高尾張 邑(たかをはりの むら) に、土蜘蛛(つちぐも) 有り。
其の 為人(ひととなり)、身短くして 手足長し。
侏儒 と 相類へり。
皇軍(みいくさ)、葛(かづら)の 網を結ひて 掩襲(おそ)ひ 殺す。
因りて 号(な)を改め 其の邑を 葛城(かづらき)と 曰ふ。
すなわち、高尾張村に 土蜘蛛がいて、皇軍が 滅ぼした。
と 書いてあります。
ただし、これが書かれたのは 千年後のことですが ・・・・ 。
紀元前 7世紀、統一国家を目指し始めた頃、列島には 多様な部族が居て 多様な文化があったに違いない。
その頃から、いや それ以前から 列島には、大陸の 北や南、また遠く 南方から 多様な人たちが 渡ってきていた。
国家の形成の過程で、帰順しない部族を、クモ や エビといった 虫 にたとえて、国を 統一していきました。
私はその過程で、一部の地方に 古代文字が残っていったのだと 思います。
https://ameblo.jp/nohohonkoubou/entry-10072533269.html 【空海は蝦夷か?】
「わたくしの父は、佐伯氏の出身で、讃岐の国多度の郡の人であった。むかし、東国の毛人(えみし。蝦夷)征伐に功があって領地を得た。」と空海が遺言として弟子たちに語った言葉を「御遺告(ごゆいごう)」として残している。
古代豪族の大伴家の一派に連なる佐伯氏の華やかな家系が空海の出自だとしている。
司馬遼太郎の「空海の風景」によると佐伯氏には二つあって、中央にいる佐伯氏は、確かに名門大伴家の一派であり、東国の毛人を征したかもしれないが、讃岐の佐伯氏は違うと唱える。
讃岐の佐伯氏は、毛人を「征し」どころか、毛人そのものであると言う。つまり、空海は毛人(蝦夷)の末裔であるという。
ヤマト王権(後の朝廷)に捕らえられ、もしくは従い、兵力・労働力として全国に配された蝦夷の事を佐伯部と呼んだ史実から来ている。
桓武天皇の勅命を受けて陸奥=東北地方の蝦夷征伐を行った坂上田村麻呂。
奈良時代末期から平安時代初期の武官・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ,758-811)は、東北地方の征服に非常に大きな貢献をした人物であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝が信奉した第二代の征夷大将軍としても有名。
794年頃に征夷大将軍に任命された大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を初代の征夷大将軍と解釈する見方が有力ですが、当時は東国支配の長を征東大使や征夷使とも呼んでいた。坂上田村麻呂は、797年に桓武天皇によって征夷大将軍に任命されている。
この大伴家に連なる佐伯か?蝦夷に連なる佐伯か?
なんてことが空海に纏わる事柄で出てくる。
怨霊を恐れ風水仕立ての都を増設する草創期の日本。
百済王族の末裔と記される桓武天皇は、一族の醜い争いの結果怨霊と化した霊を恐れ784年に長岡京を造営するが、794年に改めて平安京を造営した。
数年前に現天皇は「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」との発言をした。
怨霊を恐れた遷都の莫大な経費を東北の「黄金」に求めたのが東北への遠征では?などと僕は思う。
そして、最澄と空海が唐から帰国し日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武治下である。
空海には空白の年月があり、唐へ渡るまで何をしてたか?そして何故無名の空海が遣唐使になれたか?
そんな謎がある。
丁度、空海の空白期が東北王国「アテルイ」や「モタイ」を破った坂上田村麻呂率いる軍隊が東北に居た時期と重なる。
そして空海とは何者か?なんて素朴な疑問が生まれ。
この国の血の交わり方と「大和朝廷」や「天皇家」とは?
色々、この国で長らく封印された謎が思い浮かぶ。
昨日書いた聖徳太子もそんな謎の多い人物だ。
百済王族の末裔と記される桓武天皇が中国的な風水によって都市を作り出す、血塗られた一族の怨霊を恐れつつ、経費がかさみ民が苦しみ、戦争へなんてのは、何時の時代も起きている。戦争の理由は、地下資源なんてのも相場が決まっている。
西暦800年前後の東北の戦いは縄文対弥生の戦いであったなんて言われかたもされる。
未だ「蝦夷」とはなにものか?との答えも出ず、同じように「大和」とはなにものか?との答えも出ず。
征服民対先住民という見方も一面的だとも思う。
この国の歴史の暗部にそんなことが山ほどあって故に現代の政治家は、「日本は単一民族国家です。」などとまことしやかに虚言を弄すのだが・・・・・
この東北の戦い後、おそらく狩猟採集の文化を残した「まつろわぬ民」が全国へ散る。
マタギやサンカ、土蜘蛛や鬼なんて言葉はこの時期から出てくる。
空海の出自と密教と遣唐使、ここに東北の金に金を精製するのに必要な水銀の沢山取れた高野山、山師や山人なんてことを重ね合わせると、空海の謎や空白が少し解ける。
黄金と空海と東北と蝦夷なんてこの国の草創期の壮大なドラマだ。
征夷大将軍という言葉を徳川家まで用い天皇家が任命するという古い慣わしと桓武天皇の時代。
この辺りに縄文を解き明かす大きな鍵もあるのだと思う。
弘法大師と敬われる空海の出自は民間伝承では知れ渡っていたのかも知れない。
この国の長きに渡る征服の歴史と差別の歴史そして同化政策、その中心に位置する天皇家。
縄文から弥生という農業革命は今の時代と似ている。
大きな変革の時代だ。
そんな時代を生きた空海。
密教がインドで起こり、中国を経て、空海に伝えられ、日本で独立した宗派として真言宗を開くまでの壮大な歴史その根底にある先住民文化やシャーマニズム。
ここに空海の出自が深く関わってるのかも知れない。
だからこそ、空海蝦夷説が生まれるのだと思う。
夢枕獏や松岡正剛も似たようなことを書いている。
「ここで重要なのは、空海の一族がなにやら奇妙な係類のうちにありそうだということ、しかも「古代言語の魔術」というものにかかわっていそうだという、その消息だ。
ひょっとしたら空海の背景には、のちに「十界に言語を具す」と断じた空海自身を動かしたやもしれぬ古代言語の呪力に充ちた歴史がひそんでいるのではないかということである。」
「空海の夢」松岡正剛著
殊に「神仏の属性にハンディキャッパーとしての性格の投影があり、そこに人間の「弱さの起源」や「欠如の起源」を私は見たい。」という松岡の言葉を天才空海に重ねあわせると僕にとっては空海蝦夷説は非常に魅力的な仮説なのだ。
そして空海と仏教という事柄に関して言えば
「生命が意識を獲得したということは生命の歴史の中でも最大に特筆すべきである。
生命が意識をもつことによって生じたもうひとつの異例は、神や超越者を想定したことであった。
空海の全体を「生命の海」ととらえるには、私はその水面下に生物学的な生命のひしめきを包含しておかなければならないとおもっている。即身成仏の「即身」の解明はまさにその点にかかっている。
空海の生命像は今日の最新のライフ・サイエンスによる生命像の本質にさえ迫っている。
DNAの二重螺旋構造の提唱として知られるフランシス・クリュックが『生命の起源と自然』を発表し、生命が宇宙からやってきた可能性を承認、「生命の海」の宇宙的ひろがりについての信用すべき保証書を交付した。
ここで重視しておきたいことは、生命にとって意識とは何なのか、何であろうとしているのか、ということである。
仏教とはせんじつめればいかに意識をコントロールできるかという点にかかっている。生命は進化して意識をもった。」「空海の夢」松岡正剛著
などという言葉も貼り付けておきます。
色は匂へど散りぬるを(諸行無常)
わが世誰ぞ常ならむ (是生滅法)
有為の奥山今日越えて(生滅滅已)
浅き夢見じ酔いもせず(寂滅為楽)
という言葉の魔術師空海作と噂される「いろは歌」などを眺める朝であります。
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し
(-∧-)合掌・・・
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