蘇我氏はエジプトからの渡来人?

石舞台古墳にいます。 (特別史跡)  奈良県 橿原市 ·

秋時雨そばへて映える石舞台 五島高資

とりよろふ山霧晴るる石舞台 同


コメントのやり取り


蘇我氏贔屓にはうれしい朝のプレゼントです。


五島高資 この巨大な花崗岩がどのように設置されたのか今でも謎が多いそうです。


本当に。私は蘇我氏は大陸系とおもっていましたが、葛城山系の出と聞きいまさらの迂闊さに恥ずかしく恐縮です。


若い頃、馬子や蝦夷などの夢をみて、石舞台に想いわはせたころがありましたね


五島高資 そうでしたか。私も中学生の頃、最初に作ったのが、石舞台の句でした。行ってもいないのに。不思議ですね。


 広大のフィールドワークでコチラに訪れたのが夕方で、ちょっと怖かったですね!古代からの怨念が詰まっているような


五島高資 黄昏時は隠り世と交差しますから余計ですね。


『逢魔が時』だったのですね


五島高資 花崗岩は今でもその生成に謎が多く神聖な岩石のようです。依り代になっているのかもしれません。


火山岩だから石英とかが混じりあって出来てるので、熊本は阿蘇山があるので花崗岩ありまくりですが。あーでも『日本書紀』で地元の宮原町の立神峡が光ってて、夜の海から見えて、光が見えた、肥沃な土地だったので肥の国と名付けようと景行天皇が仰って下さり、肥の国の由来のひとつになったと。立神峡は花崗岩で出来ていたはずです!石灰岩も含むので、鍾乳洞が2カ所程あります。ただ一時期自殺のスポットや氷川に流されて亡くなる方が多く、地元民も寄り付かなくなった時期もありました。私も3回溺れかけました( ᵕ̩̩ㅅᵕ̩̩ )


http://candeo-times.com/ishibudai-kohun-6954.html  

【石舞台古墳。巨大な石室と古代米カレー】 より 抜粋

石舞台古墳と蘇我馬子

石舞台古墳に埋葬されていた人物は不明ですが、一説では、蘇我馬子だともいわれています。これはこの石舞台古墳の近くに蘇我馬子の庭園があったことからそういわれています。

蘇我馬子は、飛鳥地方の見所スポットでもある飛鳥寺を創建した人物としてもしられ、その後進であるお寺の元興寺は、世界遺産にも登録されており国宝にもなっているお寺です。

この蘇我馬子は、聖徳太子と共に仏教を日本に伝来させて根付かせた人物としてもしられ、その後、朝廷の制度である冠位十二階の制や憲法17条などを定めた人物として有名です。

蘇我氏は、馬子の次の代の蘇我蝦夷と、その子蘇我入鹿のときに滅ぼされてしまいますが、飛鳥時代に日本の土台を築いた人物として外すことはできません。石舞台古墳はもしかしたらそんな蘇我馬子のお墓かもしれないのです。

http://www.chisan.or.jp/chisanha/center/forum/detail/id=152  

【来世への祈り―古代エジプト人の死生観―】

エジプトの今昔

本日は、今から約五千年前に始まり約二千年前に消えてしまった、古代エジプト人の考えた死後の世界、再生、復活についてお話しします。

古代エジプトでは、各地域(四十二のノモスという州)でさまざまな神が信仰され、いろいろな宗教が認められていました。ちょうど日本の八百万神(やおよろずのかみ)と同じようなものです。しかし、残念なことに現代のエジプト人は、古代の人々が信仰してきた八百万神にはあまり興味がありません。

エジプト最後の女王さまとして有名な「クレオパトラ七世」の在世、紀元前三十年頃、エジプトはローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国は一神教の国だったので、エジプトにも当然一神教を強制し始めます。すると、人々は次第に八百万神を祀ることをしなくなり、その後イスラム教を信仰するようになって、古代の神殿やピラミッドなどには全く興味をしめさなくなりました。

「エジプトはナイルの賜だ」と、ギリシャの歴史家ヘロドトスはいいましたが、エジプト人は、まさしくナイルの流れとともに暮してきました。古代人はエジプトを上下二つの国と考えました。一つは、山に囲まれ農地が狭いナイル川上流の上エジプトで、もう一つは、支流がたくさんあるナイル川河口付近のデルタ地域の下エジプトです。また、現在はナイル川の上流、ナセル湖のアブ・シンベルの先にスーダンとの国境があります。かつて、イギリスとフランスが戦った後に、ここに国境が引かれましたが、実際に砂漠や湖を見てもどこが国境なのかはわかりません。

エジプトの国土の九十%以上は砂漠です。ナセル湖より北のナイル川に沿った河岸にはグリーンベルトと呼ばれる緑地帯があり、エジプト人のほとんどはそこで暮らしています。ちなみに、下エジプトのナイル川の東側には東部砂漠が広がり、その先には紅海に突き出たような形で、モーゼが神から十戒を授けられたというシナイ山があるシナイ半島があり、現在ではエジプト領となっています。

古代、ナイル川上流のルクソール西岸は「死者の町」と考えられていて、「王家の谷」「王妃の谷」など王家の墓や葬祭殿がたくさん造られました。この地から、墓内部に描かれた色彩豊かな壁画、ミイラやその傍に置かれたさまざまな副葬品などが数多く発見されています。また、ルクソール東岸は「生者の町」で、当時の人々が参拝した「カルナック神殿」や「ルクソール神殿」が現存しています。

冥界の神さま―オシリス神話

古代エジプトの来世の神さまで一番有名なのはオシリス神です。オシリスが冥界の王さまと考えられるようになったのには次のような神話があります。

オシリスは、もともとエジプトを治める王さまでした。その弟セトはある時、オシリスの人気と地位に嫉妬して兄を殺害し、体をバラバラにしてエジプト各地へばらまいてしまいます。オシリスの妹で妻であるイシスは、妹ネフティスとバラバラになったオシリスの体を一つひとつ拾い集めました。この時、オシリスの遺体を包帯で巻いてつなぎ合わせ、いわゆるミイラの姿にしたのがアヌビスという神さま(壁画では山犬姿)でした。そして、ミイラの姿となったオシリスは、妻イシス(壁画では玉座を頭に乗せた女神)との間にホルス(壁画ではハヤブサ姿)という息子をもうけます。その後、オシリスは現世の王位をホルスに譲り、自分は黄泉の国(冥界)へくだり来世の王さまとなったのです。

冥界のオシリスが住んでいる国は「イアルの野」と呼ばれています。「イアルの野」は、古代エジプト人が考え出した来世の楽園で、そこで死後においても現世と同じような風景の中で同じように生活をするのが庶民の希望でした。また、死者も大神オシリスの仲間入りをしたというしるしに、名前の上に「オシリス」をつけてもらい、「オシリス何某」として墓の内部に名前を刻み、来世で生き続ける者となりました。真言宗でいえば阿字の下に戒名を授かり、大日如来の世界で安住しているようなものと捉えるとわかりやすいかもしれません。

来世で復活するためには

紀元前五千年以上前、古代エジプトの人たちは、自分たちが住んでいるところから西(前述のルクソール西岸など)にある砂漠の縁のお墓に死者を埋めました。砂漠ですから、遺体は自然と干乾びミイラになってしまいます。人々は、砂漠の中に埋めたミイラを見て、死者は西にある砂漠の向こうで永遠に生きているのだと考えたのです。

古王国時代(紀元前二千五百年頃)になると、王さまは即位後すぐにお墓を造り始めるようになります。王さまは死後に復活し、神々とともに現世の人に影響を及ぼす(見守る)存在と思われていましたが、来世で復活するには肉体が必要でした。ですから、王さまの遺体をミイラ(オシリス神話のように)として残すために解剖医学が発達したのです。最初は王さまの肉体だけをミイラとして保存していましたが、のちに庶民も来世で復活したいという願いを抱くようになり、ミイラにして埋葬されるようになりました。

ただし、来世の楽園イアルの野で復活するまでには、さまざまな困難(例えばワニや害虫や蛇に遭遇する、さまざまな罠に遭遇するなど)に遭遇した後、冥界の王オシリスによる裁判を受けなくてはなりません。ですから、それらの困難から逃れたり乗り越えたりするために、願いを込めた祈りの呪文や、護符(お守り)などをミイラの傍らに置き、来世で復活できるように考えたのです。特にパピルス紙(パピルス草から生成した古代エジプトの紙)に書かれた古代人の呪文集「日の下に現れ出るための書」は、通称「死者の書」と呼ばれ、大切な巻物として棺のミイラの傍らに納められました。

この「死者の書」が発見されたことで、私たちは古代エジプト人の死後の世界を概観できるようになったのです。

ちなみに「死者の書」は、一つの決まった本のように書かれているわけではありません。二百以上もある呪文の中から自分に必要な呪文を選び出し、神官(祭祀者)たちに書いてもらったものです。ですから、呪文が一つの場合もありますし、たくさん書かれたものもあります。同じ呪文が重複することもあります。また、書かれた時代によって表現様式もさまざまです。

人間の五つの要素

古代エジプト人は、人間は五つの要素で成り立っていると考えました。

まず、第一の要素は肉体です。肉体が無ければ、現世も来世も生きることができません。二つ目は、バーです。あえて日本語に訳しますと「魂」となります(通常は訳しません)。バーは、死後に肉体から抜け出し、自由に飛び回り現世と来世を行き来する存在で、墓内部の壁画や死者の書では人間の顔をした鳥の姿で描かれています。三つ目は、影(シュート)です。日が照っていれば自分の影が必ず映し出されますので、それも人間の要素であると考えました。壁画には、黒く塗りつぶされた人間の姿として描かれています。四つ目は、名前(レン)です。古代エジプト人は、人間の存在として名前を大切にしていました。そして五つ目は、カーです。カーは、人間の誕生とともに生まれ、「生命力」を表す言葉です。人間の生命力に一番必要な物は食べ物と水です。来世で生きる上でも、やはり食べ物と水が必要であると考えました。墓には、偽扉(ぎひ)といって絵で描かれた開かない扉があるのですが、その扉の前に供物が置かれます。カーは、生命の源であるエネルギーとなるその供物を受け取る役目で、両手を広げた形で壁画に描かれています。ちなみに、残された者が供物をお供えしなかったり、あるいは供養してくれる人がいなくなったりした時でも死者が供物を受け取れることができるようにと、墓の中には供物や供物を作る様子を絵として描いてあるのです。

死後の世界

「死者の書」には、概ね次のようなことが書かれています。

まず人が死ぬと、残された者は死者が来世で復活することを信じて、肉体をミイラにします。そしてお墓に埋葬する前に、死後最も重要な儀式である「開口の儀式」を始めるのです。

「開口の儀式」とは、死者の口を来世で再び使用できるようにするための儀式です。この儀式によって、死者は来世で食べることも話すことも聞くこともできるようになります。例えば、来世の神さまに呼び出されたとき、話ができないと困ると考えたのです。ですから「口」「鼻」などの他にもいろいろなところの穴を手斧で触れながら、生命機能を復活させる儀式を行いました。

ミイラとなった肉体は、包帯できつく巻かれているため自由に動けません。死後に活動するのは、死者の頭を持つ鳥の姿で描かれたバー(魂)です。昼間は鳥の姿で自由に動き回り、夜になると肉体に戻ってきました。バーが死者の肉体に戻るためにミイラは必要なのです。

そして、イアルの野に到るまでには、数々の困難が死者の行く手を阻みます。それらを呪文の力で乗り越えた死者には、最大の試練としてオシリス神の前で裁判が行われます。

死者のための裁判が行われる所は、「二つのマアトの間」と呼ばれています。マアトとは「真実」「秩序」を表す言葉です。裁判では、生前での行いが神々の意に適うものであったのかが量られます。まず、四十二柱の神々(四十二のノモスの神々)に、「四十二の否定告白」をします。それは、神々からの犯罪や倫理に関わる四十二の質問に対して、例えば、「盗みをしませんでした」「うそをつきませんでした」「○○しませんでした」などのように告白をしていくのです。次に、その告白が正しいか否かを大きな天秤で判定します。天秤の片方の皿の上には「死者の心臓」を、もうひとつの皿の上には「真実を表すマアトの羽」を置きます。「死者の心臓」は、死者の現世の行為を最も知っている象徴(その人の人生そのもの)で、それが「真実を表すマアトの羽」と釣り合えば、嘘をついていない正しい人(善い心臓をもつ人物)と判断されます。そして、その後「声正しき者(男性はマア・ケルウ、女性はマアト・ケルウト)」と称され冥界の王オシリスの国であるイアルの野へ往くことができるのです。しかし、もし、天秤が釣り合わない場合は、嘘をついていることとなり「アメミト」という怪物に心臓が食べられてしまいます。そこで心臓を食べられてしまうと、死者の存在すべてがたちどころに消滅し、イアルの野には往かれなくなってしまうのです。この心臓を食べられてしまうことを古代エジプト人は「第二の死」と考えて、一番恐れていました。

死者の裁判を経て、「声正しき者」が「オシリス何某」となり、漸くイアルの野という来世の楽園で暮らすことができたのです。古代エジプト人は、死の恐怖や不安を、このような世界を生み出したことによって克服したのです。

日本人は、死後、仏さまの世界(密厳浄土や極楽浄土)に往生すると信じてきましたから、古代エジプト人が描いた「イアルの野と呼ばれる、オシリス神や太陽神とともに暮らす極楽浄土がある」と聞いても違和感なく理解できるのではないでしょうか。

古代エジプト人が描いた来世は、まさしく現世の写しだったのです。つまり、現世と同じ来世を描いていたわけです。そして楽園という来世を描くということによって、現世も楽園のようにあってほしいという願いを反映させていたのだと思います。

(構成/智山教化センター)


ますらをや日本海より風光る  高資  東郷平八郎 書 (五島高資 所蔵)


https://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-11786903572.html  【葛城の土蜘蛛】

 葛城にある一言主神社にはもう一つ不思議なものがあります。それは土蜘蛛塚の存在です。土蜘蛛とはヤマト王権に従わなかった氏族の別称でその後には都を脅かす妖怪となっていくものです。土蜘蛛に関する記述は、神話の時代から大和朝廷の拡大期までに見ることができます。その多くは大和朝廷の勢力圏境界付近に住む豪族で、大和朝廷の支配を拒み、天皇や天皇の差し向けた軍によって討伐されました。もともと土蜘蛛自体洞穴に住む蜘蛛のことなので、古代では稲作中心に生活していた弥生人にとって、洞穴や穴を掘った住居にすむ縄文人を指した別称だったのかもしれません。また、製鉄に携わる人々も山に住み、稲作民とは隔別した生活を行っていたので彼らを指す言葉だったのかもしれません。初めに土蜘蛛の記述が出てくる文献は『古事記』で、神武天皇東征のおり、忍坂(現・奈良県桜井市忍阪)にて穴倉に住む尾の生えた種族「土雲」を討ったとの記述があります。興味深いのはこの忍阪の近くに出雲という地名もあるのです。出雲という地名は「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を(やくもたついずもやえがきつまごみにやえがきつくるそのやえがきを)」という神代のスサノヲが詠んだ日本最初の和歌に登場するのですが、この「八雲立つ出雲」という言葉も、「焼雲立つ出鉄(いずもの)」というたたら製鉄を指しているという説もあるのです。こう考えると出雲と製鉄と土蜘蛛はなんだかリンクしてくる感じがしますよね。たたら製鉄でのぼってくる煙が蜘蛛の足のようにも見える気がします。そうすると製鉄の民が出雲と呼ばれていた可能性もあるのですが。もう一つ考えられるのが土師氏の関与です。当時の古墳時代では古墳の周りに置く埴輪が大量生産されていました。その登り窯があたかも蜘蛛に見えるのです。窯自体が胴体でそこからのぼる煙が足とも考えられます。また当時朝鮮半島から渡来した技術でオンドル(今でいうセントラルヒーティング)が畿内にもたらされていました。それぞれの家からのぼる湯気が雲のように見えたのかもしれません。いずれにしても製鉄や陶芸、家々の出てくる煙や湯気の多いさまが出雲という言葉であったのかもしれません。

ではこの葛城にいた土蜘蛛とは誰のことを指しているのでしょう?雄略天皇のより滅ぼされた人々でしょうか?またもうひとつ興味深いのがここ葛城は蘇我氏の発祥の地でもあるのです。根拠としては日本書紀の推古天皇の記事の中に、葛城の地の領有を願った蘇我馬子の奏言としてこう記載されています。「葛城県は、元臣が本居なり。故、其の県に因りて姓名を為せり」(葛城の地は元々私たちの本貫です。その県に因んで蘇我葛城氏の名もあります)また後の皇極天皇の記事にも、蘇我蝦夷が自分の祖廟を葛城の地に立てたことが記載されており、少なくとも7世紀前半の蘇我氏は、発祥地を葛城だと考えていたと思われます。つまり葛城氏は4世紀の頃から5世紀、河内王朝とも呼ばれる時代には最大の勢力を持つ氏族でした。その後、雄略天皇に滅ぼされ、葛城氏を構成する蘇我氏・忌部氏・秦氏・加茂氏等々に分かれ葛城から四散しました。蘇我氏は河内の石川に、秦氏・加茂氏は山背の鴨川・桂川流域に拠点を移動させたのです。これはもしかしたら強制移住であったのかもしれません。そこで彼らは治水技術を生かし稲作を発展させ、やがて天皇家をもしのぐ力を持ったと考えられます。そうすると土蜘蛛とは雄略天皇に滅ぼされた旧王朝も考えられるのですが、乙巳の変(大化の改新)で滅ぼされた蘇我王朝そのものだったのかもしれませんよね。

というわけで今回は葛城の蜘蛛塚のご紹介です。

ここは前回も紹介させていただいた葛城一言主神社にある蜘蛛塚です。

本殿の横にあるのですぐわかると思います。

きざはしを降りて再拝風光る  高資ー 場所: 一言主神社

風薫る一言主の九曜かな  高資

三枝の三竹を拝む西日かな  高資

葛城へ翔る光や今年竹  高資

緑さす三竹山なる社かな  高資

九曜星祀りて山の青葉かな  高資

竹皮を脱ぐや三諸の底光  高資ー 場所: 一言主神社


http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-29.htm  【「国つ神」葛城の神の没落 】より

▼社会革命と宗教改革  

大きな「革命」には「宗教改革」が付き物であるらしい。ヨーロッパの話ではない。わが日本の話である。日本の歴史を背骨のように貫いているものに「天皇制」があるが、この一千年以上の連なりをもつ長い脊柱を眺めると、大きな節目が二つある。  

一つは、氏姓制下での豪族的「大王」が律令制下での絶対的「天皇」となった七世紀後半から八世紀前半にかけての時期(大化改新、大宝律令施行、平城京遷都、記紀成立などが含まれる)である。もう一つは、一千年続いた律令的天皇制が近代法に基づく立憲的天皇制となった明治期である。  

前者には記紀の成立つまり「古典神道」の成立が、後者には廃仏棄釈などを含む「国家神道」の成立が伴っている。これらは「宗教改革」と呼んでよいほどの大変革であった。実に、何かの「成立」とは、他の何かを残酷なまでに切り捨てたり貶めたりすることであった。  

「宗教改革」とは、ある種の「合理主義」である。明治期の「宗教改革」では廃仏毀釈だけが有名であるが、それ以上の暴挙をこの機会に指弾しておきたい。「神社統廃合令」である。明治39年の内務省通牒という一片の文書によって、日本全国の数万社が消滅した。  

その中では「稲八金天神社」なる珍妙な神社も現れた。稲荷、八幡、金刀比羅、天神の統合社である。由緒がはっきりしない鎮守の社が廃されて、より由緒正しき(?)神社に統合されていったが、社数の多い上記四社も相互に統合された。これらによってどれほどの日本人が産土神を失ったことか。  

「廃仏毀釈」に続く、まさに「廃神毀社」であったが、南方熊楠が環境破壊として糾弾しているように、これは同時に森の喪失でもあった。いまや定説化しつつある「賢明な明治時代」という評ははなはだ疑わしい。日本と日本人を「殺した」のはむしろ明治時代ではなかったか。

▼古代の「宗教改革」の目的と標的  

さて、急いで古代へとさかのぼろう。古代の「宗教改革」もなかなかむごたらしい。現代の私たちにはすでに捉えがたいが、明治期以上に日本人にとって重要な何かが失われることによって「古典神道」が成立したに違いない。  

古代の「宗教改革」の目的の一つは、天皇家と藤原氏に連なる神々を「天つ神」、豪族に連なる神々を「国つ神」に系譜づけることであった。それぞれの首領神が「天照大神」と「大国主神」である。ここでは「国つ神」の代表として葛城氏の神の末路を取り上げたい。  

葛城氏は、大王(のちの「天皇」)家確立後、葛城「臣」となるが、かつては大王家に対抗できる最大の豪族、あるいはもう一つの「大王家」であった。紀記編纂に当たり、過去のこととは言えども葛城氏の真実を明かすことは、天皇家がかつては一豪族であったことを傍証してしまう危険も孕まれていた。  

そういう意味で、この「宗教改革」の中で徹底的に破壊されなければならなかった標的の第一が葛城氏の神であったと言ってよい。律令制の「新秩序」に移行していく直前の時点での最大豪族は、言うまでもなく蘇我氏であったが、実はその蘇我氏も葛城氏の傍流の出であり、いにしえの葛城氏本家を羨望し、自身の政治モデルとしていた。  

葛城氏の元祖・武内宿禰の系図に蘇我氏をつけ加えた(あるいは、そうするために「武内宿禰」を造形した)のは、蘇我氏自身である。そしてさらに、その蘇我氏の政治をモデルにしたのが中臣氏改め藤原氏だった。記紀の神統譜作りの目的は、前述の通り、天皇家と藤原氏のためであった。ここに、古代の「革命」と「宗教改革」の担い手・藤原氏による、葛城氏(同時に蘇我氏)の神への徹底した攻撃と簒奪が始まる。

▼大和最高の霊地・葛城  

葛城氏の故地は奈良盆地南西部(現御所市周辺)である。大王家の御諸・三輪山麓とは、盆地を介して東西ににらみ合うような位置にある。もう一つの「御諸」葛城山とは北嶺(現葛城山)と南嶺(現金剛山)から成るが、この山麓には『延喜式・神名帳』が定める最高の社格を持つ神社が五社ある。これと同格の神社は、「大和」全域でたった七社、うち大神(おおみわ)神社など四社が三輪山麓にあり、その他の地にあとの三社がある。この数は葛城の地の威容を示すものである。  

葛城の五社とは、鴨都味波八重事代主命神社(主神・ツミハヤエ事代主命)、葛城坐一言主神社(事代主命)、高天彦神社(タカミムスビ神)、高鴨阿治須岐託彦根命神社(アジスキタカヒコネ命)、葛城坐火雷神社(火雷大神)である。  

このうち葛城氏にとって、大王家の三輪山の神(大物主神ではない)に当たるのは、アジスキタカヒコネ命神と事代主命神である。この二神は当然のことながら、初めから葛城氏によって祀られてきた神々だ。しかし記紀ではどうだろう。「根の国」系の首領神・大国主神の子神となっている。はるばる出雲からやって来た神々とされている。これが「国つ神」という待遇である。  

実は、これと似たような処遇を受けた別の神がいる。吉野川流域に坐す大名持(オホナムチ)神である。この神の由緒はいまとなっては不明であるが、鎮座地からみると、水の神であったろうと思われる。この神は記紀では大国主神の分霊とされてしまっている。大国主神は多くの名を持つことで有名であるが、その一つに「オホナムヂ」がある。これが「オホナムチ」とよく似ているので、同体とされ、吉野の方が分霊とされた。しかし二神が別々の神々であることは言うまでもない。  この神はもともと相当高い神格をもつ神であった。というのも、『延喜式』(927年)に先立つ貞観元(859)年の一斉叙位では、大物主神や葛城の二神を差し置いて「大和第一位」に格付けられていた。おそらく大和最高の土地神・水神であったのだろう。それが「降格」され、由緒を奪われ、大国主神の分霊とされた。

▼葛城の「カモ」  

葛城の神に戻ろう。葛城の五神であるが、「カモ」(鴨、賀茂)の名を持つ神が鴨都味波神社の事代主命神と高鴨神社のアジスキタカヒコネ命神である。この二社はそれぞれ「下ガモ社」「上(高)ガモ社」と通称され、「上・かみ」「下・しも」の対になっている。「カモ」という地名は、今では京都の地名として有名であり、そこにも「上賀茂社」「下賀茂社」がある。  

葛城の「カモ」は今では「元ガモ」とも言われるが、それはここにその名が由来することを示している。そもそも「カモ」とは、平野が深く山際に入り込んだ地形を指す名である。そしてもちろん名族・葛城氏と深く関わる名であった。この葛城の「カモ」の地に葛城氏の「高宮」があった。「高宮」とは武内宿禰の子・葛城襲津彦(ソツヒコ。400年前後に活躍)の本拠である。  

つぎねふや 山城川を 宮上り 我が上れば 青土よし 奈良を過ぎ 小楯 大和を過ぎ   

我が 見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり(古事記五八、日本書紀五四)  これは仁徳天皇の皇后・磐之(イワノ)姫の望郷歌であるが、イワノ姫とは他ならぬ葛城ソツヒコの娘である。歌意は、(難波から淀川、)木津川を上京し、北大和、中大和を過ぎて、早く見てみたいな、私の郷里である葛城の高宮を、というものである。少し寄り道をしなければならない。

▼「高宮」とは何か  

高宮とは高い所にある宮=聖所である。ただし、古代のマツリゴトとは聖俗すべてに関わるものであった。高宮は「高城」(たかき)=高地の砦(高地性集落)でもあり、「国見」の場所でもあった。そしてそこは祭場であり、のちには居館や宮城が築かれ、さらに「古墳」ともなった。  

高宮は「御諸(室)」である。すなわち、神の坐す所である。イワノ姫が歌った「葛城高宮」もそういう歴史を背負った丘であった。第二代・綏靖天皇の宮は「葛城高丘宮」であったと言う。これが史実かどうかは定かならぬが、そこがイワノ姫の歌った「葛城高宮」であり、葛城氏の聖なる丘(アクロポリス)=御諸(室)の一つであったことは間違いない。葛城坐一言主神社もこの丘に坐す。  

実は葛城の地には、まだ二つの「高宮」あるいは「高城」が存在する。一つは葛城の北嶺の「忍海(おしぬみ)の高城」で、履中天皇の娘・飯豊(いいどよ)王女がいた角刺(つのさし)宮である。  

大和辺に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺の宮(日本書紀八四) と歌われている。イワノ姫の歌にも出てきた「見が欲し」(見たい)のフレーズは、『万葉集』では国讃め宮讃めの慣用句として多用されるようになる。この飯豊王女は、イワノ姫の子である履中天皇を父とする。またその母も葛城ソツヒコの孫である。要するに葛城本家直系の王女である。  

いま一つの「御諸(室)の高城」は、先のイワノ姫の望郷歌のすぐあと、仁徳天皇がイワノ姫に贈られた歌の中に登場する。  

御諸の その高城なる 大猪子(おおいこ)が原 大猪子が 腹にある 肝向ふ 心をだにか 相思はずあらむ(古事記六〇)  「御諸」と言えば、三輪山を連想するが、大和には「御諸」と呼ぶ山はいくつもある。これは葛城の御諸(室)である。いまの御所市に「宮山古墳」というものがあるが、これを一名「室の大墓」と言う。ここは古代に「秋津島」と呼ばれた地であった。「日本」のことを、「大和」と言うが、一名「秋津島」とも呼ぶ。これはこの葛城の地に由来する呼び名である。  

『日本書紀』には神武天皇がこの付近で国見をされ、ここを「秋津島」と名付けられたとある。また第六代・孝安天皇の宮はずばり「室秋津島宮」だと言う。この宮が葛城の「御諸(室)の高城」である。ここは「カモ」の入り口に突き出た丘である。その奥に葛城氏の主神・高鴨の神、上賀茂のアジスキタカヒコネ命神が坐す(そしてここも「高宮=高城」であっただろう)。  

ついでながら、このように葛城には少なくとも三つの「高宮」あるいは「高城」があったが、大王家の方はどうであったか。三輪山の頂上に「高宮神社」があるが、言うまでもなく三輪山も「御諸」であり、高城であり、国見の場であり、祭場であった。

▼「カモ」の簒奪  

上術のように「カモ」とは葛城の聖地であった。この至高なる「カモ」の名が同様の地形を持つ京都北東部に簒奪された。京都の両賀茂社は賀茂氏の氏神とされるが、これは真実だろうか。祭神が怪しい。上賀茂社が賀茂別雷(かもわけいかずち)命神を祀り、下賀茂社が別雷命神の母である玉依姫(たまよりひめ)命と外祖父の賀茂建角身(かもたけつのみ)命の二神を祀る。

なぜ「子」と「母と外祖父」という組み合わせなのだろうか。結論から言うと、ここは藤原氏の社でなければならない。「カモ」の簒奪者は藤原氏である。「子」とは聖武天皇および孝謙天皇、「母」とは宮子夫人および光明皇后、「外祖父」とは藤原不比等である。すなわち、京都の両賀茂社とは、天皇家と藤原氏の緊密な関係をシンボライズしたものである。  

ではなぜそれが「カモ」でなければならないのか。それは最高の「臣」が「カモ」の葛城氏であるからだ。その名のりは葛城氏のポジションを藤原氏が引き継いだことを宣言するものである。思惑どおり、平安期の摂関政治はこのモデルどおりに実現する。また、「賀茂祭」(葵祭)は最高の祭り(神祇官の「中祀」)として貴賎の別なく尊崇を受ける。  

藤原氏の葛城氏への執着を示しておこう。不比等の娘・光明子を皇后にお立てになるときの聖武天皇(不比等の孫)の勅令(実質的に藤原氏が作成)で、光明子がイワノ姫になぞらえられているが、これは同時に父不比等をソツヒコに、鎌足を武内宿禰になぞらえたことに他ならない。

▼神の流刑  

一般には葛城の神と言えば、「一言主神」が著名である。葛城坐一言主神社がそれであるが、その祭神は事代主命神である。また、葛城の下賀茂・鴨都味波神社の祭神も事代主命神である。葛城においては、アジスキタカヒコネ命神に並ぶ重要な神であることが知れる。事代主神は大国主命神の子で、「葦原の中つ国」で父をたすけて国政に当たり、国譲りを父にすすめたと言う。「国つ神」の主神の一神と言ってよい。

さて『古事記』には、雄略天皇がこの一言主神と出くわされる話がある。天皇はまず葛城山で猪と出会われる。そのときは木に逃げのぼられ、難を避けられた。この猪は言うまでもなく葛城の神である。大和武尊が伊吹山で白猪と出くわされ、それは「神そのもの」ではなく「使者」だと見誤られ、ついには死に至られた先例がある。雄略天皇は賢明にも「この猪は神そのものだ」と見抜かれた。  

次に、雄略天皇が供の宮人たちを引き連れて葛城山を行幸されていたところ、向こうから天皇の行列そっくりの一団と出会う。双方が矢をつがえて一触即発の雰囲気になるが、相手がついに「私は葛城の一言主の大神だ」と名のられる。すると、天皇は畏れかしこまれ、武具や衣服をこの神に献上されたと言う。葛城の神とは天皇さえも畏れかしこまれねばならぬ神であった。  

「一言主神」とはいかなる神か。「事代主神」は「言代主神」である。そしてその「言」とは神託に他ならない。つまり「一言主神=言代主神」であり、葛城の神が託宣する姿である。その本体は主神・アジスキタカヒコネ命神でしかあり得ない。  

このエピソードの末尾には「一言主の大神はこの時はじめて出現された」とある。紀記の神統譜からはみ出した神であることが証されている。すなわち、葛城の神は別系譜の神である。ゆえに、アジスキタカヒコネ命神や事代主神が大国主神の子ではあり得ず、のちに造形されたものであることがわかる。  

『日本書紀』にも同様の二話がある。しかしそこでは、猪は雄略天皇に踏み殺されるし、「一言主神」も天皇を畏れ敬っている。さらに『続日本紀』および『釈日本紀』が引用する『暦録』によると、雄略天皇は無礼な葛城の神を土佐へ流刑に処されている。『土佐国風土記』にもこのことは記されており、高知市には流刑された「一言主神」を祀る土佐神社がいまも存在する。その後、称徳天皇の御代、764年になってようやく葛城氏の末裔・高賀茂朝臣田守らの願いが叶えられて、高鴨の地に葛城の神は復している。  

文字どおり「流刑」された神はこの神だけだ。しかし神を流刑するとはどうすることなのだろうか。『暦録』には「時に神、天皇と相ひ競ひ、不遜の言あり。天皇大いに怒り、土佐に移し奉る。神、随ひ降り、神の身すでに隠る。祝をもってこれに代え、…」とある。注目すべきは最後の「祝(はふり)をもってこれに代え」である。「祝」とは何か。神職である。  

実は、古代の葛城山から流刑に処せられた「祝」がいた。役の行者である。文武天皇の御代、699年「賀茂」の「役」(=祝=神奴の長)の小角が伊豆へ配流された。小角は葛城の神に仕える「祝」であって、これが「神の流刑」の意味だった。すなわち、祭祀の廃絶である(残念ながら筆者には、なぜ神が土佐で、小角が伊豆なのかは明らかにしかねぬ)。

▼高城(木)の神・タカミムスビ神  

葛城の神との逍遥もそろそろ終わりとしたい。しかし最後にもう一つだけ奇妙な話を付け加えなければならない。そもそも「葛城」とはどういう名であろうか。「葛」は蔓(つる)の「かずら」と思われがちだが、むしろ「桂」、すなわち落葉種の高木と解すべきではないか。また先述からの「高城」は「高木」とも書き習わされる。つまり、「葛城」とは「高城=高木」に他ならないのではないか。  

そうだとすると、「葛城の神」とは「高木の神」だということになる。ところが「高木の神」と称される高貴な神がおられる。最高の皇祖神である「タカミムスビ神」である。そう言えば、前に挙げた葛城の五大社に「高天彦神社」があり、この祭神がタカミムスビ神であった。  

実は、藤原氏の前身である中臣氏も「タカミムスビ神」の信仰を持っていた。名はともかく「高木の神」である。葛城氏も名はともかく「高木の神」の信仰を有していた。どちらが先に「タカミムスビ神」と称したのかは知れぬが、あるいは名族・葛城氏(そして蘇我氏)の神であったからこそか、紀記編纂を主導する藤原氏(と天皇家)は「タカミムスビ神」を最高神の一つとした。それどころか、天孫降臨で「タカミムスビ神」が果たす役割は、地上での藤原不比等そのものである。もしかすればだが、「タカミムスビ神」も藤原氏による葛城氏からの纂奪であったのかも知れない。

[主な典拠文献]

上山春平『神々の体系』中公新書

上山春平『続・神々の体系』中公新書

上山春平『埋もれた巨像』岩波・同時代ライブラリー

上山春平『天皇制の深層』朝日選書

直木孝次郎『奈良』岩波新書

川添登『「木の文明」の成立』NHKブックス

コズミックホリステック医療 俳句療法

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